出会ってしまった依子さん 下
ビクッと肩を震わせ、依子は弾かれたような勢いで振り向いた。
彼女の驚愕顔を見たエプロン姿の男が慌てる。
「あっ……すみません、驚かせて」
頭を下げたのは店員だった。瘦せぎすで綺麗な黒髪をしている青年は、よく言えば人当たりの良い、悪く言えば頼りなさげな弱々しい笑みを浮かべている。
「あの、お二人は、お約束があって同席されているのでしょうか?」
そう言って青年は向かいの男に目を向ける。茶髪の男は露骨に不機嫌になる。
「はあ? 店員がなんでそんな事聞くんだよ」
「もしお連れの方でなければ、席は他にもありますので……広いスペースの方は、いかがでしょう」
「どこに座ろうと客の勝手だろうが!」
男は威嚇するように怒鳴る。店員はますます萎縮するが、引く気配はない。
どういうつもりなのか、依子にはさっぱり理解できなかった。
もちろん店員の青年が話しかけてきたことに対して、ではない。
――なぜアヤカシが、いるの……!
依子の嗅覚は、青年の身体から滲み出る妖気を嗅ぎ取っていた。人の姿をしているが、彼は人間ではない。擬態をした化け物だ。
ただそれにしては妖気の匂いが薄い。一度目の接近でも気づかなかったくらいだ。擬態しているにしても、人のように働くことまで真似するアヤカシはいない。
一体なにが目的なのか。滅怪士だとバレているのか。
緊張でじわりと汗が滲む。すぐにでもナイフを抜き放てるよう、身体に力を込める。一挙手一投足を見逃すまいと目を見開く依子の前で、青年は言った。
「ええと、ですね……ここだと外から丸見えなんです。困ってる女の子が見えると、他の女性客も入りづらいかなって」
「んだてめぇ。俺が困らせてるって言うのかよ? ああ? つうか店員が客に文句垂れるとかどういう教育してんの。おい店長呼べよ!」
「あ、もう呼びました」
店員の青年が振り返る。その視線を追った茶髪の男はギョッとしていた。
カウンターには、おそらくキッチンから出てきたであろう店長らしき男がいる。ただし長身かつ筋骨隆々で、およそアンティーク喫茶店に似つかわしくない風貌だった。
「話し相手が欲しいならカウンターにいらっしゃい、相手になってあげる。だそうです」
青年が言ったタイミングとほぼ同時に、店長がウインクした。挨拶にしてはやけに艶っぽい。よく見れば唇はグロスでテカテカしているし、眉毛は綺麗に手入れされ睫毛もカールを描いていた。漢らしい容姿とは裏腹に美容にも気を遣っているようだ。
何が気に食わなかったのか、茶髪の男は舌打ちすると急に席を立って店を出て行った。身の危険を感じたせいだと理解していない依子は、終始意味不明な男だったなという感想を抱いて、すぐに忘れる。
今はもっと別のことに注意を払わなければいけなかった。
「ごめんよ、もっと早く声をかければ良かった」
ほっと息を吐いた青年は申し訳なさそうな口調で話しかけてきた。
逆に依子は身を硬くした。
「いえ……おかげで、席を立たずに済みました」
助け船を出してくれたことはさすがに気付いている。だから不自然でないように取り繕った。
同時に依子は、青年の反応をつぶさに観察する。アヤカシが接触してきた理由がわからない。滅怪士かどうか、確かめようとしているのだろうか。
「ゆっくりしていってください。後で注文に伺いますから」
「あっ、今言います。いちごムースケーキとミルクティーを」
「かしこまりました」
一礼して青年は去っていく。カウンターに戻っても店長に頭を下げて、豪快に背中を叩かれていた。
依子は彼の動きを目で追いかける。入店した客に対応したりテーブルを拭いたりと、行動は普通だ。
――店員の真似事……じゃない。普通に働いてる。
アヤカシでありながら完璧に人間のように振る舞っている。それは考えられないことだった。アヤカシは人と生態が違いすぎて、人間社会にはそうそう馴染めない。人間相手に下手に出ることも我慢ならないだろう。
あまりにも人に近いアヤカシ。その結果から逆算して、幾つか可能性は浮かんだ。より正解に近いであろう言葉を、依子は胸中で呟く。
――半妖、なの?
もしも人とアヤカシの間の子であれば、妖気の薄さも納得がいく。そうした存在が実在することも正院の記録で知っている。
ただ、半妖はかなり珍しい存在だ。多くが望まれた子ではなく、迫害された後に死ぬ。アヤカシの習性として半妖は群れに受け入れられず、かといって人間社会でも異質さを拭いきれずに孤独へと追い込まれる。決して目立たず、影に潜み生きる存在だった。
見る限り彼はかなり人間に近い姿なので、現代社会に紛れることはさほど難しくはないのだろう。問題は仕方なく人間社会の中で生きてるのか、わざと潜り込んでいるのかだ。
――どうする。報告するか、それとも。
アヤカシの手先として動いている線も、絶対にないとは言い切れない。
判断に迷っているうちに店員が近寄ってきた。ティーカップとケーキを載せた皿を運んでいる。
「お待たせしました」
細く長い指が丁寧に皿を置いていく。指先に顔を近づけると、洗剤の匂いに混じって妖気が嗅ぎとれた。
「あの、お客様?」
依子はハッとして顔を上げる。手の匂いを嗅がれた青年は目を丸くしていた。再確認のためとはいえ迂闊だった。
「何かついてました?」
「す、すいません出来心で」
「……えーと?」
「あ、う、いや綺麗で美味しそうな指だなって」
口走ってから、依子は青ざめた。実は空腹だったこともあり、妖気を嗅いだことで滅怪士としての欲が鎌首をもたげていた。
アヤカシを喰い、妖力を吸収したい。その衝動を自制できなかったことに彼女は困惑する。今まではそんなことなかったのに、なぜ彼の前では緩んでしまったのか。
だが言ってしまったことは変えられない。依子は後始末のためにナイフを抜く。
「指が長いって言われたことはあるけど、美味しそうって表現されたのは初めてです」
しかし青年は、なぜか愛想よく笑うだけだった。
「褒めてくれた、のかな? ありがとう」
「あ、いえ……」
そつなく返事をして青年は踵を返す。殺気もなく、手を出す気配もない。
無防備な姿に依子は確信した。彼は、こちらの正体に気付いていない。
テーブルの下に隠していたナイフをホルスターにしまう。それから、遠ざかっていく青年の後ろ姿に視線を向ける。
なで肩で、どこか自信なさげで、庇護欲を掻き立てられそうな背中だった。
「待って、ください」
「はい?」と青年が振り返る。しかし依子は動揺して、次の台詞を出すこともできなかった。
なぜ声をかけたのか、彼女自身でもわからなかった。ほとんど衝動的に声をかけただけで、考えなんて何もない。
「……あなたは、運命の相手って、信じますか?」
話題を探した結果、依子はそんなことを話しかけていた。彼も先程の会話を聞いていただろうし、女性として占いの話を気に留めているのはそう変ではない気がした。
ただし、あくまで依子の感性を前提にしてみれば、の話だ。あまりに突飛すぎて青年はポカンとしている。
――ああ、また違う。
依子が諦めと自嘲の笑みを浮かべようとしたとき、青年は依子へと向き直った。
「運命の相手……ですか」
店員は驚きを引っ込めると、視線を右斜め上に向けた。考え込んでいる。
ややあって、彼はポツリと答えた。
「俺は、信じない、かな」
「……どうして?」
「決まった人としか出会えないのは、ちょっと寂しい気がするから」
青年はそう答えると、急に恥ずかしくなったのか目を逸らして後頭部を掻く。
なぜか、その姿にドキリとした。奇妙な感触で、依子にとっては初めての体験だった。
「あの、もう一つ聞いていいですか? 店員さんのお名前は?」
「俺? ……狛村です。狛村太一」
「狛村、太一さん」
口の中で転がすように呟きながら、依子は太一をじっと見つめる。
そして彼女は決めた。組織に、彼のことは報告しないと。
――きっと誰かの命令じゃなくて、自分の正体を隠しながら生きてる。そういう半妖なら、殺すまでもない。
彼の周辺事情を探る必要はあるだろうが、まだ放っておいても問題はない。もちろん監視のために喫茶店には頻繁に訪れるつもりでいた。
それは任務の一貫でもあり、そして彼女の好奇心を満たすためでもある。
依子の言葉に対し、太一はどの男とも違う態度を取った。茶化すでも笑うでもなく、真摯に答えてくれた。それが店員として気を遣った結果なのか、彼本来の素顔なのか知りたい。
「私は、御影依子と言います」
少しはにかむ太一を可愛らしいなと思いながら、依子は舌なめずりする。
「よろしくね、狛村さん」
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