依子さんを巡る男の戦い

 背後の声に振り返る。視界に無数の呪符が映った。

 反射的に腕を上げたが、呪符の群れは俺を避けるように空中へと舞う。そして浮遊しながら俺を囲み、回転し始めた。

 流れる呪符の束から垣間見えたのは、白い法衣を纏う狐面の人間だ。


帰命したてまつるノウマク・サマンダあまねき諸金剛尊よ。暴悪なる大忿怒尊よ・バザラダン・センダマカロシャダ・ソワタヤ・ウン粉砕したまえ・タラタ・カン・マン


 狐面が何かの呪文を唱え始める。すると呼応するように呪符の朱文字が眩い燐光を放った。回転は更に激しくなり、朱線が空中に浮き出てそれぞれが繋がり、鎖の網が構築される。

 気づけば俺は、赤い檻に閉じ込められていた。


「欲をかいて自滅したな。数日かけて練り上げた<天岩戸あまのいわとの結界>は貴様でも破れまい」


 言葉が出てこなかった。この展開はまったく想定していなかった。

 声を聞く限り狐面を被っているのは男だ。アヤカシ喰いじゃない。補助を務める裏方の人間が現れたことになる。

 しかし、組織に属しているとはいえ中身は単なる人間のはずだ。呪符は操れるようだけど、アヤカシに敵うはずはない。

 なのになぜこの男は、俺という妖狐の前に単独で出てきたのか。


「あなたは、その……」


 思わず聞いてしまうと、殺気だった気配に不快感が混ざった。


「貴様は俺の問いだけに答えろ」


 狐面の男が一層声を低くする。切迫した怒りすら見え隠れしていた。


「目論見を達成して尚、なぜケイを付け狙う」

「ケイ? 目論見?」

「誤魔化すな外道」


 男が人差し指と中指の二本を突き立てる。すると赤い檻が蠢動してぐっと狭まった。肌に触れてもいないのに表皮が焼けるような感覚が来る。


「ケイに取り入り秘匿通信の存在を掴んだのは貴様だろう。総本山への襲撃を企てるために彼女を利用した。だがそこでケイの利用価値は消えたはず。これ以上、彼女に付き纏って何をするつもりだ」


 意味のわからなかった文脈が形を成してくる。

 秘匿通信を掴んだというのは、おそらく依子さんの家で偶然知ったことを指しているのだろう。

 なら、ケイというのは依子さんのことか?

 組織間の呼び名か何かだろうか。気になるが、正すべきは誤解のほうだ。


「そんなことで依子さんと一緒にいたわけじゃない。確かに秘匿回線は利用させてもらったけど……それだって、依子さんを助けるためで――」

「なにが依子だ……!」


 声に反応するように檻が縮む。もう目と鼻の先に迫っていた。俺は尻尾が触れないようにさっと腰に巻き、いつでも動けるよう身体に力を蓄える。


「彼女の名はケイだ。貴様が知っている名は偽りでしかない。仮初めの関係を示すだけの記号で彼女を呼ぶな……!」


 檻に警戒していた意識が軽く吹っ飛んだ。


 ――ケイって、言うのか……。


 胸中で呟いてみても、まるでしっくりこなかった。

 俺にとって依子さんは依子さんだ。その名前と思い出が繋がっている。偽名であろうと、俺達の関係まで嘘になるわけじゃない。

 むしろ、本名を気安く呼ぶ男の態度の方が引っかかる。

 組織の人間なら彼女の名を知っているのは不自然じゃない。けれど、胸がざわつく。同僚に向ける感情だけではない気がする。

 不意に、つがい役、という単語が浮かんだ。楠木は確か、次世代のアヤカシ喰いを産ませるために組織が男をあてがうと言っていた。

 もしかするとこの男が――依子さんのつがい。


「いい加減その醜悪な本性を曝け出せ、半妖。この期に及んでケイに近づくのは後始末のためか? それとも彼女を愚弄し嘲笑するためか? 快楽目的で近づくなら――」

「違います」


 言葉の途中で遮る。自分でも意外なほど刺々しい声音だった。

 胸の奥で勢いを増すのは、男への対抗心だ。


「あなたが俺達のことをどう思うと勝手だ。でも、自分の都合の良い解釈を押しつけないでください。依子さんが必要だから、彼女を助けに来た。それだけです」


 ギリ、と狐面の奥で歯ぎしりの音が聞こえる。男の怒りが加速している。

 なぜこの男一人だけなのか、納得できる気がした。

 おそらく戦闘員はアヤカシへの対応や所員の守りに徹するだけで、依子さんのために動く人間はいなかったのだろう。だから非戦闘員の彼だけが独断でここに居る。自分だけでも彼女を守ろうとして。

 少し複雑だった。有り難いと思う反面、負けたくないという気持ちが強くなる。


「……あくまで白を切るわけか。いいだろう。どのみちやることに変わりはない」


 男が、二本指を閉じて拳を握りしめる。


「貴様にケイは渡さない。ここで潰れろ」


 閉じ込めたものを圧縮し肉塊に変える赤い檻が一気に迫る。

 俺はその呪縛を、両手でもって切り刻んだ。


「なっ――」


 狐面の男が狼狽の声を上げる。俺は舞い散る呪符を手で払い、一歩踏み出す。


「馬鹿、な……これの無効化など、泰山府君の儀くらいしか……!」


 ゆっくりと近づくと男が後ずさった。それは無意識だったのか、男はハッとするとその場に留まり、隠し持っていた呪符、そして一丁の拳銃を取り出す。

 そんなものは何の脅威でもない。相手も十分に分かっているようで、銃を構える手が震えていた。


「あなたの言葉、そっくりそのまま返します」


 掌を拳に握りしめる。殺しはしないが、容赦もしない。


「依子さんは、渡さない」


 瞬間――ドクンと心臓が跳ねた。


「がっ……!?」


 筋肉が悲鳴を上げる。心臓が暴れ呼吸が乱れる。膝が折れて地面に手をつく。

 その手から煙が出ていた。体中からも煙が噴出して俺を包み始める。


 ――しまった……!


 頭に血が上ってタイミングを見誤った。俺は慌てて尻のポケットに入れていた小瓶を取り出す。

 それを口に持ってくる直前。煙の隙間から、銃口が見えた。

 掌を灼熱が穿つ。握っていた小瓶が砕け散る。

 甲高い音が立て続けに響いた。衝撃で身体が揺さぶられ後方へと転がる。

 体中が痛い。どこが痛いのかわからないほど痛い。


「危なかったな……報告に聞いていた変怪の特殊性というやつか。どうやら自分では制御できないらしい」


 安堵を含む声と共に狐面の男が近づいてくる。俺は必死に首を上げて自分の身体を確認した。全身血だらけで、特に右の太ももと腹部の出血量が酷い。半妖の状態だから修復はまったく進んでいない。


「無様だな」


 歩み寄った男が足を振り上げ、俺の腹部に落とす。喉の奥から絶叫が迸る。


「半妖とはいえ貴様は化け物だ。化け物が人間と対等に生き、寄り添うなどただの幻想だ。もし貴様が本気で信じていたのなら、その思い上がりが多くの人間を犠牲にした。貴様のせいで俺の仲間は殺されたんだ……!」


 足底が傷口を抉る。痛みで思考が塗り潰される。涙で視界が滲む。


「俺には託された責任がある。俺が彼女を幸せにする。貴様は消えてくれ」


 銃口が頭部に向けられる。引き金に指がかかる。

 朦朧とする意識のせいか、危機感はあまり感じない。

 変わりに姿を現したのは、怒りだ。


「責任、だって……?」


 沸騰する感情が活力を呼び戻す。引き金が引かれる寸前、その腕に裏拳を叩き込んだ。軌道がズレたおかげで弾丸は俺の頬を擦り地面を穿つ。狐面の男は息を飲んだ。


「まだ動け――」

「そんなことが理由なんですか?」


 俺は痛む身体に鞭打って身体を起こし、銃を構え直す男に向かって突進する。

 振り切った拳は男の顔面を打ち据えた。男は大きくバランスを崩す。

 俺は更に踏み込んだ。男の発言が許せなかった。


「誰かに言われたから依子さんを愛してあげるんですか、あなたは!?」

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