第2話

 雨はこの地にとってなんの意味も成さない。

 ただ泥濘を作り出し、その後に濃霧を発生させる。緑は育たない。草花や木々が育つだけの栄養がこの地には無いからだ。

 泥を踏みつけ、靴と外套の端を汚して歩く男が一人。降雨と共に発生した霧も幾らか晴れて、男の目には木の皮を噛る痩せた鹿が映っていた。

 しかし男がその鹿に手を出すことは遂には無かった。再び歩き出した男の存在に気付いた鹿は、しかし一瞬男の方を見るだけで再び木を噛り始める。

 貴重な鹿肉を前にして男が何もしなかったのは食欲が満たされているからでも、ましてや慈悲等では決してない。それはあの鹿が既に泥に潜む怪物の手中にあると男には分かっていたからだ。事実、男がその場を離れてすぐ鹿は地面から現れた痩駆の怪物の群れに捕まり、貪り食われた。

 くちょくちょと泥を踏み鳴らし、男は歩く。直に村に着くだろう。男が以前まで滞在していた町から続く村々を辿り、次の村が最後となる。

 そして薄くかかった霧の中を男は歩き続け、やがて家屋の群れが彼の目に留まった。

 直に日が暮れ始める。夜は怪物たちの世界。男は歩調を速めて、寂れた村へとその足を踏み入れる。

 湿気と経年による劣化で軒並み家屋は痛み切っており、今にも音を立てて崩れ去りそうなものばかりだった。けれど今のこの世の中にあって何処も村の程度ではこのようなものである。男はこの様子を何ら不思議とも不憫とも思わなければ、最悪村の中であれば野宿でも構わないと考えていた。

 人の気配は村内には無く、辛うじて家屋から生活する気配が感じられた。無人という訳ではないらしい。男は暫し村内を歩いて回り、一通り見た後、最も大きい家屋へと向かい、その扉を叩いた。

 そして出てきたのは老齢の男性。しわの多く入った顔をしかめて、老人は男の姿を頭の先からつま先まで舐めるように見た後、漸く何事かを男に尋ねる。男は行く当てが無いこと、寝る場所が無いことを老人に伝え、泊めてもらえないかと外套の内側に引っ掛けてあった皮の小袋を取り出して老人に手渡す。

 老人がその小袋を引っくり返して中身を手のひらに開けてみるとそれは十枚ほどはある金貨であった。男はこれでこの家に泊めてほしいと言う。しかし老人は首を縦には振らなかった。しかしそれはどうやらこれでは足りないという貪欲の表れという訳ではなく、村を出るつもりも無く、生い先も短い老人にとって金貨は最早必要ではないからということらしい。代わりに老人が男に要求したのは食べ物だった。

 男は手持ちのパンと干し肉、木の実と果実が詰まった鞄を肩から外し老人に金貨の小袋と交換に手渡す。そうしてようやく、男は今晩の寝床を確保することが出来た。

 男の聞くところによれば、老人には妻が居たが、畑仕事の最中に怪物に襲われて亡くなったという。男はよくある事だと思いながらも口にはしなかったが、老人は干し肉に気を良くしていたこともあって、よくある事だからと男に笑ったのだった。

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