知らなくていいこと

「熱がある、授業中にふらついた、ここに来るまでに吐いてきた……と。なるほどねえ。ま、とりあえず様子見だね。しばらく休んでいきな。他に誰も来てないから、ベッドは全部空いてる。好きなの使ってよ」

「はい……お手数お掛けします」

「いーのいーの気にしないの。それがウチの仕事なんだから。ああそうだ、水分補給しときなよ。吐いた分だけ補充しないとだからね」


 保健医のセンセイは若い女の人らしい。初めて来たから知らなかった。

 湖夏くんと私は並んで冷たい丸椅子に腰かけているけれど、肩と肩はくっついてない。センセイの目の前だから、ということにしておきたい。

 当のセンセイは保健室の隅に置いてあるダンボールからスポーツドリンクのペットボトルを2本取り出し、ラベルを剥がして捨ててから、湖夏くんに手渡した。


「あんたも飲む?」

「いや、別に……ていうか、そんなんでいいの?」

「ほんとは経口補水液の方がコスト的にもいいんだけど、アレ生臭くて飲みづらいんだよなー。長期保存できないから毎回作んなきゃだし、超めんどくさいじゃん?」


 そう言うと、センセイは私が受け取らなかったボトルのキャップを空け、自分で飲み始めた。いいのかこんなテキトーで。

 湖夏くんがベッドに入り、仕切りのカーテンを閉めた。顔は見えなかった。さっきのこともあったから、こっちを見ないようにしてたのかもしれない。

 もう、私にできることは終わった。あとはこの人に任せるしかない。


「じゃあ、私はこれで。その……よろしくお願いします」

「待ちなよ。あんたも残っていきな」

「え? でも」

「病名はぁ、恋煩い、ってとこかな? アハハハ」


 なにがおかしいのか、センセイはケラケラ笑っている。


「からかわないでよ」

「まーまーまー、どーせ今戻ったって、カレのことが気になってまともに授業なんて受けらんないだろ? ついでに計ったら熱あったわ! ってことにしとくからさ」


 センセイの度を越えたいい加減さは気になるけれど、今のままじゃまともに授業受けられないってのは、たしかにその通りだ。


「残ったって、なにかできるとは思えないけど」

「そういう時はだいたい、なにもしないのが正解なのさ。さて、自己紹介がまだだったね。養護教諭の三藤みふじだ。養護教諭の。うんうん、こっちの方が保険医より響きがいいよね。よろしく」


 三藤センセイはまた、白い歯を見せて笑った。

 ひとしきり笑ったあと、こほんと咳払いをひとつ。キリっと引き締まった顔に……はべつにならない。センセイのにやけ面は簡単に崩れなさそうだ。


「カレ、最近全然ココ来なくなったろ? 感謝してるんだよ、マジな話。メンタルの健康は体の健康とガチで繋がってるからね」

「はあ」

「それが急にコレだもんな。なんかあったの?」

「……まあ」

「おっと、話したくないならそれでいい。尊重するよ、それも仕事だからね」


 今度はウインクを飛ばしてきた。冗談に付き合う気分じゃない、なんて口にするのもバカバカしくなってきた。この人に相談していいんだろうか。と言っても、他に頼るアテもないんだけど。

 湖夏くんは保健室によく来てたから、三藤センセイとも面識があるはず。なにか手を貸してくれるとしたら、センセイくらいしかいないか。


「どっから話せばいいかな。ママが湖夏くんのこと悪く言ってさ。それを湖夏くんに話したら、直接会って話してみようかって。そしたらママ、彼氏がテストで1位取らなきゃ会わない、とか言い始めて。ほら、湖夏くん真面目だから、それで」

「なるほどね。んでテスト勉強に精を出しすぎた、と。なんともカレらしい理由だね。不調の原因は睡眠不足に伴う自律神経の乱れ、ってとこかねぇ」

「やっぱりアスペルガーのやつなんだよね」

「そう捉えることもできるねえ。強いて言えば、ママと会うことをすぐ決めたのは、ADHDに見られる傾向だね」


 センセイの口から、聞きなれない単語が飛び出した。


「えーでぃ……なんて?」

「おや、知らなかったかい? しまったしまった。アハハハ」

「誤魔化さないで!」

「ごめんごめん。てっきり知ってるものだと。まあいいよね。彼女だし、アスペルガーのことは聞いてたわけだし。

 即断即決、と言えば聞こえはいいけど、衝動的とも取れるよね。ソレはアスペルガーの性質とは違う。心の違和は併せ持つ人も多くてね。もちろん個人差はあるよ。カレの場合、ADHDに見られる3つの特徴のうち、衝動性以外の、多動性……ソワソワしたり、不注意だったりはしないよね。カンペキには当てはまらないから、その傾向がある、って表現が正確かな」


 聞こうとしているのに、聞かなきゃダメなのに、説明が頭に入ってこない。

 湖夏くんが教えてくれなかった。今まで黙ってた。嘘もつかないし隠し事もしない、今までずっと、そう思ってたのに。

 信頼の土台にヒビが入って、積み上げてきたものがぐらぐら揺れる。喉奥に込み上げる酸っぱさのせいで、男子トイレでの出来事を思い出してしまう。


「なんで……言ってくれなかったの」

「ウチはカレじゃないからわかんないね」

「うるさいな! わかってるよ、そんなの」


 目の前に、無地のハンカチが掲げられた。

 それが妙にぼやけているのを見て、涙に初めて気がついた。


「だからこれはあくまで、カレの気持ちをウチが推測しただけだ。それを踏まえて、聞いてくれるね?」


 メイクが崩れないように、慎重に涙を拭いた。そして、他に誰も来てないって言ってたのを思い出して、思いっきり鼻をかんだ。


「さっき、カレには衝動性以外は当てはまらない、って言ったろ? ニンゲンってのはさ、一回自分の常識が出来上がると、なかなか抜け出せないもんでね」

「まって、まって、もうちょいわかりやすく」

「そうさなあ。外国人はみんな英語がわかる! とか、貧乏人のくせに贅沢するな! とか。人間ってのは短絡的に物事を結びつけるのが得意なんだ」

「金髪の女の子は遊んでる、とか?」

「いやあ、アハハ。リアクションに困るね。ともかく、カレを見たときに、集中力があるからADHDじゃない! みたいに言うのは違うってことさ。程度の差も加味した上で、実際ソレで困ってるなら、立派な障害として認められる。ま、彼のレベルでADHDとして診断がつくかは微妙なところだけどね。そのケがあるってだけでさ。

 人の心や性格に深く関わるもので、個人差があって当たり前。なのに、カンペキに当てはまらないと気が済まなくて、障害を理由に怠けてるだけだろう! とか心無いことを言っちゃう輩もいるんだ。ああもちろん、あんたがそうだと言ってるんじゃないよ」


 センセイはペットボトルをごくごく音を立てて飲んだ。ここまでで質問はないか聞かれて、首を横に振った。


「ウチが言いたいのは、中途半端な知識がかえって邪魔をするパターンもあるってことさ。あんたは専門家じゃないし、カレ以外の障害者に興味があるわけでもない。余計な情報を入れるより、祠堂湖夏という人間を、直接見て欲しかったんじゃないかな。ま、勝手な想像だけどね」

「そう……なのかな」

「嫌われてるとか、そういうんじゃないさ。安心しなって」

「……でも」

「でも?」


 もし、このセンセイが言ってることが、全部合ってたとしても。


「でも、私は知りたいよ。湖夏くんのこと、もっと」


 私はずっと湖夏くんを見てきた。

 喋るのが苦手で、冗談が通じなくて、融通が利かなくて、裏表がなくて、正義感が強くて、頭が良くて、まっすぐで、正直で。

 彼のこと。最初の頃よりは、だいぶわかってきたと思う。それでも未だに、湖夏くんは予想もつかないことを言ったりやったりする。今回の無茶だってそうだ。私は未だに、湖夏くんのことを全然知らない。

 だから、湖夏くんの口から直接教えてほしい。喋るのが苦手な湖夏くんは、無口なかわりに聞き上手だ。冗談は通じないけど、頭がいいからこっちが言ったことはほとんど覚えてるし、なにより楽しそうに相槌を打ってくれる。知識を入れるのが好きなんだ、湖夏くんは。好きなメーカーのシャンプーが近所のスーパーに置かれなくなった話とか、ちゃんと聞いてくれたのは湖夏くんくらいだ。

 気づいたときには私ばっかり喋ってる。だからってわけじゃないけど、湖夏くんも、もっと気軽に話してくれていいんだ。


「祠堂! 今の聞いてたな?」

「……えっ! あ、はい!」

「あとは2人で話をつけなよ。じゃ、お邪魔者は花でも摘んでくるかねーっと」


 三藤センセイがベッドカーテン越しに湖夏くんに手を振る。見えるわけないのに。

 ガラガラ、と横開きのドアを開け、一度振り返って、またにやっと笑った。


「あんた、いい女だね。相手がいなきゃ弟に紹介してたとこだ」

「またテキトーなこと言っちゃって」

「アハハハ。応援してるよ」


 ぴしゃりとドアが閉まる。

 甘いスポーツドリンクの香りがする空間に、私と湖夏くんだけが残された。

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