依子さんの常用食?

「依子さんには、アヤカシ喰いを辞めてもらう」


 微風が通り過ぎて依子さんの髪を撫でていった。俺に後ろから抱きしめられた依子さんは、両腕をだらりと垂らしたまま沈黙している。

 口を閉ざしている時間は長かったが、刺々しい険悪な感情は伝わってこなかった。考え込んでいるのがわかるからこそ、俺も彼女の返事を待つことができる。

 黙考した依子さんは、ふうとため息を吐いて静かに言った。


「前々から思ってたんだけど」

「うん」

「あなた、ちょっと頭がおかしい」


 俺は崩れ落ちそうなほどショックを受けた。

 依子さんに頭がおかしい発言をされた。

 あの依子さんに! そっくりそのまま返していいですか!?

 しかも前々からって……さすがに言い返そうかなと思ったとき、依子さんは続けて言葉を紡ぐ。


「何を言い出すかと思えば、無茶苦茶にも程がある。私に滅怪士を辞めさせる? 冗談でももっと面白いのが聞きたいな、


 ハッとする。依子さんは心底呆れたような口調だが、呼び名が前の敬称に戻っていた。

 じわりと胸が温かくなった。その呼び方で呼ばれるのが、本当に久々に感じた。

 同時に俺は実感する。依子さんが隣にいる生活が、もう俺の日常になっていることに。

 感傷に浸っていたが、依子さんが「何とか言ったら?」と先を促すので気持ちを切り替えた。


「俺は、本気だよ。君が組織から抜ければ俺を殺す必要もなくなる。俺はずっと君と一緒にいられる」

「そんなの、馬鹿げてる」


 依子さんは吐き捨て、小さく首を振った。髪が揺れて、微かに甘い匂いが鼻孔をくすぐる。


「冷静に考えて、無理だってわからないの? 滅怪士を辞めるなんて許さるはずもない。アヤカシを屠るために生み出した秘術も力も細胞も全てが機密の塊。外部に漏れることは禁忌に当たる……かつて、滅怪士でありながら任務を放棄した人もいた。でも、例外なく全て処分されてる」


 特に驚きはしなかった。全て予想済みの情報だ。

「それに」と続けた依子さんは、手を上げて俺の腕をギュッと握りしめた。

 微かな痛みを感じる。優しく触るのではなく、わざと爪を立てていた。


「私が、あなたの一言程度ではい辞めますなんて言うと思ったら大間違いよ。もし本気で期待していたなら、随分と見くびられたものね」


 依子さんの流し目には明確な怒気があった。敵意こそないが、俺に向けて苛立ちを顕にしている。


「自分で選んだ人生じゃない。でも、戦う意義と誇りは持ってる。死んでいった仲間のことを忘れて、私だけ責任を放棄することもしたくない……その姿になってもたーくんへの気持ちは変わらないよ。愛してる。でも、あなたにのぼせて無条件に従うほど軽い女じゃない」


 依子さんはきっぱりと言い切った。何気なく混じっていた愛してるという言葉に一瞬舞い上がったが、次の言葉にすぐ窘められてしまった。

 けれど、彼女の態度も予想済みだ。決して簡単にいくはずがないことは最初からわかっている。


「第一、それよりも大きな問題があるでしょ。私は定期的な薬剤摂取を受けないと、魔臓宮の生態浸食によって、死ぬ。もしあなたと逃げても、近いうちに死別することになるの。それをわかってる?」

「……うん、わかってるよ」


 俺は依子さんのうなじ辺りに顔を近づけて答える。

 組織に属するしがらみや依子さんの気持ちの問題はあるが、目下として一番の壁はこの生態浸食のことだ。

 最初の二つは、強引ではあるけど俺が依子さんをさらって逃亡し続けるという方法もなくはない。しかし生死に直結する生態浸食の問題だけは、今の俺では解決しようがない。


 おそらく、定期接種には脱走防止の役割もあるのだろう。任務を放棄しようと組織に戻らなければアヤカシ喰いは命を落とす。組織に隷属し、死ぬまで戦い続けるしかない。まるで奴隷の足枷のようだった。悪辣なやり方を貫いてまで戦う人間達の精神が、俺にはまるで理解できない。

 けど、今は連中の思惑なんてどうでもいいことだ。


 俺はゆっくりと目を閉じ、依子さんの首筋に顔を押し付ける。暖かく柔らかい感触を全神経で感じ取る。このままま時が止まればいいのにと、本気で思った。

 だけど現実は待ってくれない。何もしなければ、依子さんを引き剥がされて終わる。

 欲望に忠実であれと、あのアヤカシは言った。

 今までは全部抑えてきたけれど、依子さんへの欲望だけは捨てられない。


「依子さん。このまま定期接種をしないで、どれくらい生き続けられる?」

「一ヶ月も持たない」


 即答だった。ショックでないといえば嘘になるが、絶望するにはまだ早い。


「なら俺の血を飲み続けて、生態浸食を最大にまで遅らせた場合はどう?」


 今度は、すぐに返事は来なかった。

 微かな驚きと共に依子さんは考え込んでいる。


「……わからない。数ヶ月? 半年、とか」

「わかった。じゃあ半年、俺の血でも肉でもあげるから、絶対に生きて。その間に魔臓宮を取り除く方法を見つける」


 依子さんは無言で、俺に抱きしめられたままゆっくりと振り返る。

 柳眉が下がった、困惑をありありと映した表情だった。


「本気?」

「うん」

「で、できっこない」

「どうして?」

「だって……! 魔臓宮は組織内でも式務にしか調整できないんだよ! どういう仕組みになってるとか、そもそも取り外して無事でいられるかも不明で……」

「試した人はいない?」

「……いない、けど、妊娠時に機能を停止する術はある、みたい」

「なら取り外さなくても生態浸食を止める方法があるかもしれないね。うん、やってみる価値はありそうだ」


 少しだけ展望が開けた。気分が軽くなる俺とは対照的に、依子さんは目を見開き唖然としている。


「ほ、本気で馬鹿なの? もしその方法があるとしても、外部の人間が知ってるわけない。実行するには組織内で術式を入手するか、それを持つ式務に頼るしかないわ」

「じゃあそうする」

「どうやってよ!? アヤカシのあなたが滅怪士の本拠地に潜り込めるわけない! やるにしても組織から奪う以外にないの!」

「それでもやるよ、俺は」


 依子さんが絶句した。いよいよもって珍しい表情に、俺はつい笑ってしまう。


「本拠地に侵入するでもいいし、式務って役割の人を拉致するでもいい。依子さんを生かすためには何でもする」

「……組織と敵対することになっても、命を狙われても?」

「うん。俺は依子さんと生きたいんだ」


 無茶だろうが絶望的だろうが、そこにしか可能性がないのなら、命を賭ける。

 もう二度と大切な人を手放したくないから。間違った生き方かもしれないけど、俺は既に覚悟を決めている。

 依子さんは俺をじっと見つめていた。泣き出しそうなほどに瞳を潤ませて、必死に感情を押さえている。

 ややあって「半年、か」とぽつりと呟いた。


「短いね」

「でも、やるしかない」

「失敗したらどうする?」


 依子さんは泣き笑いを浮かべた。


「たーくんが頑張っても、どうにもならなかったとき。私が助からないってわかったとき。どうする?」


 少し悪戯な口調だった。依子さんはもう俺の答えを予測して、その上で聞いているのかもしれない。


「そのときは、俺も死ぬよ」


 俺は、心のままに答えた。


「君だけを逝かせるつもりはない。依子さんがいない世界に残っててもしょうがないしね」


 依子さんの真摯な目が朝焼けに輝いていた。この世で一番綺麗だと、素直に思った。

 依子さんは俺の腕をそっと解いて、真正面から向き合う。


「それがたーくんの口説き方なのね」

「悪くない?」

「……そうだね」


 彼女が手を伸ばし、俺の頬を触る。ひやりとした冷たさが伝わった。


「これから半年、あなたを少しずつ取り込める。たーくんが私の常用食だ」

「じ、常用食、かぁ」


 非常食からランクアップしてしまった。実情は異なるけど、より際どい雰囲気を醸し出していて苦笑いするしかない。


「でも普通の料理も食べてよ。また作るからさ」

「うん。たーくんの料理、美味しいもの」


 そして依子さんは、俺の頬からすっと上に手を伸ばす。額を通り過ぎると俺の頭髪に触れた。細い指が銀の髪を撫で、さらさらとく。


「綺麗な銀色……」


 うっとりと呟いた依子さんは、目を細め俺に顔を近づけた。頬を朱に染めて、彼女の唇が迫る。俺は依子さんの思うがままに任せて目を閉じた。

 急に鼻が痛くなった。

 ハッとして瞼を開ければ、依子さんの手が俺の鼻を摘まんでいた。


「ばーか」


 そう言って、依子さんは快活に笑った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る