3「アパート」

 朝靄にため息はよく似合う。そんなポエムを読んでいる暇もなく、慌ただしくトースターに食パンを放り込み、長い朝のトイレにいそしんだ。スマートフォンを弄りながらのトイレは、彼に文句を言われ続けた行為だったけれど、これについての憂いがなくなったのは、確かに彼と別れて変わった事柄の一つだった。

 三月はライオンのようにやって来て、子羊のように去るという。春先の目黒川を歩きながら、パンプスの音は意味ありげに桜の間を縫っていく。目黒線が私の頭上を通り過ぎ、豪快に花びらを蹴散らした。

 向こうに見えているビル群を抜けて、山手線の駅に乗る。大塚で降りて十五分、北に歩いて行けば私達の事務所が見えてくる。


「おはよう。ミチコ、起きて」

 二つの向かい合わせのデスクと、そばにある黄色いソファ。予定を書き込むホワイトボードの他にはなにもないこの部屋。安く借りられたこの事務所に寝泊まりし続けている友人は、大口を開けていびきをかいていた。

「……ちょっと……」

 ソファと毛布に挟まれている彼女の元へと歩み寄っても、眉一つ動く気配はない。私とはまったく違う、金色に染められた髪の毛と共に眠るミチコは黄ばんだ歯を豪快に見せつける。

「……はあ」

 私と恋人の間にどんないざこざがあっても、彼女はまったくというほど気にもせず、こうして眠っていたのだろう。ソファテーブルに広がったミチコの晩餐は、コンビニで売られている豚バラ肉をニンニク醤油で炒めた総菜と、併せて買った金麦とどん兵衛だった。ゴミは片付けさせるにしても、今すぐにたたき起こす気にもなれないまま、私は自分のデスクに向かい予定を確認する。

 恵比寿のイタリアンには明日、どうせいつもの予算を提示されるのだろうからこちらも用意はできている。今日はいつものリストを確認して、先方に在庫の量を聞いておけばそれで構わなかった。時期を考えたらもう少し忙しくても良いのかもしれないけれど、まあのんびり電話で情報交換しながらとっかかりを見つければ良いだろう。

 なにより、今は一生懸命に業界を奔走するより、のんびりと自分の身の回りを整理しておく時期なのだろうという気がした。どんなことをしても、がむしゃらというよりは自暴自棄に近いつっぱしりをしてしまいそうな自分がいて、そこからとにかく目を逸らしたかったという要因もある。


「ミチコ、いい加減起きなさいよ」

 彼女に回す翻訳の仕事がまとまりを得た頃、時計は十一時を回っていた。彼女の口臭がこちらまで届いてきそうな気さえして、そろそろそれを閉じてもらいたかったというのが本音だけれど。

「うぇー?」

 子供のように目をこすり、三十路を越えた金髪は上体を起こした。ボッサボサの髪の毛は、陽の光で光合成をするように煌めいて、埃が宙に舞って床に落ちていく。

「このレジュメ、日本語にしておいてよ。あと昨日頼んだ分ももう少し進めておいて」

「あ~、うん。りっちゃん今何時?」

「十一時」

「え? うそ? もうワイドナショー終わってるじゃん」

「あれ日曜日でしょ」

「今日何曜日だっけ」

「酒で記憶飛ばしたの? しっかり月曜日よ。バカ」

「あー、じゃあ昨日の時点で見過ごしてたのか~」

 欠伸を一つ、そしてミチコは給湯室へと引っ込んで身支度を始める。別に仕事をこなしてくれればどんな生活をしてくれても構わないけれど、ここまで私と違った基準で動いているとどこか不安だ。そんなこと、彼女は気にもしていないのだろうけれど。

「そういえば昨日、どうだったの?」

「昨日って?」

「鎌倉行くって言ってたじゃん。私を連れて行かないなんて、りっちゃん冷たい」

 あんなところに連れて行けるかと文句を垂れて、それからどう答えようかと考えた。

「ん~、まあ普通だったよ。普通に会って、ちょっと喋った」

「ほっか」

 歯ブラシを細かく動かしながら、適当そうな声で彼女は返す。でも、努めて適当そうに振る舞っているのだろうなと、無表情から良く分かった。

「堂本くんは? なにか連絡あった?」

 話題を変えたつもりだろうけれど、個人的にはそっちも目下炎上中の案件だ。

「昨日家に来たよ」

「ほう」

「期待しているようなことは起きなかったわよ。単純に荷物を取りに来ただけだったみたい。合鍵も置いていったし……」

 ペッと流しに唾を吐いて、ミチコは歯ブラシと手と顔を洗った。

「……じゃあ晴れて私と同じ、独り身って訳だ」

「まあね。年齢的にはまだ私の方が余裕あるけど」

「あんただってアラサーでしょ?」

「二十六よ」

「アラサーじゃない」

「え? まだでしょ? 二十八とかからアラサーって言うんじゃない? まあこの言葉も古いけどさ」

「……本気で言ってる?」

「もちろん」

 やれやれと肩をすくめて、彼女もデスクに座る。加齢、不摂生と無精が重なっているはずなのに、ミチコの顔はかなり整っている。大学時代に男を漁り回っていた頃から、彼女のはつらつとした顔は輝いていた。私と違う、金色だ。

「三年くらいだっけ」

「ミチコ、計算までできなくなったの? 私は三十歳までまだ四年あるわ」

「……じゃなくてさ」

 ホチキス止めされた書類に記されたフランス語をぺらぺらとめくり、こちらを見ないで呟いた。

「堂本くんと付き合って、三年くらいだったでしょ?」

 窓が開いていたようだ。私もミチコも、花粉に悩まされることもないし、今日は暖かかったから気がつかなかった。風が吹いて、視界に私の銀色が混じる。

「……そうね……」

「……今日は上で食べようか、ご飯」

 ありがとう。と言いたかったけれど、どういう流れならばこれを自然と言えるのかと、それだけ考えて、思いつかなかった。


「あんた、今日なんにも仕事してなくない?」

「重要な仕事でしょ? 腹が減っては仕事はできぬってね」

「聞いたことないわよ」

「これも故事の翻訳ってね。はい、こっち持って」

 ミチコが事務所の屋上に置かれている丸テーブルに、テーブルクロスを広げた。私も端を持ち、丁度良い格好に仕上げる。事務所から持ってきた果物や、即席のパスタなんかをぶちまけ、春の空気に解き放つ。

「いただきます!」

「いただきます」


 ミートソースが鼻を抜けて、昼下がりの空は完全な青色だった。

「美味しいね、やっぱり外で食べた方が美味しいんだよ」

「そうかもね……」

 咀嚼一つする度に、色んなことを思い出していた。大塚に事務所を持ってから、こうやって食事をするの、いったい何回目なんだろう。

「……堂本くん、最後になにか言ってた?」

 ミチコは絶対に、私に聞いて大丈夫なのかと疑問に思ったことを、物で口を塞ぎながら言う。そうすることで、答えたくない質問を無視しやすいように、言葉の価値を調節しているかのようだった。

 それが、こういう昼には痛いほどに染みてくる。

「……フクロウって、猛禽類だって知ってた?」

「へ? うん、バッシバシほ乳類とか鳥とか食べるんでしょ?」

「私、やっぱりフクロウみたいだって言われた。他人を食べて生きてるんだろうって、笑ってたよ、彼」

 良く分からないと首をかしげるミチコを置いて、私は屋上の端、柵の前まで歩いていく。五階建ての小さなビルは、東京の風景ではまるで目立たない。それでも、ここから見える景色は、遠く広がる摩天楼達を一望できる特別に思えた。


 柵に体重を預け、私は空を仰ぎ見た。

「ミチコ、こうやってなにかに体重を任せてさ、ある瞬間にこれが消え去ったら、私は落ちて死ぬんだよね」

 椅子から立ち上がり、そっと彼女は私の隣、同じ柵に身体を寄せた。

「だろうね」

 彼女は私と違い、地上を走る車や人に目を向ける。

「ってことはさ……」

 また、風が吹く。


「結局、私にとっての彼は、死ぬ価値もない人だったんだなって、思うんだよね」


 風が止むまでの間、私もミチコも、髪の毛を押さえているだけだった。


「そういうものでしょ」


 そして、訪れた静寂に、彼女は言葉を落とした。


「そんなものでしょ」


 青の中にポツリと桜色。どこかから舞った桜は、たった一人、こんなところまでたどり着いていたらしい。

 私は少し、やっと泣いた。



 私を抱き寄せる彼女の、ちょっと臭い匂いの中で、私は呟いた。

「あのアパート、出ようと思うの」

「うん」

 銀色は撫でられて、閉じた翼のように震えた。

「それがいいと思うよ」

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