いじわるな棗さん
「……棗さん、ごめん」
俺は、彼女の手を掴んだ。
「依子さんがいるから、できません」
依子さんの呪いは今も俺を縛り続けている。他の女性が入り込む隙間もないほどに彼女で埋め尽くされている。性的衝動を抱いただけで自己嫌悪に陥るほどに。
こういう感覚は前にもあった。依子さんに迫られて、母と叔父のために拒否してしまったときと同じだ。似たような心理状態にあるのは皮肉というか、この展開が自分の業なのかなとも思ってしまう。
それでも俺は、自分から手を出さなかったことに安堵している。踏み込めば本当に自分を殺したくなるだろう。
ぷっ、と吹き出す吐息が背中にかかる。
棗さんは声を上げて笑い始めると、俺の背中をバシバシと叩いた。
「なにマジになってんのよ! 太一のくせにその気になっちゃってさ~」
ケラケラと笑う棗さんに怒ったり悔しがったりする様子はない。最初から俺を茶化すつもりだったわけだ。何というか言い返す言葉も浮かばず、ひたすら徒労感だけが積もった。
「安心しな。お前と寝ようなんて思っちゃないよ。所詮は半妖だし。どうせ大したテクニックも持ってないだろうし」
そこはノーコメントにならざるを得ない。
やっぱり棗さんは棗さんだな、と呆れ半分納得半分で聞いていると、後ろで衣擦れの音がした。俺が差し出した服を着ているようだった。
「まぁでも。そういうお前は、悪くない」
「えっ?」
俺は振り返り、すぐに視線を背ける羽目になった。棗さんはシャツを着てくれていたが、下着をつけていないせいで豊満な胸がやけに強調されている。しかも上だけで下半身は何も身につけてない。
「あの、もう少し着てほしいのですが」
「面倒くさい。暑い。自分の住処なんだからどんな格好だっていいだろ。ったく人間は何でゴテゴテと身につけたがるんだろうなぁ。ずっと素体のままでいたいけどそれだと不便だし」
ぶちぶち文句を言っている棗さんだが、ふと何か思いついたようにニヤリと笑った。悪戯な側面がにじみ出ている顔は、ろくでもないことを考えているときのものだ。確かクロカンブッシュ一日で作れと命令されたときもこんな感じだった。
ちなみにクロカンブッシュというのは小さなシュークリームを円錐型に盛り付けた祝祭用の菓子で、手作りとなるとかなりの時間がかかる。一応そのときは徹夜でなんとかしたけれど。
「そこまで着て欲しいなら、お前があたしに履かせてよ」
そう言いながら棗さんは、脱ぎ捨ててあったパンツを指にかけてくるくると回す。
「……は?」
「身の回りの世話させる代わりに匿ってやってんじゃない。ほれ、身の回りの世話だぞ」
「回りじゃなくて身そのものでは」
「細けーなぁ太一は。飼い主の言うことを聞く方が気に入られるに決まってるじゃない。具体的には手伝ってあげてもいいかなーって思うかもしれない」
そうきたか。ほんと棗さんは、俺を惑わすことにかけては抜け目がない。
俺はため息を吐いてレース模様の入ったパンツを凝視した。触るのはともかくあれを履かせるというのは抵抗があるというか、女性として本当に大丈夫だろうかと逆に棗さんを心配してしまう。
しかし拒否してヘソを曲げられても困る。
――ごめん、ここだけは許して依子さん。
俺は棗さんから下着を受け取った。洗濯のために何度も触って慣れているはずなのに、今はなぜか緊張してしまう。
棗さんはクッションの上に座って足を投げ出していた。履かせる態勢としては不十分だけど仕方ない。
彼女の足首を持ち、パンツの片方の穴に足を通してからもう片方の足も反対の穴に通した。棗さんはニヤニヤと楽しそうに観察してるが無視。
俺は両手でパンツの端を持って、足首から脛、膝までスルスルと上げた。白く滑らかな脚部は、魅了されないといえば嘘になるが、まだ我慢できる。
しかし太腿まで上げていったとき、どうしても手が止まってしまった。やはり気まずいというか、恥辱と罪悪感と生理的欲求が混ざって頭が混乱する。
「くすぐったいなぁ。もっと乱暴にしていいんだよ、太一?」
いつもより優しげな声音で棗さんが囁く。そうやって調子を狂わせる魂胆なのはわかっているが、本能が易々と刺激されてしまうのは悔しい。
俺は深呼吸して行為を再開する。徐々に上げていき、これ以上進むともう股間部が視界に入るという段階になった。棗さんの顔は見えないが、何となく彼女からも興奮している気配が伝わってくる。それが余計に俺を誘惑する。
俺は一度手を止めた。息も止めた。目も閉じた。
脳裏に依子さんの姿が浮かび上がる。彼女がこの光景を知ったとき、どうするだろうか考えてしまった。
『へぇ。たーくんそんな風に遊ばれちゃったんだ可哀想。じゃあ余計なことに使われないよう五本指全部縫い付けてあげるわかったわね今からやるから手を出して』
急に邪心が消え去った。というか身震いした。でも今なら手元が狂わずにいける気がする。
「――っせい!」
掛け声と共にパンツを一気に引き上げる。
腰骨に当たった感触がして、俺はすぐ手を離して床を転がった。
一瞬の沈黙の後、棗さんが爆笑した。
「にゃっはっはっ! やっぱヘタレだなーお前! はーウケる」
四つん這いでゼーゼー息を吐く俺を見て、棗さんが足をばたつかせながらケタケタ笑っていた。
恨みがましい視線を向けると、彼女はクッションの上に胡座をかいて「ふふん」と含み笑いする。
「ほんと、こんなときでもあたしに欲情しないのねお前。別に尻くらい揉んでもいいのに。感じたフリくらいしてやったよ?」
「……でも、本当にやると殺すでしょ」
「ああ、まぁそれもそうね~」
棗さんは何の悪びれもなく言ってのけた。半年間の同棲で彼女の性格がわかっている分、俺の方も驚きや怒りはない。
ただし彼女のペースに押されてどんどん本筋からズレている。無駄話を止めようと、俺は口を開いた。
「でも一番の理由は、依子さんてのに操を立ててるからだろ? アホらしいけど、一向になびきもしないその頑固さは筋が通ってる」
棗さんに先を越されたが、彼女の雰囲気は一変していた。
口元は笑っていても俺を見つめる目には理知的な光が宿っている。
「人間の女を救いたいってお前の気持ちは、あたしにとってはどうでもいいこと。でもお前のその呪いじみた頑固さには根負けするよ。それに、もし失敗してもあたしのことは口を割らないだろうな、お前は。そこまでして生きたいと思ってない」
心臓が跳ねた。彼女は俺のことに、どこまで気づいているのか。
匿ってもらった当初に棗さんには事情を話しているが、依子さんとのやり取りや心境までは語っていない。
眼の前のアヤカシに内面が見透かされている気がして、少し鳥肌が立った。
「で、前に聞いた通りの計画なら、まずは太一一人で事に当たるんでしょ?」
棗さんは脱線していた話を自ら戻していた。どうやら乗り気になってくれている。不意を打たれて反応が遅れてしまったが、俺はすぐに顎を引く。
移り気な棗さんの気分が変わらないうちに話を終わらせないといけない。気を引き締め、棗さんを真正面から見据える。
「そうです。まずは俺だけでアヤカシ喰いを捕獲します。それが成功すれば、依子さん奪還計画が実行できる」
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