4「シェルフ」
大学生になって、冬の間それなりに苦労をして入ったキャンパスを歩いていると、夥しい数のチラシを抱える羽目になった。今までの人生で、ここまで人に囲まれることなんかなかった。なんて意味の分からない感慨にふけりながら、私は新しい校舎のラウンジでチラシをリュックに詰め込んでいた。
「ふう……」
心なしか、だけれども、私のこの銀髪もそう大学では目立たなくなっている。もちろん怪訝そうな目は気にならないていどには受け取っているけれど、それでも奇抜な髪色はちらほらと群衆を彩っているし、私もその目立ちたがり屋の一人として、取るに足らない存在と見なされているのが心地よかった。
ガイダンス期間が終了すれば、無理にチラシをばらまくサークルもなくなり、歩くのは相当楽になった。私の背の小ささを揶揄する声もたまに聞こえてきたけれど、イヤホンをする時間を多くすればその声もなくなった。
おじさんとおばさんの家も出て、仕送りと奨学金で一人暮らし。いかにもなにかが始まりそうな設定に身を置いていたのにも関わらず、夏休みに入るまでキャンパスライフにはさっぱりなにも起こらなかった。講義と徒歩十五分のワンルームアパートを往復するだけの毎日だった。
流石にこのままでは、なんのために大学に入ったのか分からなくなりそうだと思った。歴史学を学びたいと思って入った大学でも、本気で研究しようと思っているわけでもなかった。講義をいくつか受け、レポートを何本か出せば、すぐにそれは自覚した。だから、講義以外でもなにか行動を起こさなければ鳴らないと、誰に言われずとも思い立っていた。
そこで行き当たったのは大学が会場になった、高校生向けの模擬試験官のバイトだった。掲示板に貼り付けられた電話番号に声を出せば、またたく間に採用は決まった。 朝から夕方まで、ほんの少しの規則性だけをもって教室を徘徊したら紙を集める。それだけの仕事だった。カンニングペーパーのようなものを見ている人もいたけれど、面倒だから見逃しておいた。
「ねえねえ、ちょっとこの後時間ある?」
夜になり、結局なにも起こらなかったなと一人帰ろうとしていたとき、私に声をかけた人がいた。眩しいくらいに髪の毛を染めた、明らかに私よりも大人びた人だった。
「何人かで飲みに行こうと思ってるんだけど、お姉さんもどう?」
スーツ姿で男女六人、知り合い同士もいたようだけれど私と金髪の女性ともう一人、寡黙な男の人は辺りに初対面の人間しかいない状況だった。
「私ミチコっていいまーす。適当に呼んで~」
アルコールを飲みたかっただけだと言いながら、彼女は初対面の男にべたべたとボディタッチを繰り返し、赤らんだ顔を好き勝手に近づけたりしていた。私と寡黙な男性は、席の隅っこで自らの飲み物に視線を注ぎ、ろくな会話もしないまま時を素通りしていた。
後で聞いた話だけれど、ミチコはこの頃、浪人や入念や休学を繰り返しながら自堕落な生活を続けていたのだという。残り二単位で卒業できるというのに、モラトリアムの延長のためにありとあらゆる手を尽くす放蕩娘。彼女を表すならそれがぴったりだったと思う。
しかし、その日の男あさりは失敗に終わり、彼女に蓄積されたのは経験人数ではなく大量のアルコールだった。弱いくせに飲もうとするのは三十になっても変わらないけれど、この頃はその傾斜はもう少しキツいものだった。彼女は近くに家を構えていた私の元へと転がり込み、枕を吐瀉物で汚してから便座カバーも汚した。
「いやーごめんね。私お酒弱くってさ」
「はあ……」
酔っ払いの介抱なんてしたことがなかったから、一晩明けた朝日の中、私は疲弊しきっていた。こんなに他人と同じ時間を過ごしていたこともなかったのに、よりにもよって吐き戻し続ける人間がその相手とは。
若干のめまいを覚えながら、私は彼女に水を差しだして、しばらく彼女の言い訳に相づちを打っていた。
「ところでさ、あなた、名前なんていうんだっけ? 忘れちゃってさ」
「……モベヤマリツです……」
一つも申し訳なさそうに人の名前を忘れるこの人は、どうやったらすぐに帰ってくれるのだろうかと私は考えていた。
「じゃあ、りっちゃんって呼ぶね。これからもよろしく」
「……はあ」
ここを都合の良い溜まり場にされたらたままったものではないと、今度連絡が来たりしても無視をしようと私は心に誓った。その瞬間は。
「で、その銀髪ってどうしてるの? かなり綺麗な色だけど……」
「地毛です」
まあ、誰もが私に聞くことだ。適当に生まれつきがどうのとか言っておけば、たいていの人はそれ以上なにも聞いてこない。
しかし、私はそのとき、少しイライラしていた。
「どうやら親の虐待? とかあったみたいです。覚えてはいないんですけど、物心ついたときからこうでした。だからあんまり触れないでください」
こんな態度を他人取って良いのだろうか。言いながら私の心臓は高く脈打っていた。言ってやったと、面映ゆく誇りを抱いていたりもした。
「すっご、漫画の設定みたい」
「は?」
聞き間違えかと思うくらい、彼女は本気の声色で言っていた。
「面白いね。りっちゃん、私の友達になってよ」
私にそんなこと言ってくれたのは、人生でミチコが初めてだった。驚くぐらいにあっけなく、私の拒絶は拒絶された。
ほどなくして、私は彼女に振り回されるように夏休みを過ごした。年中夏休みみたいなものだった彼女にとっては、さして特別な時間ではなかったかもしれないけれど、私にとっては生まれて初めて他人と過ごした夏休みだった。
日雇いのバイトに付き合わされたり、ナンパ目的でひたすら縁日を渡り歩いたり、意味もなく彼女の車に乗せられ稚内まで数日かけて連行されたりした。へきへきし、顔色が悪くなった私を指さして笑い、とにかくミチコは楽しそうだった。
私の部屋のシェルフには、彼女と撮った写真がどんどん増えていった。空っぽだった私の部屋に、彩りと彼女の持ち込んだアルコールが増えていく度、嬉しさといい知れない恐怖に似た感情が溢れてきた。
「ああ、これってつまり、私はミチコのことを失いたくないんだな……」
そんなこと、今まで誰に思ったことがあっただろうか。悔しいけれど、私は彼女のことをかなり好いているらしい。
同時に思い出したのは、結局私は、未だに父の病棟に面会に行ったことはないなという事実だった。自分のことを幸せかもしれないと思った途端、鎌倉の見たことのない海辺が想像された。
大学の講義でミチコと一緒になることはなかったから、夏休みが終われば毎日のように彼女と一緒というわけにはいかなくなった。
少し寂しいけれど、彼女と過ごしていない時間すら、友達ができると違う風景見えたような、不思議な世界として大学は映っていた。
「冬はどこ行く?」
「りっちゃんの行きたいところでいいよ~」
そして、私はレポート資料のために図書館に行って、ふと懐かしくなったからと「ふくろうの本」を探して見に行った。
ただ、私の背ではぎりぎり届かない高さにあったそれに、はあとため息が出て、無力ながらに手を伸ばした。
まあ、手のひら数枚分と届かない。
「どれが取りたいんですか」
聞いたことがある声だなと声のした方向を見た。目が合った瞬間、私の口から良く分からない音が出た。
「えっと……あのときの」
「はい、モベヤマさんですよね? お久しぶりです」
ミチコが私を連れ出したあの飲み会。私と同じように誰とも話せないで、ずっと端の席で飲み物だけを眺めていた男性が、そこにいた。
「このシリーズ、僕も好きなんです」
イギリス住宅の巻を差し出して、彼は似合わない大仰で笑った。
私も、同じように似合わない笑顔をぶら下げた。
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