依子さんの嘘
依子さんが、俺にナイフを向けている。明確な敵意を込めながら。
その光景に理解が追いつかず、俺はただオウムのように聞き返していた。
「俺を排除する……?」
「殺して食べる、といえば実感も沸くでしょ」
依子さんはくすりともせず言い放つ。冗談を言っている雰囲気ではない。
俺を守ろうとした依子さんが、今度は俺を殺そうとしている。悪い夢を見ているようだった。
だけど、依子さんの鋭利な目つきも、感情を押し殺した酷薄な表情も、今にも飛びかからんと身体を力ませた様子も、彼女の本気度合いを伝えている。
「待ってよ……二人とも助かったのに、なんでそんな」
依子さんは答えない。黒鎌に穿たれ血を流す足先を、ほんの少しだけこちらに踏み出す。じりじりと間合いを詰められる感覚に焦りが生まれる。
「俺を殺すのは、君を選ばないと決めたときって、そう約束したはず。でも俺はまだ、何も答えてないよ」
緊張を押し殺して言うと、依子さんは嗤った。
息を飲むほどに凄艶で、楽しげな表情だった。
「気が変わったの。今すぐ、あなたを食べたい」
「……なぜ」
「半妖じゃなくなったから。それも長命種を倒すほどの妖力を持ってる。食べれば、私は更に強くなれる。だから大人しく死んで?」
静謐な朝の空気が、急に冷えた気がした。
唇の端を釣り上げる依子さんは、俺を食べたくて堪らないとばかりに目をギラつかせている。
違和感が過ぎる。依子さんに襲われた場面が脳裏に映る。
あのときの依子さんも、俺を食べることに興奮し喜悦を浮かべていた。それ以外考えられないという獣の目をしていた。
今の彼女からは、身の毛もよだつような恐怖は感じない。
「嘘だ」
俺は断言した。彼女の表情に変化はない。
でも、黒瞳の奥に微かな揺らぎがあるのを、俺は見逃さなかった。
「妖力を遮断する力は、アヤカシ喰いの組織としても解析したいはず。君の立場なら俺を組織に渡す事の方が優先になる。違う?」
変怪したとはいえ、研究対象の価値が消えてしまったわけではない。むしろ詳細が判明した分、より興味を引くはずだ。彼女は今に至るまで、俺を組織に委ねるという選択肢を確固として持っていただろう。
それがいきなり自分の都合を優先し始めたのはなぜか。そうしなければいけない事情が生まれたとしか考えられない。
せめて理由が聞きたい。俺が一歩踏み出すと「来ないで」と依子さんは声を荒げた。
「嘘じゃない。私は本当に、あなたを殺したい」
「組織に背いても?」
「そうよ。だって、どうせ引き渡したところで……処分されるんだから」
依子さんは笑みを深めようとして、失敗した。微かに頬が歪んだだけだった。
氷水を浴びたような衝撃を受ける。依子さんの瞳の奥にある諦観が、俺に現実を理解させた。
俺が特殊保護観察として、そして研究対象として生かされ続ける条件には「半妖という弱さ」が含まれる。あくまで管理できる存在だからこそ命までは奪われない。
けれど俺は、偶然とはいえ吸血鬼を打ち倒すほどの力を発現してしまった。
アヤカシ喰いの組織は、管理できないと判断したアヤカシを躊躇なく殺している。依子さんはきっと、もれなく俺も含まれると考えた。
捕まった後の事は容易に想像できる。研究対象として解析が終わるまで実験動物みたく扱われた後、危険だからと殺処分されて終わりだ。
なぜ依子さんが役目と真逆の行動を取っているのか、わかった気がした。
「……依子さん」
「来ないでって言ってる」
棘のある声で依子さんが威嚇する。朝日が俺たちの間を照らし、銀のナイフが淡く輝いていた。
「大人しくしていれば、一瞬で終わらせてあげる。私の中に入れてあげるから」
「それは、俺のため?」
依子さんから笑みが剥がれ、能面のような無表情が浮かぶ。
「俺が君の手元から離れて、二度と会えないまま殺されるくらいなら……ここで自分が殺した方がマシだから。今なら誰のものでもなく、君の恋人として終われるから」
依子さんは俺を睨みつける。でもその表情は、まるで追い詰められた獣のように見えた。
やっぱり、そうなんだろう。依子さんは、組織ではなく俺のために動いてくれている。
依子さんは微かに首を振った。
「違う。正体不明の力は手に余る。危険だから排除するだけ。あなた特有の力なら、殺してしまえばそれで終わる」
予想通りの言い訳だ。
俺を渡したくない、でも組織に背くこともできない。二律背反に苛まれる彼女に残された方法は、俺の存在を、俺の力を全て隠してしまうことだけ。
そうすれば俺の身体も思い出も蹂躙されずに、自分の中で持っていられる。
でもやっぱり、咄嗟の思いつきだからか粗がある。
「それを判断するのは依子さんじゃない。だよね? 勝手なことをしてるのは、俺を誰にも渡したくないからだ」
「違うっ!」
叫び声が青空の彼方に吸い込まれていく。
「理由なんてなんでもいい。とにかくここで死んで、お願いだから」
依子さんがうつむき、前髪が垂れて表情が隠れる。でも、唇をきつく噛み締めるのは見えた。
以前の依子さんだったらきっと、こんな態度はしなかっただろう。当初の目論見通りに俺を喰ってしまえばいい。妖力を補充できて、恋人らしい体験もできて、それで終わりにすれば済む。
けれど今、彼女は躊躇っている。俺を殺し、俺との未来が絶たれることに葛藤を抱いている。
依子さんは、俺のことを大切な存在として見ていてくれる。
彼女のことが愛しくてたまらなかった。今すぐに駆け寄って抱きしめたい。
――でも。近づけばきっと、依子さんは心を決める。
俺はどう応えればいい。何を言えば彼女を変えられる。
そもそもこの状況をどうひっくり返す?
素直に殺されるのも、組織に捕まって処分されるのも嫌だ。どちらを選んでも依子さんとは会えなくなる。母のために能力を隠したまま死ぬという選択肢も、これでは天秤として釣り合わない。
ずっと依子さんといられる方法は――。
瞬間、天啓のような閃きがあった。答えは、呆気ないほど簡単に見つかった。
――そうか……変えられるのは、俺だけじゃないんだ。
選択肢がないなら、もう一つの選択肢を用意してしまえばいい。
意を決して、依子さんに話しかける。
「依子さん、聞いて」
「聞かない」
依子さんはうつむいたまま反抗した。腰を落とし、身体に力を蓄えている。このまま俺に突撃するつもりだ。
「お願いだから」
「うるさい!」
依子さんが一歩踏み出し、そこで止まった。いや、正確には止められた。
背後に移動した俺が依子さんの両腕を握りしめて、強引に引き止めたからだ。
彼女の腕には鳥肌が立っている。俺の動きを視認できなかったことに動揺していた。
「っ……離してっ」
依子さんが腕を振りほどこうと身動ぎするが、俺は力を込めて制止する。銀狐となった俺の身体能力はアヤカシ喰いのそれを凌駕していた。
「ごめん。まず俺の話を聞いて」
「聞いたところで結論は変わらない! こんなことしても無駄よ……敵わないのなら、いっそのこと私を殺せばいい。そうすればあなたは逃げ出せる」
そう言って依子さんがナイフを落とす。ナイフは地面へと落ちていった。風呂でさえも武器を手放さなかった依子さんとしては考えられない行為だ。
依子さんは自棄になっている。騙そうと思えば俺を騙せるのに、それすらしない。感情と行動がまるでバラバラで、俺を翻弄していたいつもの依子さんじゃない。
だから俺は、自分を止められなくなっている彼女を背後から抱きしめた。
「それも嫌だ。俺は、依子さんと一緒に生きたい。だから殺されるわけにもいかない」
ちらりと振り返った依子さんの表情には、戸惑いが覗いている。
「殺されるのも嫌、殺すのも嫌……じゃあどうするの」
俺は一拍置いて、その選択肢を告げた。
「依子さんに、アヤカシ喰いを辞めてもらう」
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