キミがそれを正義と呼ぶなら
誰もいない廊下はとても静かで、別の世界に迷い込んだみたいだ。
時間の止まったように無機質で冷たい道に、二人分の足音を刻む。
今思えば、こうなるのは当たり前のことだった。
湖夏くんはもともと体の弱い方で、運動が得意とは言えない。常連と言っていいくらい保健室に通っていたから、授業に顔を出してないのに成績がやたらいいって、先生たちの間でたびたび噂になって……いや、そんなことはいいんだ。
どちらかと言えば虚弱体質の湖夏くんが、休憩なしで何日もぶっ続けで勉強してたら、体を壊して当然だ。
繋いだ手、小さめだけどちゃんと男の子な手を固く握る。離さないように。とあるホラー映画のワンシーン――恐ろしい怪物からやっとの思いで逃げ延びたと思ったら、ぎゅっと握った相方の手の、肘から先が無くなっていたシーン――が脳裏に走って、思わず彼の方へ目をやった。
「歩ける?」
おぼろげな目。おぼつかない足取り。
誰が見てもわかる。大丈夫じゃないって。
「は、はい……大丈夫です。大丈夫ですから」
それでも湖夏くんは、大丈夫、大丈夫と繰り返す。
どうしてこうなるまで気づけなかったんだろう。
湖夏くんは一度集中すると、専用の結界でも張ってるんじゃないかと思うくらい周りが見えなくなる。本人が言うには、例え視界に入っていても、見ようとしているもの以外は認識できなくなるらしい。周りの音も聞こえないし空腹も感じない、って言ってた。初めに聞いた時は半信半疑だったけど、それが嘘じゃないことは湖夏くんを見てればすぐにわかった。
だから、今まで大丈夫って言ってたのは、大丈夫なんじゃない。自分が大丈夫じゃないことに気づいてない、というより、気づけないんだ。湖夏くんは。
でも、私はそれを知ってた。知ってたなら、もっと早く止められたはずだ。なのに、どうして。
湖夏くんは嘘をつかないから、湖夏くんの言うことを素直に受け止めた? 確かに、嘘をついてたわけじゃない。隠そうとしたんじゃなくて、本当にわかってなかったんだ、彼は。
「大丈夫です。本当に」
今は?
一度勉強から離れたはずなのに、まだ大丈夫と言い張っている。これは、どういうことだろう?
「あの……万華鏡さん」
不出来な脳みそをこねくり回していたら、湖夏くんの声に引き戻された。
「ん、どした?」
「ごめんなさい、保健室の前に、お手洗いに寄ってもいいですか?」
「雉撃ちね、りょーかい。ささっと行ってらっしゃいな」
湖夏くんに教えてもらった言葉だ。語源とかはよく知らないけど、カッコいいので使っている。伝わればいいんだ、言葉なんてものは。
さすがにトイレまでついていくわけにはいかないし、素直に待つことにする。さっきの続きを考えよう。なんについて考えてたんだっけ。語彙力豊富な男子はカッコいい……違うな。なんだっけな。
「げほっ! うっぐぉ……おえっ……」
湖夏くんだ。
なにかあった。頭でちゃんとそう認識したのは、男子トイレの個室に湖夏くんの背中を見つけた後だった。
鼻をつく酸っぱい臭いと、肩で呼吸する湖夏くん。足音で気づいたのか、湖夏くんは振り返って驚いた。
「ま、万華鏡さん!? こ、ここ、男子トイレ――」
湖夏くんは、はっとして、慌ててトイレの水を流した。中のものを見せたくないらしい。まるで粗相した犬だ。
この期に及んで、まだ、大丈夫だなんて言い張るつもりか。
彼の制服の襟を、胸ぐらを掴み、引き寄せる。
そして、胃の中のものを戻したばかりの彼に、食らいついた。
排水口から外したばかりの生ゴミのフィルターをそのまま口に突っ込んだような、最低な味だ。それでも私は彼を離さない。弱弱しい力で押しのけようとする彼に構わず、唇についた汚れまで舐め取った。
「ぷは……ま、万華鏡さん!?」
鼻息も感じる距離のまま、私は叫んでいた。
「私はキミの彼女だぞ!!!」
ぐちゃぐちゃの頭から飛び出た言葉を、感情を、彼にぶつけた。
「辛いなら辛いって言えよ!! ひとりで抱え込むなよ!! 私のためだからって、キミが傷ついたら意味ないだろうが!! なんでそんなこともわかんないんだよ!!!」
彼と、目が合った。
彼の小動物のような目は、怯えていた。
開いたり閉じたりを繰り返す口。正解のわからないときの湖夏くんだ。私との会話はいくら間違えたっていい、って、ずーっと前に教えたはずなのに。
なにをしてるんだ、私は。
彼女ならもっとやるべきことがあるだろ。苦しいところに追い打ちかけてどうするんだ。
「ご……ごめんなさい……」
「…………なんで……キミが謝るかな……」
洗面台で肩を並べて口をすすいでから、私たちは保健室に向かった。
お互い一言も喋らなかったけど、手だけは繋いだ。
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