第4話
そして一年が経った。待ち焦がれていた部活動移動期間である。
そんな新しい息吹が目を覚まし、初々しい顔ぶれが新入生として現れる。周りもそんな桜風のプレッシャーからか、少し緊張して面持ちで日々を過ごしていた。
そんな新しいさの満ちる雰囲気の中、私は
……自己ベストを13秒2まで伸ばしていた。
いや、わかっていた。自分の性格はわかっていた。絶対入部なんかしたら中途半端にできない性格なのは自分が一番よく知っていた。
夏の厳しい暑さでグラウンドに滴る汗の量も尋常じゃない時でも、それでも最後まで走り切っていた。夏を乗り越えていた。
冬の手が切れるんじゃないかと思うぐらい冷たい時だって、誰よりも朝早くに起き、準備を始め、練習を積んていた。冬に勝ち続けていた。
先輩の引退式でも学年で一番号泣していたし、雑用なんか、部長時代の癖が抜けきらず、自ら進んで引き受けたりしてたし、練習だって誰よりも真剣に一生懸命で走り込んでたし。
そんな頑張りのせいか、戦友と読んでいいほどの友達もたくさん増え、毎日が充実した日々に満たされていて。
まあおそらく最後まで自分が大会には出れそうにもないけれど、それでも。
私なりに真剣に仲間と何かを取り組んでいることが大きな楽しみになっていった。私は超青春をしていた。
……まあ、要約するとです。
陸上部を辞めるなんて言い出せないぐらい私は充実してしまっていたのです。
そして、新しい新入生が入部してくる頃、
私の頭に去年の決意などは、かけらも無くなっていた。
あれからまた一年強が経ち、体も立場も少しだけたくましく変わって
『全国高等学校陸上競技対校選手権大会』……の南関東地区大会。
いわゆるインターハイの選定戦。
——なぜか、そこに私は立っていた。
一生自分には無縁だと思っていたその場所に、
私は立っていた。
しかし、私は、自分の実力だけでこの場所にいるのではない。
リレーのチーム補欠として、
大怪我をしてしまった選手の代わりとして、
そのためだけに私はここにいるのだった。
いわば代役。代わりの選手である。
私の順番は三番目。
言ってはなんだけれど、四人の中で最も重要ではない番数で、影響力の少ないポジション。
わかっている。自分がここにふさわしくない人間なのは、誰よりも自分が知っている。
右隣に並んでいる選手を見た。
顔がなんとなく険しくて、真剣さが非常にうかがえる。
足も……私なんかより全然長い。お腹周りも全くと言っていいぐらい無駄な脂肪がない。
――つまり、すごく足が速そうだった。
左隣に並んでいる子を見る。
肌色が黒く、一瞬人種が違うのかと思ったけれど、そのあどけない顔立ちがしっかりと日本人の血が流れていることを物語っていた。
相当炎天下で練習を積んだのだろう。スパイクは私のと比べてもものすごく使い込んでいるのがわかる。
――つまり、めちゃくちゃ速そうだった。
私は前を向いた。
そして大きく深呼吸。
足を大きく開いて前屈をし、そのまま前後に体重移動。
アキレス腱を伸ばす体勢を取りながら、同時に腕周りのストレッチ。
最後に首回りをぐるりと一周まわして、また、前を向く。
「……よし」
これが私のルーティンだった。もう中学の頃からだろうか。そのぐらい続けている。
私なりの気持ちリセット方法だ。
目を瞑る。
……確かに周りは速そうだし、事実とても速いのだろう。
そんなことは当然なのだ。
ここにいるのは全員が全員、自分が一番速いと思ってる選手なのだ。
だからそんな当たり前の事実に臆するよりも、そんなことにビビるよりも
私はただ——走ればいい。
周りなんか気にせず、前に進めばいい。
私の高校三年間。
陸上歴六年間。
その経験を全部出すだけでいい。
それだけでいいのだ。
——パンッ!
スタートの合図が響く。
今まで何度となく聞いてきた音だったけれど
今日の音は——今までで一番自分の深いところに響いた。
私のチームの一番手が迫ってくる。彼女は……速い。
どんどん後続と差をつけていく。
そして二番手の子に渡る。
うちのエースだ。
もちろん彼女も早い。圧倒的と言っていいぐらい早い。
私は後ろに向けていた顔を前にし、カウントを開始する。
3…………2…………1……Go!
私は走り出した。
前を向き、それでいて手は後ろにしながら走り出す。
順位は…………きわどいけれど、多分一位だろう。
全員の二番手の選手が三番ゾーンにたどり着く。
そして、ほとんど同時に全員が走り出した。
そんな混戦の中、私は抜き出し
何百、何千、何万回と練習したバトンパスを
――今、受け取った。
*******
――ガチャ
扉を開ける音が家中に響く。
「あら、おかえりなさい。早かったのね」
「うん、ただいま」
「早くお風呂はいっちゃいなさい。もうご飯できているわよ」
「うん……あ、今日はご飯いい」
「あら、どうして?」
「んーと、食欲ない感じ」
「そ。ならお風呂だけでも入ってきて、お父さんそろそろ帰ってくる頃だと思うから」
「うん、わかった~」
私は部活用具を自室へと運び終え、そのまま風呂場に向かった。
シャワーをひねり水を出す。
水はまだ温かくなる途中でこ凍えそうになるぐらいに冷たかった。
髪に、頭皮に染み渡った。
頭が痛む。
あまりの急激な温度変化に体が震えるのがわかる。
それでも今はこの冷たさが何よりも心地よかった。
いつまでも……冷たいままでいて欲しかった。
熱くなった目や頭。
体の火照りや膝小僧。
それらすべてを冷やし切ってくれている……この冷たさが
痛みが残る膝に染み渡ってくれる……この水が
汚れた体の私を、綺麗に洗い流してくれる……この流れが
——泣いているかどうかを、曖昧にしてくれる
助かった。ホント助かった。
母が、陸上に興味なくて、母がこちらを向かないで、母が会場にいなくて、
――本当に助かった。
「――うっ……うぁぁぁあ……」
シャワーの音が、この場所を支配する。
そんな空間に、少しだけの感謝と大きな孤独感を感じながら
私は声を殺し続けた。
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