おせんたく

@AL_chan

おせんたく

 一条春子がノートに書きものをしている。

 しばらくペンを走らせるとため息をつき、ノートを閉じる。表紙には『エンディングノート』と書かれていた。欅の一枚板の座敷机に座る春子は、物憂げに顎に肘をつき、足を崩す。視線の先には、洋ダンス程の大きさのある仏壇があった。田舎づくりの座敷の仏間に収まる仏壇。外側は黒漆で塗り固められ、内装は金箔が張り巡らされていて、格別に豪華だ。ただ、塗面は埃と手油でくすみ、ところどころ剥げて木地が見えている。

 春子はまた大きく溜息をつく。皺のたるんだまぶたの奥の瞳が鈍く光った。


 人口の200人に満たない村の昼はひっそりと静まりかえっている。働き手は皆、町に下りていて、老人しか残っていない。山間の村に佇む「濱野仏壇」では、駐車場に忙しく動き回る人影が見える。

 道路に面した古ぼけた看板を背に、濱野悟はバンから荷物を取り出している。車には後部座席はおろか助手席までびっしりと荷物が詰め込まれていた。彼の仕事道具らしきものから、鍋や布団まで詰め込まれている。悟はすでに五十代後半だが、白髪交じりの髪の付け根に汗かきながら、荷物をせかせかとガレージまで運び出している。

「お洗濯て、仏壇塗り直してどうするんや? おばやん、独りやし、智春君も戻ってくるわけやないんやろ?」

 と濱野が春子に尋ねる。

 一条春子は車の脇に佇み、作業の様子を見守っていた。初夏の日差しを嫌うように、つばの広い麦わら帽をかぶっている。

「そんな事聞かんで、頼むわ」

 悟が抱えていた荷を下ろす。

「今のご時世そんなこと言うてくれるのは嬉しいんやけどな、カネは大事に残しといた方がええで」

「なんぼぐらいしますのや?」

「具合にもよるけど、5,60万はかかると思うで」

「町の永詠堂さんよりずっと安いわ」

「そらウチは二人だけの個人経営やからな。余計な人件費抱えてへんだけ安ぅできるねん」

「ここらで仏壇言うたら、濱野仏壇さんやろ。お父ちゃんも、昔ここで直してもろた言うてた」

「先代の一条呉服店の旦那さんか、若い時仕事もろたな」

「いつからやね?」

「……ウチの親が24の頃からやから、昭和30年からやから、60年ぐらいやろかね」

「長いなぁ~」

「でも今は仏壇の仕事も無くて、出仕事ばっかりや。やっと千葉の神社の塗り直しが終わって帰ってこれた」

「千葉⁈ ……そらういことなぁ~」

「昔は仏壇で忙しかったけど、今はもう引き取ってくれとしか言われへん。皆、家継がんようになったからなぁ」

 悟、春子の肩を叩く。

「仏壇の仕事持ってきてくれたのは嬉しいけど、せっかく塗り直して、すぐ捨てるなんてことなるのは、嫌やで?」

 春子、悟の手をそっとどける。

「失礼なこといいなさんな。ちゃんと考えはある。そんなこと……あんたら職人が心配することやない」

 悟、フーっとため息をつく。

「なら今度見積に寄せてもらうわ」

 春子はチョコンと頭を下げた。


 濱野がトラックに仏壇を乗せて戻ってきた。荷台いっぱいに幅を取る仏壇は緑のさらしでぐるぐるに巻かれている。助手席から濱野治が降りてきた。悟の4つ上の兄だ。今年還暦を迎え、真白な髪は短く、芝のようだ。骨と筋肉が盛り上がる肌を、ランニングシャツからのぞかせている。治と悟はトラックから降りると荷台の淵を止める金具を開錠して、真っ平になった荷台から滑らせるように、仏壇を押して工房の縁側の淵にかけた。トラックは縁側に対して垂直にギリギリまで寄せて、縁側に近づけている。

『せーのっ!』

 仏壇が工房に横滑りして入ると、二人は息を合わせて仏壇を立たせた。重量200kg弱の巨大が傾く、勢いがついて前のめりに倒れないよう慎重に起こした。起き上がった仏壇を再び少し傾け、浮いた底面に細いさらしを滑り込ませる。このさらしを底の中央に通し、二人がその端を持つ。両手に巻きつけ、力を込めて引き上げる。底部がわずかに浮いた。そのまま仏壇を担ぎ上げつつ、ようやく部屋の片隅に追いやることができた。

一仕事終えた二人はようやく縁側に面したソファーに腰掛け、茶を淹れた。

「それにしてもホントに直すんけ?」

 治が尋ねる。

「もう引き取ってきたから、そうやろ」

 悟は茶をすする。

「智春君はもうずっとシンガポールの商社勤めやいうてたな。もういくつえ?」

「ワシの3つ程下やった。55や」

-「まだ定年まで5年はあるし、それまでおばやんが、もたへんやろ」

「おばやんは八十前か?」

「昭和15年生まれやて聞いたわ」

「ウチのばあちゃん死んだのも、そのぐらいの歳やったなぁ」

「足折ってからみるみる内に衰弱してな……あの歳は何があるか分からんで」

 二人はまた一口茶をすする。

「継ぐもんもいんのに、何で仏壇、お洗濯するんやろな?」

「呉服店も、もう閉めたしな」

「学校制服ぐらいしか売れてなかったやろしな。小学校も中学校も、最近閉校したし、潮時やろ?」

「おばやん独りでやってててもな」

「一条さんいうたら、昔は大層立派な呉服店やったて、ばあちゃん言うてたけどな。今は昔や」

「お嬢さんも、東京から子供連れて帰ってくるまでは、そらベッピンさんで、皆から可愛がられてたて、ばあちゃん言うてたな」

「何で東京から帰ってきたんえ?」

「向こうで出来た男が根性なしで、途中で家継ぐ事で揉めて、出ていってもうたらしいわ」

「ま、田舎に慣れんかったんやろ」

 熱い茶に、二人は額に薄っすらと汗をかく。

「……仏壇も、もうあかんな」

「あかん。誰も家、継がんようになったからな。信心も薄れたけど、とにかくカネに不安な世の中やしな」

「これに何十万、何百万かけるんやったら、新車買うか、子供に家の前金だしたるか、介護代にかけるてな」

「あんなに売れた時代が来るのは、もうない」

 悟、治の目をジッと見ると、

「お前、営業ばっかせんと、たまには出仕事も出てくれや。ワシばっかりシンドイ」

 治、頭を撫でると、

「ワシももう還暦すぎやしなあ。これから暑いし、もうよぉ工事現場みたいなとこでは働けへんわ」

「かといって、仕事ないど」

「年金もらえるまでの辛抱やて」

「ワシはあと7,8年も、こんな肉体労働、出来へんで。これからどないすんねん?」

 重苦しい雰囲気に気まずくなる二人。

黙って茶を飲み干した。


 背後の森からにわかにセミの声が聞こえてくる。駐車場には洗い桶が置かれ、濱野がバケツから運んだ湯で満たす。縁側には春子が腰をかけ、作業の様子を見守っている。

「まずバラした仏壇の部材を洗う」

 細かい部材を投入していく。

「こびりついた埃はなかなか落ちんから、苛性ソーダを少し加える」

 小袋を振ると白い粉が湯に溶ける。

「苛性ソーダて、毒ちゃうんか?」

 と春子が尋ねる。

「だから少量だけでいいんや」

 濱野が湯を混ぜると俄かにとろみが出てきた。部材をスポンジで擦ると泡が出て、あっという間に湯が黒く染まった。

 雨戸、障子、台輪などの大きな部材も洗い、ホースで水にさらす。並べて乾かし、工房の中へと回収する。

「浮いた古い塗装を剥がしていく」

 T字剃刀が巨大化したような、スクレパーという器具を塗面にあてがい、力を込めて削っていく。

所々、パリパリ音を立てて塗装が剥げ落ちていく。

「古い塗装に新しい漆が乗るように、荒いペーパーで表面を削る」

 紙やすりで余す所なく部材を擦っていく。黒い塗装は小傷で覆われ、白けてくる。

 濱野は定盤の上に赤茶けた土に水を加え、ヘラで練り出した。

「剥げた所の穴埋めを兼ねて、全体に固地をつけて、補強していく」

 練り上げた土は一見泥みたいだが、質感はムースのように滑らかだ。

「その土はなんや?」

「これは砥の粉いうて、珪藻土ってやつや。大昔のプランクトンの死骸や。これがよく水と油分を吸うんや。山科の古い地層から出てきて、京都や輪島では昔から漆器を作る時に使われてたんや」

濱野は漆の入った桶を取り出し、ヘラですくって土と練り込んだ。

 練り上がった固地はまるでチョコレートムースのように脂分が艶やかに光っている。濱野はそれをヘラで少量掬い取ると、机に乗せた雨戸に、ビーっと薄目に伸ばしていく。ムラにならないよう、上に下に、左から右へ、ヘラの筋が目立たなくなるまで切り続けた。

つけ終わる頃には艶光が失せ、乾いた色合いに落ち着いた。部屋の隅の壁に立てかける。

「乾いたら、表面を真っ平にするために、砥石で研ぎつける」

 水の張った桶に砥石を浸して濡らし、乾いた部材にあてがい研いでいく。研ぎつけられた箇所は白っぽく変色していくが、依然影のように残るへこみが、そこらにある。

「これ以上研ぐと木地が出てしまうから、このデコボコを埋めるために、もう一度固地をつける」

 再び乾いた部材を研ぎだした。

「デコボコが無くなるまでくり返す」

「随分手間が要るんやなぁ」

 と、傍らで見ていた春子が呟く。

「でもまだ漆塗ってないからなぁ」

「ういことなぁ~」

 春子が感心して呟く。

「完全に平になったら、いよいよ漆を塗っていく。最初に塗る漆は地がほとんど吸い込んで残らへんから、『捨て中塗り』っていうんや」

 塗り場に移動し、茶碗に漆を空ける。

塗り場には小さな座卓と傍らに刷毛を並べる小さな台。そして漆の入った桶を並んだ棚以外、何もない板の間だ。埃を嫌う漆のために、清楚を心がけている。

濾し紙でドロリとした漆を巻き、搾り取った滴を新しい茶碗で受ける。こうして埃を取り除く。

 部材に漆をつけていく。ここでようやく元の漆黒を取り戻していった。

「漆は乾燥するのに湿気が必要やから、湿めのかかった場所に移す」

 部屋の押入れを開けると、そこに布団などは収納されておらず、簀の子が敷いてあるだけの何もない空間だった。そこに漆の塗った部材を並べていく。

「ここは室(むろ)っていって、漆を乾かすための場所や。隅に電熱器があって、湯を沸かして、湿度を上げていく」

「湿らせな乾かんて、変な話やなぁ」

 室の中の湿度計が90%を示す。

「詳しくは分からんけど、漆は洗濯物みたいに水気が飛んで乾くんじゃなくて、漆の分子が空気中の水蒸気の分子と結合して、その化学反応で乾くらしいんや」

 春子は唸ると

「そんな難しい事わからん」

「漆は急激に乾くと表面が縮んでくるから、湿度を一定に保つのが大事や。ゆっくりと、早くて一晩。長くて一、二週間。輪島の高級漆器やと、ひと月ほどは寝かせるらしい」

「気の遠くなるような話や」

 濱野は室から漆の乾いた部材を取り出す。隣の部屋に移り、木箱のような机に毛布を敷いて、砥石を取り出す。それ以外、部屋には何もない。

「漆が乾いたら、またデコボコが無い様に、表面を研いでいく」

 水の張った桶を傍らに置いている。部材から出た研ぎ汁を拭ったウエスが、茶色く汚れていく。

「漆は最低でも二回、よく目立つところは3回塗り重ねていく。二回目は中塗り、仕上げは上塗りという」

 塗り場の床を雑巾でキレイに掃除すると、サテンの上着を着て、体全体に掃除機のノズルをあてがう。

「上塗りは絶対に埃をつけてはいけないから、細心の注意を払う」

 部材にも掃除機を当てていく。

「悪いけど、ここから先は部屋に入れられんで、おばやん、帰ってもらわれへんか?」

 春子はしぶしぶ頷く。

「分かった。またお邪魔させてもらうわ」

 春子は部屋を出る際に、タッパーを差し出す。

「ういろう拵えたで、後でよばれ」

「別にええのに……」

 春子は塗り場の入口の隅にタッパーを置いた。

「毎度おおきに」

春子は部屋の引き戸を閉め、塗り場のある二階を後にする。濱野は一人部材と向き合い、孤独な作業に集中する。


 濱野が階下に下りると、治が仏壇を組み上げていた。春子の仏壇はすでに塗り上がり艶やかな黒い輝きを取り戻している。

「出来そうか?」

 と、濱野が聞く。

「後は雨戸やら障子を取り付けたらやな」

「今度の休みにでも運べそうやな」

「おばやん、いつがええて?」

「まだ聞いてへんわ」

 治が手を止めて、

「そういえば今日、おばやん来てへんのかいね?」

「まだや」

 時計の針は3時過ぎを差している。

「毎日来てたのにな?」

「よっぽど思い入れがあったんやな」

「あんな熱心なのは、珍しい」

 濱野は隣りの給湯室に入り、タッパーを携えて出てきた。

「ういろうのタッパーか?」

「ついでに返してくる」

 濱野は工房を後にした。


 一条春子の家は村の中ほどにある。村はずれの濱野仏壇からは、歩いて5分程のところだ。趣のある日本家屋が瓦を艶やかに輝かして、連綿と軒を連ねている。濱野が子供の頃は、まだここに醤油屋や酒屋、雑貨屋があり、買い物をする主婦たちの姿があった。しかし今現在は、呉服屋から洋装に鞍替えした一条呉服店だけが、店としての面目を保っている。辺りでは他に、呉服店の駐車場に置かれている自動販売機と、道端に並ぶお地蔵さんの賽銭箱以外に、金銭を消費するべき場所も無い。

 夏の日差しが降り注ぎ、汗が自然と垂れてくる。騒がしい蝉の声で、他に音は何も聞こえない。塗面のアスファルトから湯気が立つ。道端のカラスは常に口を開いていた。

 濱野がようやく一条呉服店に着いた。自動ドアがガタガタと音をたてて開く。冷房がまったく効いていない。店の照明も落ちている。休みなのだろうかと、濱野は疑る。

「濱野ですー。おばやん、いるか~⁉」

 ひと気はない。カウンターの奥にかかる暖簾の奥から見える、母屋の廊下も薄暗い。

「おばやん、タッパー持ってきたで」

 テレビの音が微かに聞こえてきた。居間からだ。濱野は不審に思い、頭にかかる暖簾を払って、母屋へと上がりこんだ。

「おばやん、そこにおるんか?」

 居間を覗き込むと、腰かけ椅子にぐったりと体を預けた春子がいた。顔が赤い。胸を上下させて口で息をしている。

「おばやん、どないしたんや⁉」

 濱野が駆け寄ると華奢な肩を掴む。

「大丈夫か⁉」

 返事はない。額に手のひらをあてがうと、火の点いたように熱い。しかし汗をかいている様子はない。苦しそうに口をパクパクと開いたり閉じたりをくり返している。食べかけの昼餉には虫がたかりだしていた。

「こらあかん、救急車や!」


 濱野は事に目途がつくまで救急病棟の待合室に残ることにした。夕闇が迫り、アブラゼミはなりを潜め、代わりにヒグラシが夕闇のセレナーデを奏で始めている。窓から差し込む斜陽が行き交う人々の姿をシルエットに染め抜いている。

 処置室から医師が出てきた。濱野が立ち上がり頭を下げた。

「先生、容体はどうですか?」

 医師は勿体ぶって口元を撫でると、

「今回倒れられたのは暑気あたりですね。脱水を起っていたので、点滴を打ちました。今は落ち着いています」

 濱野は安堵の息をつく。

「ただ、院のカルテルを見ると、以前から肝臓の病気の通院でいらしたようでした。ご存知でしたか?」

「いぇ、そんなことは……」

「顔色も大変悪いようですので、精密検査を兼ねた経過観察が必要です。入院をお勧めします」

「そう言われましても、一条さんとは家族ではないもんでして、私ではどうも……」

 医師は意外そうに再び口元を撫でまわすと、

「それではご家族の方とご連絡はつきますか?」


 濱野の実家は村にあり、長男の治が家族と暮らしている。濱野自身は車で20分程の街中に暮らしている。

 濱野は治に呼ばれて実家へ立ち寄った。今へと通され、治は一冊のノートを座卓へ投げ出した。

「これがおばやんの居間にあった」

 表紙には『エンディングノート』と書かれてある。

「この最後の方のページに連絡先が書かれててる。智春君の電話番号や」

 濱野はしみじみとした面持ちでそれを手に取る。

「おばやんはもう長くないてか?」

「分からん。検査次第や」

「連絡した方がええやろな」

「まぁ、大事にならんといいけど。何かあってからじゃ遅いからな。帰ってこれるか分からんけどな……」

 濱野がノートを戻すと、治が手をつけて濱野の方へ押しやる。

「お前、連絡したったれや」

 と、濱野は顔をしかめる。

「ワシ、外国へどうかけるか分からへん」

 と、治は肩をすくめる。

「ワシかて同じや」

「最後まで面倒見たれや」

 濱野は俯くと頭を撫でまわし、

「面倒事は全部ワシやな」

 と呟き、ケータイを取り出した。

「シンガポールて、時差あるんやったか?」


 春子が倒れて一週間ほどたった。春子はすぐに意識を取り戻し、すでに検査も済ませていた。濱野は一日おきに見舞いに向かった。春子の仏壇はすでに仕上がり、手透きの状態であった。

 春子の人工透析は未だ取れいなかった。厳重に栄養の摂取量を管理されていたので、お土産に菓子などは持っていけなかった。退屈で仕方がないということで、今回は日用品に、院内で使うテレビのカードをつけた。入院に

先日、ようやく春子の唯一の身内である智春から、一時帰国するとの連絡をもらった。午前中に、空港へと到着するらしい。

 

午後一時過ぎ。雨が降っている。

濱野は差し入れの紙袋を携え病室のドアを開けた。

「おばやん、入るで」

 個室に、春子が窓際のベッドに腰掛けている。傍らにはスーツを着た男性が、丸椅子に腰を下ろしていた。濱野を見ると立ち上がる。

「濱野さんですか、ご無沙汰しております。母が大変なご迷惑をおかけしました。息子の智春です」

「おぉ、智春君! 久しぶりやな!」

 彼が大学へ出て以来の再会となる。

「随分立派にならはって、向こうでは取締役にならはったらしいやないか。よぉ気張ってるな」

「いいぇそんな、雇われの身ですよ」

 智春は傍らに置かれた紙袋を取る。

「つまらないものですが、シンガポールからの土産です。月餅という中国のお菓子ですが、よろしければ」

「いやそんな気をつかわんで……」

 やり取りを見守っていた春子が、

「智春、椅子を空け」

 智春は身を引いて濱野に席を促す。濱野は以前イヤイヤと手を振ったが、観念して頭を下げながら、遠慮がちに丸椅子へと腰を下ろした。

「おばやん、加減はどうやいね?」

「おかげさんでずっと良くなったわ」

「熱中症で運ばれた直後は、正直危険な状態だったと、お医者様がおっしゃられていました」

 智春が深く頭を下げる。

「濱野さんには感謝し尽くせません」

「いやいや、そんな言わんといて」

 後に言葉が続かず、雨の音だけがサーっと静寂に染み通る。

「いつ退院やいね?」

 と濱野が春子に尋ねる。

「来週の末には出れそうや。しばらく通院はせなあかんけどな。元々肝臓痛めてるのは知ってたし、造作やけど、ここも退屈やしな」

 智春はベッドの淵に手をつく。

「母さん。無理をせずに入院しておきましょう。そうすれば僕も安心できます」

 春子はそっぽを向いて、

「いやや」

「どうしてです? あの村から通院するのは大変でしょう? バスに乗るのも時間がかかって辛いはずです」

「話を聞いてなかったんか? 何もすることもない。飯を用意することもないここは、退屈や、言うたんや」

 智春は額の汗をハンカチで拭う。

「でもお独りで、心配です」

 春子は口をへの字に曲げている。

「ならお前が看ててくれるんか?」

 沈黙、サーっと流れる雨音だけが聞こえる。

「……日本には帰れません。家族ももう、シンガポールに馴染んでしまいました。娘は来年、家から大学へ通います」

「ほれ見ぃ、跡取りが親の面倒も見んで情けない。あんたはよぉ出来た子やけど、苦労のし甲斐がないわな」

 しばしば流れる沈黙が痛々しい。

「老人ホームにも入りませんか?」

 智春の瞳はにわかに潤んでいる。

「いやや。アタシはお父ちゃんが守ってくれた屋敷に残る」

 春子は濱野に向き直る。

「ところで濱野さん。お洗濯はいつごろ終わりそうや?」

 智春が濱野を見つめる。

「はぁ、実はもう塗り終わってます」

「じゃあもう完成してるんやね」

「組み上げが少し、あるだけですわ」

 智春が背筋を正す。

「お洗濯というのは仏壇のですか?」

「そうです」

「たしか古い仏壇をばらして、新しく塗り直すことでしたかね? 今、ウチの仏壇をやっていらっしゃる?」

「アタシがふた月前に頼んだんよ」

「僕は初耳です」

「アタシが勝手にしたことやで、あんたには関係ないやろ。家継がへんかったあんたには」

 智春、ベッドの手すりに手を突く。

「いい加減にしてください、お母さんだけの問題ではないでしょう⁈ おいくらかかったんですか?」

 濱野はたじろぎつつも、

「75万で承ってます」

 智春は言葉を失った。

「ここらの仏壇は大きくて立派やからなぁ。外は漆塗り、中は金箔。金具と彫り物は取り替えてもろた。そらそれぐらいするわいな」

 春子、智春をジッと見つめる。

「頼んでから毎日、濱野仏壇さんに寄せさせてもらってたけど、手間暇かけてはる。ひと月もかかりきりや」

「……でも一言相談してくれてもよかったんじゃないですか? 僕も毎月仕送りを欠かさなかったはずです」

「反対したんか?」

 智春、濱野を一瞥する。

「そうじゃないですけど、お身体を悪くされてるなら、これから出費が増えてくるので、計画を立てないと……」

 智春、唾を飲む。

「勿論、お支払いはしますが……」

「いや、おばやん。もうええで」

 と、濱野、すっくと立ち上がる。

視線が濱野に集まる。

「事情が事情やし、受け取る気になれへんわ」

 春子が顔を険しくする。

「アホいいなんな! 商売人がそんな事気にすることやない⁈ ええで受けとき。せな先祖に申し訳ないわ」

「そな、聞いてええかいね?」

 と、濱野はノートを差し出す。表紙には『エンディングノート』と書かれている。

「それ、アタシのやな」

「せや。智春君の電話番号が載ってたノートや。熱中症で倒れてたすぐ脇の卓の上にあったで、助かった」

 濱野はページをめくる。

「見るつもりなかったけど、見えてもうたで聞かせてもらうわ。財産の譲渡に、仏壇のことが書いたるな?」

 ページを開き、春子の膝元に置く。

 智春も近寄り、覗き込む。

「仏壇だけが、家で引き取ってもらうて、どういうことや? それも無償で、中古で売れるように……」

 口を閉ざす春子。

「お仏壇て、売れるんですか?」

 智春が口を挟む。

「お性根抜きいうて、魂を移す作業が必要やけどな、形式的に。昔はそれで安くて良い仏壇が買えたもんや」

 少しの沈黙の後、春子が口を開く。

「……せやかて智春は継いだら、潰すやろ」

「母さん……」

「あんた戻って、仏壇と屋敷の守してくれるんかいね? 日本に戻る気のないあんたにはでけへんやろ?」

 智春は閉口した。

「あんたは昔から始末の良い子やから、屋敷は売るやろし、仏壇は処分するやろ。残しといてもしゃあないて」

「そんなことない」

「墓だけでいいて、前、親族の集まりで言ってたやないね?」

 智春は天を仰ぐ。

「あの屋敷も、仏壇も、アタシとお父さん……あんたのお爺さんと、一生懸命守ってきたものなんや」

 濱野が身を乗り出す。

「じゃあ教えてくれへんやろか? 何で継ぐもんのいん仏壇を、改めてお洗濯しようと思たんや?」

 春子と濱野、ジッと目を見る。

「お洗濯は普通、代替わりの時に、自分が死んだ後もキチンと守をして貰うためにやるもんや。矛盾してるで」

 春子、答えない。智春、固唾を飲む。

「……何もそれだけやないやろ」

 春子、ようやく口を開く。

「仏壇には、やり場のない、亡くなった人への弔いの気持ちの、一番身近な拠り所のはずや。そうでなかったら、誰が朝夕拝むかいな」

 春子は遠い目をする。

「アタシは散々お父ちゃんに迷惑かけてきた。出戻りで、その子抱えて帰ってきてから、ずっとな……」

 智春は顔を伏せる。

「東京に出たのがあかんかった。当時は集団就職の時代やで、女は中学終わったら働きにでるのが、まだ普通の時代やった。……そんな中で大学までいけたのは、相当目をかけてもらってたからやけど、あの男と出会うてから苦労するようなった……」

 春子、ジッと手を見る。皺が深い。

「軽薄で、子供出来てから婿養子になる言うて家に入っても、何が辛いんか全部投げて出ていきおった」

 智春は辛そうに顔を歪める。

「養育費も出さんと、全部工面してくれたのはお父ちゃんや。呉服屋なんて、廃れてく商売を、それでも手を変え、品を変え、よぉ店を切り盛りして、私ら母子を食べさせてくれた」

 皆が地に視線を落としている。

「気づけば何もしてあげれへんかった。ただ尽くしてもろて、何もしてあげられなんだ。遺産だけもろて、今日も生きていくだけの口惜しさが、おまんらに分からんか?」

「分からんわけないがな」

 と、濱野が応える。

「親孝行したいときに、親はない」

「せや。だから死ぬまでに、最後に奉公しときたかったんや。お父ちゃんが守ってきた物が、ただ朽ちてくままにしておくのは、忍びない思たんや。……今さらやけど、生きてる内に、してあげれるのは、それしかなかったんや」

 春子、智春に向き直る。

「おまんの仕送り使てでも、やる価値はある思たんや……」

 智春、目が充血している。

「ウチの子は立派に育った。お金の心配かけへん、あえて親が残す必要のない、頼りがいのあるええ子やて」

 智春、唇と噛みしめている。

「これは、アタシなりの弔いなんや」

 智春、濱野の手を取る。

「濱野さん。どうか、受け取ってあげてください」

 握手に熱い力がこもっている。

「……分かりました。有難く頂戴します」

 濱野は深く頭を下げた。


 3年後の夏、とうとう春子は逝った。享年85歳であった。あの春子がエンディングノートを書いていた座敷は弔問の人達で埋め尽くされている。黒山の人だかりの最前列に智春が座していた。目の淵が落ち窪み、黒ずんでいる。春子の直接的死因は肝機能不全に伴う衰弱死であった。身寄りのなかった彼女は死後3日経ってから、訪ねてきた町内の人によって発見された。


 火葬場では今、春子の出棺が執り行われようとしていた。台車に乗せられた棺桶が、闇の深い奈落の入口に連れ去られてゆく。扉が閉まると、智春は傍らの緑のボタンに手を掛けた。

「さようなら、母さん」

 力を込めて緑のボタンを押したとたん、彼は膝から折れてむせび泣いた。

「すみませんでした、すみませんでした、すみませんでしたーっ……‼」

懺悔する彼の周りに家族が寄り添う。娘が二人いた。日本人同士の結婚に違いないが、南国の日に焼かれて、小麦色の肌をしていた。


 葬儀後の会食は、昔なりのやり方で一条家の座敷で執り行われた。座敷同士を繋ぐ襖を取り払い、玄関の上がり框からご仏前まで食膳が並ぶ。隣町の仕出し屋から取り寄せたらしい精進弁当に、ビールと、桶に入った寿司が付いた。喪主の智春の席は仏壇の目前であるが、大抵はそこに落ち着いてはいなかった。客に酒を注いだり、話の相手になっていた。だが、たまに席に着いて一人の時間を得ると、料理に箸をつけず、ただ茫然と目前の仏壇を眺めていた。お洗濯されて間もない仏壇は、3年経っても依然艶やかに濡れた黒い肌の潤いを保っていた。


 翌々日、濱野の仏壇店に智春が訪れた。葬儀の後始末を終え、昼を食べてから空港へと向かうらしい。その前にぜひ立ち寄っておきたいと、午前9時過ぎに訪ねてきた。濱野は茶を出そうとしたが、智春は「おかまいなく」と断り、その代わり、仏壇を作る工程を見たいと申し出てきた。智春は一通りの工程を、春子がそうしたように時折質問しながら見学した後、ようやく縁側のソファーに腰を落ち着けた。

 外から潮騒に似た雨音が響く。湿っぽいが、気温が下がり、妙に爽やかな感じであった。夏にも関わらず、濱野は温かい湯気の立つ茶を注いだ。

「参列の方々も、よく褒めてくださいました。濱野さんの仏壇を。よく孝行なさったと、いや、お恥ずかしい」

 笑みを浮かべた表情の、瞳が陰る。

「実際は、死の直前まで独りきりにしていた、親不孝者です。それも、三日間も、気づけずにいたなんて……」

 目尻をくしゃりと歪ませる。

「遠くにお勤めされてるんやで、仕方のない事ですわ。正直、この村ではよくあることなんです」

「……独居老人問題や孤独死というやつですね」

「そうです。もう家継がへん人が多なってったで、長男も次男も、都会に出て新し家建てるのが普通やもんね。田舎は職が無いで」

「私もその独りでしょうが……今になって胸が痛みます。親孝行すべき時に親はなし、言い得て妙ですね」

 智春はしみじみとした表情で、茶碗を手に取る。

「それでも濱野さんの仏壇を見て、参列者の方々から褒めていただき、少し救われた気分になりました」

 一口すすり、ホーっとため息をつく。

「ようやく母が、なぜお洗濯の塗り直しを断行したのか、分かった気がします」

 茶碗を茶托に戻した。

「そして、私、決めたんです。現在の会社を早期退職し、来年にでもこの村に腰を落ち着けようと、決めました」

 濱野は思わず背筋を正した。

「それはまた、何で?」

「私も60近いですし、少しばかり蓄えもあります。息の詰まるようなシンガポールの喧噪を離れたいという思いも、ずっと持っていました」

 智春、自然な笑みを浮かべる。

「それに今まで看てあげられなかった分、母の面倒を見てあげたいのです。今わの際に独りにしてしまった分、もう、永遠に独りにしておきたくない」

 濱野、音を立てて茶を飲みこんだ。

「それは、ご立派ですね」

 茶托に戻す。

「ご家族はもうご承知なんですか?」

「いぇ、これから言うつもりです」

 智春は頭を掻いている。

「でもまず濱野さんに申し上げておきたかったのです」

 濱野、驚きで表情が引き締まる。

「どうしてですか?」

「それはきっと、濱野さんのお仏壇が、私にそう決意させてくれたからでしょう……」

 潮騒の音が、言葉と共にスーッと染み入ってくる。

 

 午後からは、久方ぶりに治が工房に姿を現した。彼は65を過ぎ、年金が支給されたことと、肉体的な限界を理由に隠居を始めた。息子、娘も立派に自立していて、貯蓄と合わせれば不自由はない。

「お前、また行くんかい?」

 濱野はバンに出張仕事の荷物をつめている。いつしか雨は止み、夏の盛りの強い日射しが照り付けている。

「せやかて、仕方ないやろ。仏壇だけじゃ食うてけへんさかいな」

「おまんもあと2,3年の辛抱や」

「せやな。けどいつまで続くか分からんけど、ワシは生涯現役や」

 濱野、額の汗をぬぐう。

「シンドイやろ?」

 治が縁側に腰掛ける。

「そらそうや」

 そう呟くと、笑みを浮かべ空を見上げた。『濱野仏壇』の錆の浮いた看板が、日の光を浴びて、鈍く輝いている。










○長浜市民病院・外観

   7階建のガラス張りのビル。

   にわかに雨が降っている。


○同・春子の病室

   ドアがノックされる。

濱野の声「おばやん、入るで」

   濱野悟(55)が入る。

 一条春子 がベッドの背もたれにも

たれて体を起こしている。腕から点滴

の管が伸びている。傍らには一条智春 

がスーツ姿で丸椅子に腰かけている。

   一条が立ち上がる。

一条「濱野さん、ご無沙汰してます。此度は

大変ご迷惑をおかけしました。母がこうし

て無事だったのも、濱野さんのおかげです」

濱野「智春、久しぶりやな。シンガポールか

らよう帰ってこれた。向こうでは随分と御

活躍やって聞いてるで。取締役なんやて?」

一条「いいぇそんな、雇われの身ですよ」

   智春は傍らに置かれた紙袋を取る。

一条「つまらないものですが、シンガポール

の土産です。といっても、月餅という中国

のお菓子ですが、よろしければ」

濱野「いやそんな気をつかわんで……」

 やり取りを見守っていた春子が、

春子「智春、椅子を空け」

 智春は立ち上がり、濱野に席を促す。

濱野は躊躇しながらも、腰を下ろす。

濱野「おばやん、加減はどうやいね?」

春子「おかげさんで、ずっと良くなったわ」

一条「熱中症で運ばれた時は、正直危険な状

態だったと、お医者さんは言われてました」

 智春が深く頭を下げる。

一条「濱野さんには感謝し切れません」

濱野「いやいや、そんな言わんで……」

   と濱野、口ごもる。話題を変える。

濱野「いつ退院やいね?」

春子「来週の末には出れそうや。しばらく通院はせなあかんけど、元々肝臓痛めてるのは知ってたし、造作やけど、ここも退屈やしな」

一条「母さん。そんな急いで出る必要もない

でしょう。きっちり直してください。そう

でないと、僕も不安で帰れません」

   春子はそっぽを向いて、

春子「いやや」

一条「どうしてです? あの村から通院する

のは大変でしょう? バスに乗り継いで、

この市内の病院に通うのは辛いはずです」

春子「話を聞いてなかったんか? 何もする

こともない。飯を用意することもない病院

暮らしは、退屈や、すぐ帰りたい」

一条「でも、お独りですから心配です」

春子「ならお前が見ててくれるんか?」

   沈黙。雨音だけが聞こえる。

一条「……日本には帰れません。家族ももう、

シンガポールに馴染んでいることですし、

長女のサラは来年、家から大学へ通います」

春子「ほれ見ぃ、跡取りが親の面倒も見んで

情けない。あんたはよぉ出来た子やけど、

苦労のし甲斐がないわな」

   重い沈黙の後に

一条「老人ホームにも入りませんか?」

春子「いやや。アタシはお父ちゃんが守って

くれた、あの屋敷を離れへん」

 春子は濱野に向き直る。

春子「ところで濱野さん。お洗濯はいつごろ

終わりそうや?」

   智春が濱野の方を向く。

濱野「はぁ、実はもう塗り終わってます」

春子「じゃあもう完成してるんやね」

濱野「組み上げがもう少し、あるだけですわ」

一条「お洗濯というのは、お仏壇の事ですか?」

濱野「そうです」

一条「たしか古い仏壇をばらして、新しく塗

り直すことでしたかね? それを今、ウチ

の仏壇をやっていらっしゃる?」

春子「アタシがふた月前に頼んだんよ」

一条「僕は初耳です」

春子「アタシが勝手にしたことやで、あんたに関係ないやろ。家継がへんかったあんたに」

 智春、顔を険しくする。

一条「いい加減にしてください、お母さんだけの問題ではないでしょう⁈ おいくらかかったんですか?」

 濱野は怯みつつも、

濱野「75万で承ってます」

   言葉が出ない一条。

春子「ここらの仏壇は大きくて立派やからな。

外は漆塗り、中は金箔。彫刻と金具は取り

替えてもろた。そらそれぐらいするわいな」

 春子、智春をジッと見つめる。

春子「頼んでから毎日、濱野仏壇さんに寄せ

させてもろてたけど、よぉ手間暇かけては

る。仏壇ひとつに、ひと月もかかりきりや」

一条「でも一言相談してくれてもよかったの

ではないですか? 大きな買い物ですし、

僕の毎月の送金からも出ているはずです」

春子「反対したんか?」

   智春、濱野をチラリと見る。

一条「そういうわけではないですけど、お身

体を悪くされてるなら、これから出費が増

えてくることも、考えるべきです」

   智春、一呼吸おいて、

智春「勿論、お支払いはしますが……」

濱野「いや、おばやん。もうええで」

   と、濱野、立ち上がる。

 視線が濱野に集まる。

濱野「事情があれやし、受け取れへんわ」

 春子が顔を険しくする。

春子「アホいいなんな、商売人がそんな事、気にすることやない! 受け取ってもらわな、御先祖に申し訳たたぁへんわ!」

濱野「そな、聞いてええかいね?」

   濱野はノートを差し出す。表紙には『エ

ンディングノート』と書かれてある。

春子「それ、アタシのやな」

濱野「せや。智春君の電話番号が載ってたノ

ートや。熱中症で倒れてたすぐ脇の卓の上

にあったで、助かった」

 濱野はページをめくる。

濱野「見るつもりなかったけど、見えてもう

たで聞かせてもらうわ。財産の譲渡や処分

のとこに、仏壇のことが書いたるな?」

   ページを開き、春子の前に置く。智春

が近寄り、覗き込む。

濱野「仏壇だけが、ウチの仏壇屋で引き取っ

てもらうて、どういうことや? それもタ

ダで、中古で売れるようにて……」

   口を閉ざす春子。

智春「お仏壇て、売れるんですか?」

濱野「お性根抜きいうて、お坊さんに魂を抜

いてもらえれば、大丈夫や。昔はそれで安

くて良い仏壇が買えたもんや」

沈黙する春子。やがて口を開く。

春子「せやかて智春は継いだら潰すやろ」

智春「母さん……」

春子「あんた田舎に戻って、仏壇と屋敷の守

りしてくれるんかいね? 日本に戻る気

のないあんたにはでけへんやろ?」

   智春は俯いて黙ったままだ。

春子「あんたは昔から始末の良い子やから、

屋敷は売るやろし、仏壇は処分するやろ。

残しといてもしゃあないからって」

智春「そんなことない」

春子「前に墓だけでいいて、言ってたやない」

   智春、再び黙る。

春子「あの屋敷も、仏壇も、アタシとお父さ

ん……あんたのお爺さんと、一生懸命守っ

てきたものなんや」

   濱野が身を乗り出す。

濱野「じゃあ教えてくれへんやろか? 何で

継ぐもんのいん仏壇を、改めてお洗濯しよ

うと思たんや?」

   春子、濱野の目をジッと見る。

濱野「お洗濯は普通、代替わりの時に、自分

が死んだ後もキチンと守をして貰うため

にやるもんや。継ぐ者おらんと意味がない」

春子「……何もそれだけやないやろ」

   春子、念のこもった声で話す。

春子「仏壇は、やり場のない、亡くなった人

への弔いの気持ちの、唯一のやり場のはす

や。そうでなかったら誰が朝夕拝むかいな」

 春子は遠い目をする。

春子「アタシは散々お父ちゃんに迷惑かけて

きた。出戻りで、この子抱えて帰ってきて

から、ずっとな……」

   智春、悲し気に顔を伏せる。

春子「アタシが東京で、あの男と出会うてか

ら苦労のし通しや。軽薄で、子供出来たか

ら婿養子になる言うて家に入っても、何が

辛いんか全部投げて出ていきおった」

   春子、皺だらけの手をジッと見る。

春子「甲斐性のうて養育費も出んから、代わ

りに全部面倒見てくれたのはお父ちゃん

や。私ら母子を、死ぬまで支えてくれてた」

   智春、手を前で組む。

春子「ほいでもとうとう、生きてる内に何も

してあげれんかった。ただ尽くしてもろた

だけの口惜しさが、おまんらに分かるか?」

濱野「な、親孝行したいときに、親はない」

春子「だから死ぬまでに、奉公しときたかっ

たんや。お父ちゃんが守ってきた物が、朽

ちてくままになるのは、忍びない思て……」

 春子、智春に向き直る。

春子「おまんの仕送り使てでも、我儘を通し

たいと思たんや。」

   智春、目が充血している。

春子「ウチの子は立派に育った。お金の心配

かけへん、あえて親が残す必要のない、頼

りがいのあるええ子に育った……」

   智春、唇を噛みしめている。

春子「これは、アタシなりの弔いなんや」

   智春、濱野の手を取る。

一条「濱野さん。どうか、受け取ってあげてください。お願いします」

濱野「……分かりました。有難く頂戴します」

   濱野も唇を噛みしめ、深く頭を下げた。


○火葬場・外観

   青々とした山に囲まれてポツンと建つ。

T・三年後


○同・炉前ホール

   葬儀参列者が50人ほど集まる。

   棺桶が炉の中に入り、扉が閉じる。

   炉の前のスイッチに手をつける一条

一条「さようなら、母さん」

 力を込めて緑のボタンを押したとた

ん、膝から折れてむせび泣いた。

一条「すみませんでした、すみませんでした、

ホントにすみませんでしたーっ……‼」

一条の周りに家族が寄り添う。


○濱野仏壇・一階工房内

   時計の針は10時。

   小雨の降る中、工房の縁側に面したソ

ファーに一条が腰かけ、濱野 が向か

いで古いデスクチェアに座っている。

一条「ですから皆さんが、葬儀の際に濱野さ

んのお仏壇を見て、よぉ孝行しなさった。

と言ってくださったのが、救われました」

  一条が笑顔で、しみじみと語る。

一条「実際は、今わの際も独りにさせてしまっていた、親不孝者ですのに……」

濱野「遠くにお住まいやで、仕方のない事ですわ。正直、この村ではよくあることです」

   一条、茶を一口すするとため息をつく。

一条「ようやく母が、なぜお洗濯の塗り直し

を断行したのか、分かった気がします。そ

れで、私、決めたんです。今勤めている会

社を早期退職し、来年にでもこの村に腰を

落ち着けたいと思います」

濱野「それはまた、どうして?」

一条「私も60前ですし、少しばかり蓄えもあります。息の詰まるシンガポールの喧噪を離れたいという思いも、ずっと持っていました」

と笑みをべ、

一条「それに今まで看てあげられなかった分、

母の面倒を見てあげたいのです。もう独り

にしておきたくなくて」

濱野「それは、立派なことですわ。ご家族は

もうご承知なんですか?」

一条「いぇ、これから言うつもりです。でも

まず濱野さんに申し上げておきたかった

ものでして……」

濱野「どうしてですか?」

「それは、あの日の事と、濱野さんのお仏壇が、私にそう決意させてくれたからです」


○同・駐車場

   壁の時計は四時を差す。

   雨はすでに上がり、縁側に面した駐車

場で濱野はバンに荷物を積んでいた。

濱野治 が訪ね、声をかける。

治「お前、また現場仕事かいな?」

   仕事道具以外に布団などを積んでいる。

濱野「仏壇だけじゃ食うてけへんさかいな」

治「年金貰えるまで、あと2,3年辛抱やな」

濱野「せやな。でも、ワシは生涯現役でいか

せてもらうわ」

治「シンドイど?」

 治が縁側に腰掛ける。

濱野「そらそうや」

 と、笑みを浮かべ、道路に面した『濱

野仏壇』の錆の浮いた看板を眺めた。

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おせんたく @AL_chan

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