2「キッチン」

 母親が死んだのは、私が三歳の頃だった。

 死因は心不全。要するに死因不明ということと、ほとんどその言葉の意味は変わらなかった。

 第一発見者は父親、ということなのだろう。母の死を看取ったということなら、正確には私がそれに該当するのだけれど、なにぶん私はあまりにも幼かった。幼すぎた。なにせ母がキッチンで倒れた瞬間、私はその場に居合わせていたのだから。

 その時のことを私はまったく覚えていない。すべては父から聞いた話だ。このことを話しているときの父は、いつも怒っていた。私をなじる調子で、明らかに敵意をもった目をしていた。


 母は料理の中でも特にお菓子作りが大好きだったらしい。職場で義理のチョコレートを配るときですら、彼女は自らの手で湯煎し、生クリームと混ぜたものを用意していたらしい。

 父と結婚した後母は、いつも朝食のときに使っていたジャムを手作りしていた。マーマレードジャム、ブルーベリージャムなんかは鉄板だった。


 その日も、彼女は大量の果物と砂糖を煮込んでいた。夫のために、そして最近パンに嵌まっていたという娘のために。キッチンに立っていた母親。自分で勝手に作っただけかもしれないけれど、髪を結んでコンロに向かっているその背中を、なんとなく覚えているような気がする。


 推定時刻からすると、それは昼過ぎに起こった。

 突然胸を押さえた母は、甘い鍋をひっくり返しながら倒れこみ、助けを呼ぶこともできずに息絶えた。側にいた幼い私は、母が眠ってしまっていたと思い込んでなにもしなかった。

 父が家に帰ったときは、母のそばで冷めた鍋を抱え、私がイチゴジャムを手ですくって食べていた最中だった。親の監視がない中、好きなだけ好物を貪って良いのだと、さぞ私はご満悦だったことだろう。満腹なんてつゆ知らず、飽きることのない食欲を満たそうと躍起になっていたようだ。


 口元は真っ赤に、父の目には母親の内臓を食べているようにしか見えなかった。本人が私に喚き散らしていたことがある。

「お前が母さんを殺したんだ」



 小学校に入学するまでの記憶は、私にはほとんど残っていない。幼稚園や保育園に通っていた記憶もないから、きっと父の帰りを待つことに、すべての時間を費やしていたんだろうと思う。そして、物心つくころには私の髪は真っ白になっていた。本もゲームも買い与えられず、外に遊ぶこともできなかった私が手に入れたのは、誰も持っていないような銀髪だったのだ。

 中学校に入学する頃、父と私は離ればなれに暮らすことになった。理由は単純だ、近所から苦情が来たのだ。父のしつけに泣きわめく、私の声がうるさいと。

 役所の人達は、過剰なまでに私に優しくしてくれた。私達の家に彼らが踏み込んだその晩、私が泊められた場所はどこだったのだろう。私の髪の毛を見ても、特にコメント一つしなかった職員達に、初めて私は「大人」というものを感じていた。


 会ったこともない父方の親戚が、なんの因果か引き取り手となってくれたから、神奈川のベッドタウンで新しい生活を始めた。おばさんもおじさんも優しくて、優しすぎるからよそよそしかった。腫れ物に触るように私に接して、私もまた、中に溜まった膿をぶちまけないよう、丁寧に身の置き場に気を遣った。父は鎌倉の精神病棟に入院しているとだけ聞いて、私はそれから長い間彼に会いに行くことはなかった。


「そんなこと、しなくても大丈夫なんだよ?」

 おばさんは、私が家事をしているといつもそんなことを言いながら横に立った。だったら洗い物を溜めないで、洗濯物は夕方前に取り込んだ方がいいと思います。言わなかったけれど、本気で不満に思っていたわけでもないし、言う理由だってなかった。小学生の頃から、もっぱら家事は私の専売特許になっていた。もうやっていないと落ち着かないという段階まで、家事の根は私に深く食い込んでいたのだ。

 別に、誰かに好感を持って貰いたいと思っていたわけじゃない。おばさんもおじさんも、多少私が怠けていたってなにも言わないし思わなかっただろう。そんなの知ってる、なにかが不安だったわけでもない。ただ単純に、なにか仕事をこなしているだけで私はなにも考えずに済みたかった。誰のためでもなく、私は私のために時間をつぶしていた。

 学校でだって同じことだった。公立中学校にいた生徒達は、私の髪の毛を一瞥し、怪訝そうな表情をしながらも、苛烈ないじめや差別の対象に据えることなんかはしなかった。理由は単純だった。あまりにも異質な存在が集団に入れば、それを攻撃する者すら異質なものになってしまうのだからだ。ただ、進んで私の友達になってくれる人も、当然だけれどいるはずもなく、私はひたすら事務的に学業をこなし、読んだことのなかった本に目を落としていれば、こんな髪の毛でも教室で目立たないでいられるということに気がついたのだ。やっと一人前のカメレオンとして、私は人生の一歩を踏み出したのだ。

 お気に入りだったのは、「ふくろうの本」という歴史を図版で説明するタイプのシリーズで、イギリス住宅に関するパートは、貸し出し履歴のほとんどを私の名前で埋め尽くしたほどだった。

 とにかく言葉数は少なく、目立たず。自分の仕事をこなすだけで、時間をつぶすことに熱中していればなにもなく毎日は過ぎていった。

 思い出なんてなにもなかったけれど、一度だけ、私が取りたくても届かなかった本を取ってくれた男の子がいたことだけはなぜか鮮明に覚えている。今でも私の背は百五十センチにギリギリという数字だから、当然本棚の上までは手を伸ばしても届かない。同じクラスの男の子、たまたま通りかかっただけの彼が私に話しかけ、山内マリコの『ここは退屈迎えに来て』を渡してくれたのだ。中高生の間、男子生徒と話した機会なんてこの一回しかない。

「ありがとう」

 上手く言えていた自信なんてないけれど、私にとって大切な記憶の一つだ。


 卒業式の日、その男の子が一人で家に帰っていくのを、私は追って歩いた。目立つ見た目の私だったから、かなり遠くから、絶対に気づかれないようにして歩いた。私の家から正反対の方向にある家に彼が入っていくのを見届けて、そういえば彼も私も、卒業式だというのに一人と一人だった。誰も一緒にいる相手なんていない、人によっては悲しく映る青春の区切り。

 桜並木を肩で切って、私は振り返っておじさんとおばさんの待つ家へと歩き出した。本を取ってくれた男の子は、家の都合で東北に引っ越すことを、誰かの噂話で聞いていた。でも、なにも話すことなんてなかったから、私はなにも声をかけられなかった。


 家では、キッチンに向かっていたおばさんがあれこれと私に話題を投げかけた。家では学校とは違い、話しかけられればきちんと話に乗ることを心がけていたから、おばさんも世間話の相手として私をどんどん使ってくれたのだ。

「今日はめでたい日だからね、ごちそう作るよ!」

 あどけなく笑うおばさんを見ながら、私はこの人がいつか胸を押さえ、倒れてしまうんじゃないかと頭の片隅で想像を膨らませていた。そうしたらまず救急車を呼んで、心臓マッサージと人工呼吸を繰り返す。骨が折れるくらい、強く体重を乗せるのがコツだと、実習のときに講師が言っていた。本にも同じことが書いてあった。

 今度は上手くやれるだろうと確信を持ちながら、高かった野菜が安くなってきたのだと嬉しがるおばさんの顔色をうかがっていた。

 彼女が営んでいるキッチンは、未だにしっかりと土台も堅く積もっていた。家具や食器に滲んでいる年輪の数々は、私の直接の家族では育めなかった歴史だった。なにが違ったのだろうと首をひねったけれど、答えはさっぱり見つからなかった。


 中学校三年間で、私は一回も父親の顔を見ていなかった。会いたいとも思わなかったけれど、これで良いのだろうかとそこここに積もる疑問符だけが、私の背中に覆い被さってくるようだった。

 私はまだ、なにも知らない小娘だった。

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