夜襲 上
夜の帳が落ちた。人気の少ない住宅街は静けさが漂っている。街灯も少なく暗闇の濃度も上がり、接近する人の姿も認識しづらい場所が多かった。
痴漢やひったくりにも合いやすいという、地元住民も警戒する狭く雰囲気の悪い遊歩道を女子高生が歩いている。彼女は近場の民家やマンションをきょろきょろと見回し、古そうな建物や撤去を待つ廃屋を繁々と観察していた。その挙動は怪しいが、犯罪行為をしているわけでもなく見咎められることもない。
むしろ彼女の周囲に通行人の姿はなく、その状況の方が危うかった。
そうして女子高生が、大きな塀に挟まれる遊歩道を抜けようとした瞬間。
塀の終点からぬっと腕が伸び、彼女の身体を掴み口を塞いだ。女子高生はそのまま引きずられるように路地の奥へと連れ込まれ、僅かな距離の先にあった小さな公園に運ばれた。
不審者は公園中央で女子高生を俯せに押し倒す。彼女は四つん這いで臀部を突き出したような格好をさせられ、更に片手を腰の後ろで拘束された。
だがそこで不審者は訝しむ。あまりにも簡単すぎる。
いくら男の体格差と人離れした膂力を持っているとはいえ、この少女が無抵抗で捕まるはずがない――と。
「ウチに触るんじゃねーです」
女子高生は片手で地面を押し、更に折り曲げていた膝をぐんと伸ばして地を蹴った。男の胸元からスルリと抜けた彼女は、片腕を握られたまま上空に向けてバク転する。逆さまになった瞬間に足を振り上げ男の背中へ蹴りを叩きつけた。
男は地面に顔面を打った。握っていた腕も放してしまい女子高生に組み敷かれる。一瞬にして立場が逆転した。
「変質者なら警察に突き出す。それ以外なら正体を現しましょー。できれば後者であることを望みますが」
早口で喋りながら女子高生――<滅怪士>楠木美希は太もものホルスターに収納したナイフに手をかけた。
だがそれを抜き放つ寸前、彼女は拘束していた男の元から後方へと飛び退く。
美希が着地すると不審者はゆっくり立ち上がった。ロングコートに身を包み、フードを目深に被っている。暗闇も手伝って人相はわからない。
ただ、暴行目的でないことは明白だった。男の手には銀の光沢を持つ長大な凶器――日本刀が握られている。組み敷く直前に竹刀袋から抜いていたようで、美希は斬撃を察知して回避していた。
どこから入手したかは知らないが、日本刀なんて代物を無分別に振り回す人間はこの国では極少数だろう。むしろ、美希の正体を把握した上での武装だといえる。
目の前の男は一般的な成人の姿をしていた。擬態しているアヤカシだとすれば滅怪士の肉体が、ひいては魔臓宮が妖力に反応するはずだが、今は何も感じない。
だが美希は、常とは異なる昂ぶりを感じていた。
――どういうつもりか知らないけど、まさかそっちからやってきてくれるなんてね。うふふ。
美希はニヤリと唇を釣り上げる。演技の顔をかなぐり捨て、アヤカシを喰う者の本性を剥き出しにする。
隠れ潜んでいたターゲットが向こうから姿を現した。罠を張っている可能性はあるが、探す手間が省けたといえる。彼女は獲物を前にして悦ぶ肉食獣のように殺意と食欲を滾らせた。
すると男は無造作に、手に持つ日本刀を掲げる。刃の状態を確認するとなぜか舌打ちした。美希が訝しむと男は刀を構え、戦闘態勢に入る。
先ほどの行為はなんだろう。ナイフを抜きながら美希は眉をひそめる。刃こぼれでも気にしたのかもしれないが、当たってすらいないのだから確認の必要も無い。
思考は男の足音でかき消された。頭蓋へ日本刀が迫る。
美希は即座に回避して男の背後に回りナイフを突き出した。読んでいた男がこれを日本刀で防ぎ止め、更に斬りかかってくる。
擦過音が夜の公園に響く。斬り合いが続く。だが互角なのかといえば、決定的に違った。
「はい遅い~!」
挑発を口ずさみながら美希がナイフを振る。首筋を狙った一撃は紙一重のところで回避された。後退した男は首を押さえる。その手には血が滲んでいる。切断はできなかったが、しっかりと肉は切り裂いていた。
美希はナイフについた血を舐める。途端、彼女の顔は恍惚に染まった。
「ふうぅ……かなり薄いけど確かに感じますよぉ。これで決定しましたねぇ、ひひひひ」
妖力を吸収したことで魔蔵宮が蠢動する。下腹の疼きと共に来る快感に身を捩りながら、美希はナイフの尖端を男に向けた。
「半妖の太一君ですね? あなたには聞きたいことが山ほどあります。どうか武器を納めて投降してくださぁい」
ターゲット――太一は、返事もしなければ動揺もしなかった。彼は静かに日本刀を掲げて抗戦の意思を見せる。
美希はすかさず周囲に目配せした。単独で来るとも考えられない。もし事前情報通りなら、一人で現れること自体が自殺行為だからだ。
確証を得るため、美希はカマをかけた。
「やっぱり。あなた、妖狐に変怪することができないんですね? そのままの姿で戦えるよう武器を調達したのが証拠ですよぉ」
太一は無言を貫いた。否定したところでバレているなら意味はない――そんな態度をしているように思えた。
となるとやはり仲間が潜んでいる可能性が高い。ハッタリも使わないのであれば策を弄しているのだろう。
そのとき美希の鼓膜は、この場に近づいてくる足音を捉えた。
「どういう理由で変怪できないかは知りませんが、武器を持ったところで無駄ですからねぇ。そんなもの使ったところでウチに敵うはずないですし。それに」
「二対一なら、当然貴様に勝ち目はない」
太一は弾かれたように振り返った。公園の入り口から悠然と歩いてくる女性がいる。紺のスーツに実を包んだその女は美希の相棒、<滅怪士>藤堂秋子だ。彼女もまたナイフを握りしめ、妖艶な笑みを浮かべていた。
美希は神経を研ぎ澄ませた。潜んだ仲間は痺れを切らして出てくるか、あるいは太一を見捨てるのか。
秋子はなんの障害もなく太一の後方まで進む。美希は内心ほくそ笑む。見捨てられたなら愉快この上ない。
「貴様を細切れにすることは容易い。でもそれは我々の本意ではない。我が組織は貴様の身柄を求めている。素直に投降すれば尊厳のある死を選ばせてやる」
「……どちらにしても死ぬことに変わりはない、ってことですか」
男が初めて喋った。やはり若い青年の声だ。敬語口調をしているが、わざとというよりかは本人の性格が出ているようだった。
「ここで絶望と恐怖に染まり、私とあの子に喰い千切られることを望むならそうしてもいいわよ? 生かして連れ帰ることが任務だけど、どうせ殺したって構わない。私たちの評価が少し下がるだけだから」
「えー、評価が下がるのは嫌ですぅ」
「あなたは少し黙ってなさい」
怒られた美希は肩を縮める。
太一は黙って聞いていたが、ややあって静かに答えた。
「食い殺されたくはない」
「そう。なら私たちに従って――」
「身体を弄くられて死ぬのも、御免です」
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