梟木
武内颯人
1「テーブル」
アルコーブの慟哭を、私は持て余したまま頭を抱えた。窓から流れ込んだ風は、春の様相をたたえ、暖かく部屋を彩った。花粉なんかを気にしなくても良くなっているから、私は存分に外と部屋の空気をいくらでも混ぜ合わせられる。それが本来ならば喜ばしいことであるにも関わらず、どうしても心の中に彫り込まれた傷跡が、ジリジリと焼け野原のように広がっていく。
ベランダの向こうに広がる目黒川の桜雨は、空も土も、すべてを染めて舞い上がる。今朝出し忘れた生ゴミの袋は、その風景になじまないまま、じっとベランダで時を待つ。焼かれて消えてしまえるのだから、まだ幸せを感じられるのかもしれないが、私には、そんな終わりの予感すら訪れはしない。
ため息を吐いたって、誰が聞いているわけでもなかった。私はたった一人だけで、またこの部屋で目を閉じる。
眠るわけでもなく、ただ、すべてに身を任せてしまうように。
また春が来た。恋人は出て行っても、こうやって季節はめぐり、惨痛がまた私の胸を締め上げる。
「どうしてなんだろうね」
それでも、未だに彼の断片を見いだそうとしている自分が、ずいぶんと滑稽だった。そうして道化を演じている間は、安心できることを知っている。
わざとらしく退廃に浸ることは、私の精神安定剤です。
夜になればかすむ目元を押さえながら、私はコーヒーを淹れて、夕飯をどうしようかと考え出す。どれだけ生活にうんざりしても、食事は必ずとらなければならない。かなぐり捨ててしまっても良いのかもしれないけれど、生活を腐らせるということは、私の仕事や友人に対して示しがつかなくなってしまう。それを守れないのなら、今度こそ私には生きる意味がなくなってしまうのだ。
別に人生をかけた恋でもなかったのだ。欠け落ちただけで進めなくなってしまうほど、彼の存在は私にとって大きいものでもないだろう。
冷蔵庫の中にあった食材を見て、特にメニューも思いつかないまま時間が経った。結局野菜を消費するためにカレーにすることにしたけれど、辛口のルーしか部屋に残っていないことに気がつく。彼しか食べていなかったこの味。
「……まあ、いいか」
平日は特に気をつけて、辛いものは食べないようにしていたけれど、今日ぐらいは構わないだろう。
時間が経って熟れたトマト、ついこの間彼とサラダを作ったときに余ったサニーレタス。全部入れて、長時間煮込む。主役は恋人の実家から送られてきたジャガイモと、私が稼いで買った豚バラ肉。市販のカレールーで煮込んでしまえば、全部ぜんぶ、同じ色。
すっかり日は沈んでしまったけれど、一日はまだまだ続く。今日、眠りについてしまうまでの数時間、ずっと鍋と向き合っていられるわけでもあるまいに。それでも料理と称した現実逃避は、心を少しだけ軽くしてくれた。
キッチンは私を裏切らないで、二口開いたガスコンロを灯している。
口元に残る刺激をペロリとしながら、だらけきって湯船に身を預けている。天井からの暖色から、このくたびれた肉体はどう見えているのだろうか。これもまた父親のように、私のことをなじるのだろうか。
「今日、疲れたなぁ」
簡単なルーティーンに、時折差し込まれる非日常にしては、今日という二十四時間は堪えるにもほどがある。
ドライヤーで長くなってきた髪の毛を乾かしていると、この温風を奏でる機械すら彼から貰ったものであることに気がつき、肩が落ちた。明日の朝、鏡に向かう瞬間にも同じことを想うのだろうか。
「……染めようかな……」
しらが、はくはつ、ぎんぱつ。なんとでも形容できる頭の色は、老人のように輝いている。濁った黒い目とその銀は、酷く不釣り合いのまま、もう二十年と付き合ってきた間柄だ。これを好いてくれた男は、もう取り返しのつかないほどの距離にいる。物理的な意味ではもちろんない。
日常のあらゆるところに、恋人の影は落ちている。今でも私にとってのあの人は、どうしようもなく焦がれてしまう想い人だ。同時に悲しくなるくらい、あの人にとって私は煩わしいだけの存在だ。
こんな失恋には慣れていたつもりだけれど、アパートメントではぐくんだ愛情を、根っこから抜き取るには、未だ時間がかかりそうだった。母が亡くなった直後の父も、こんなやるせない気持ちのまま、私のことを育てていたのだろうか。だとすれば、疲弊するのも当然だ。
今、暮らしている施設の中で、きっと潮騒の宵に浸っている父は、私のことを「フクロウ」とあだ名した張本人だった。
「フクロウは、母親を食べる」
それが迷信だと分かっていても、父は私という人間に耐えきれなかったのだろう。でも、やっぱりそれは間違いだ。
「別にお母さんじゃなくても、私はなんでも食べているよ」
それを照明したいがために、きっと私の職業の萌芽は端を発したのだろう。
独り言ばかり言っていないで、さっさと音支度を始めよう。こんな日には眠るにかぎる。夜中の考え事ほど愚かしく回ることはないのだ。
深夜番組がテレビから垂れ流されている。けれど、夜十一時じゃそこまで深夜という印象もないなと、今更ながらに感覚のズレに行き当たる。その騒音を消してから、私は彼が組み立てたシェルフへと歩み寄る。
棚の上にある小物や私物には、明らかに大きな空白が生まれている。乱雑に積まれた雑誌の多くは、きっともう処分してしまっても良いということなのだろう。邦楽の雑誌なんていう、私にはてんで興味も湧かない情報の坩堝が棚の一角を占領しているというこの状況に、少しだけ不気味さを感じる。それから用のあった、いくつかの小物をゴミ箱に放り込んだ。彼が好きだった、そして私も好きになろうとした動物の置物。雑誌も廃品回収の日までに、ちゃんと縛っておかなければならない。
でもまずは、二人の生活の象徴を壊しておかなければならない。
無表情、だったと思う。いまさら悲しむこともなかったし、まずもって私の生活になんの影響もないことだった。男なんて、こちらから声をかければ寝るなり付き合うなりできる心当たり、何人かあって当然だった。まあすぐにそんな気持ちになれるかどうかはともかくとして、いつでもすぐに、誰かと過ごす日々に戻れるのだ。そう、自分に言い聞かせる。
私は昔からそうだった。
すぐに他人を切り捨てて、いったい誰となら幸せになれるつもりなのだろう。
テーブルに突っ伏して、ハーブティーが蒸れるのを待つ。透明のポットの中で花開いていく工芸茶は、私の気分と違ってずいぶんと鮮やかだ。
この食卓で営まれた生活は、ずっとこの家から離れない。2LDKの部屋は、私独りではあまりにも広すぎる。仕事は事務所でやってしまうのだから、下手をすればワンルームでだって暮らせるはずだ。
「……お母さん……」
これを飲んだら眠ろう。春はきっと、よく眠れるはずだから。
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