次の日の午後のことだった。玄関のチャイムが鳴ったので僕は応対に出た。


「おっ!? ひょっとして『なおぼう』か! いや、大きくなったもんだ」


 玄関には一人の若い男性が立っていた。懐かしそうに笑顔でこちらを見る彼に僕は全く見覚えがなかった。しかし「なおぼう」という呼び方をするところを見ると僕の小さい頃を知っている人間なのだろう。


 僕が不思議そうにしていると奥から母が顔を出した。母は「まあ!」と歓声を上げ、僕に彼を紹介した。その名前を聞いてもピンと来なかったが、その後の説明を聞いて僕は内心飛び上がるほど驚いた。彼こそ墓医者が言っていた「うちの親戚の次男坊」だったのだ。


「最後に会った時はまだ小さかったもんな。親父の葬式の時も『なおぼう』は学校だったし俺も忙しくてすぐあっちに帰っちまったから。憶えていないだろう? 俺のことなんか」


「え、あの、今日はどうして……」


「どうして? ああ、どうしていつもは帰って来ないのに、ってことか。参ったな、なおぼうにまで俺は滅多に実家へ帰って来ない薄情者だって認識されているのか。まあ、仕方ないけどな、その通りだから」


「い、いえ、あの、そういう意味じゃ……」


「いいんだよ、本当のことだから。いや、実は急にまとまった休みが取れてね。上司も『たまには故郷に帰ってやれ』なんてしつこく勧めるもんだから。今までそんなこと言われたことなかったのにおかしな話だよな」


 偶然……、なのだろうか? 「墓の願いを叶えてやる」と言っていた墓医者の言葉を思い出した。その後の母たちの会話はもう僕の耳には入らなくなっていた。


 やがてそのお客さんが帰った後、僕は夜がただただ待ち切れなくなった。両親にばれないように気持ちがそわそわするのを必死に抑えた。就寝の時間が来ても僕は眼が冴えたまま家族が寝静まるのをただじっと待った。


 やがて静寂という知らせの鐘の音を聞き、僕はベッドから脱皮する爬虫類のようにゆっくりそろりと抜け出した。すでにジャージには着替えてあった。いつものように、いや、いつも以上に慎重に窓を開け、外に出た。走り出したい気持ちを抑え、出来るだけ急いで僕は住宅地の路地を歩いた。そしてあっという間に現れた県道を昨夜とは違い何の迷いもなく左に曲がった。


 今夜は曇り気味で昨夜目指した天空の月は見えなかったがそんなことはもはやどうでもいいことだった。闇がはっきりしている方が墓医者のおじさんに会える、そんな気がしていた。


 昨夜よりだいぶ速いペースで僕は山のガードレールの切れ目に到着した。砂利道を見上げると霊園がぼんやり浮かび上がっていた。一歩一歩、砂利を踏む音が昨日以上に闇に溶け込んでいく気がした。


 上まで登った僕は目を凝らし霊園を見渡した。しかしあのおじさんの姿はなかった。まだ来ていないだけなのか、それとも今日は来ないのか。まさか、もう二度と来ないのでは……。ふと僕は昨日の彼の姿を思い出した。


 確か、こう、墓に手を置いて、目を瞑って……。


 昨夜、墓医者がやっていたポーズを真似て自分の家の墓の頭に手を置いてみた。夏だというのにひんやりとした感触が伝わってくる。


 そういえば心を落ち着けて死者に近づけとか……。


 彼の言葉を思い出したもののそれが具体的には一体どういうことなのか、僕にはわからなかった。心を落ち着ける、どういう意味だろう、リラックスということなのか……。


 目を瞑り、じっと集中してみた。ところが僕は心を落ち着けるどころか次の瞬間悲鳴を上げていた。


「……ひぃ!」


 突然誰かが墓の上に置いていた僕の腕を掴んだのだ。ばくばくと暴れる心臓を左手で押さえ、僕は自分の右手を掴んでいる相手を見上げた。


 そこにいたのは墓医者のおじさんだった。


「勝手に何をしている、ぼうず」


 厳しい声だった。だが父のように自分の不機嫌さを吐き出した八つ当たりの声ではなく、そこには確かに僕を心配する優しさが感じられた。


「あ、あの……」


「見よう見まねでそんなことをしてはいけない。取り返しが付かなくなることだってあるんだ」


「えーと、その、ごめんなさい……」


 僕がそう言って頭を下げると男はすっと手を離してくれた。そこで初めて僕は自分がひどく震えていることに気付いた。彼は僕の肩にそっと手を置いた。


「おそらく君には才能がある。だからこそ中途半端に真似するのは危険なんだ」


「才能?」


「ああ、私と同じ才能がある。だからこそ君は私と出会ったのだ。その昔、私が師匠と出会ってしまったように」


「僕にも『墓医者』になる才能があるって言うんですか?」


 僕がそう言うと彼はなぜか悲しそうな表情を浮かべた。


「むしろ『呪い』と言ってもいいかもしれんな、こんなものは。引き返すなら今しかないぞ?」


「引き返す……」


 その言葉を聞いて僕は少し動揺した。自分のような子供が首を突っ込んではいけない世界なのかもしれない。改めてそう思った。


 どうする? 僕はどうしたい?


 心の中で自問自答を始めた僕だったが、そんな僕に彼は突然こんなことを聞いてきた。


「……ところで君の親戚の家の次男坊はちゃんと帰ってきたかい?」


「えっ? あ、うん、家の人もびっくりして喜んでいたみたいです」


「そうか」


 彼が言ったのはそれだけだった。言葉少なでも彼の控えめな笑顔は喜びを素直に表していた。僕はそんな彼に好感を持ち、不安が少しだけ消えたのを感じた。


「……おじさん」


「なんだ?」


「教えてくれませんか? あの、その、『墓医者』のやり方を」


 彼は眼を丸くしていた。


「そうか、やはり興味を持ってしまうんだな」


 ふうっと大きく彼は溜息を吐いた。


「まあ、いいだろう。時代も変わりつつあるからな。知っているか? 最近はコンピューター制御された墓石のない墓もあるらしい。普段は整然と収納されている骨壷の方がお参りする人間の所まで機械仕掛けで運ばれてくるんだとさ。それに自分の遺骨を墓に入れず自然に返したいという人間も増えているようだ。墓という考え方自体が昔とは変わってきているわけだな。形式の変化は思いの変化でもあるから、墓の念なんていつか無くなっちまって墓医者という存在もいずれいらなくなるのかもしれない。それならそれでいい」


 おじさんは何かを決意したように、それでいて何かに言い訳するように大きく頷き、くるりと背中を向けた。


「付いて来い。今日は向こうの墓だ」


「は、はい!」


 僕は喜びと不安の入り混じった不思議な気持ちになりながら彼の後に付いて歩き出した。


 急に風が吹き、周りの木々たちが不気味にざわざわ音を立て始めた。まるで僕たちのうわさ話をしているようだ。彼はそんな音を気にする様子もなくゆっくり歩いていく。やがてうちの墓から十数メートル離れた場所で男は止まった。


「今日はこの墓の声を聞く。君もやってみろ」


 男が指差したのは立派な墓だった。うちの墓の二倍はありそうな面積に建っている墓石は周りにある他家の石とは明らかに質感が違っていた。彼はぽつりと「庵治石か」と呟いていた。聞いたことのない名前だったが、とにかく値段の高い石なんだろうなと僕は思った。


「さあ、手を置いて」


 僕は言われるがまま右手を墓石に置いた。すると彼はその掌の上に自らの手を重ね合わせた。男の手によって固定された僕の右手は動けなくなった。


「いいか、良いというまで絶対離してはいけない。さっきみたいなお遊びとは違うんだ」


「は、はい!」


「目を瞑れ」


「わかりました」


 僕はぎゅっと眼を閉じた。


「そんなに力を入れることはない。自然体で閉じればいい」


「あっ、はい」


「よし、ここからだ。『耳を澄ます』という言葉があるな」


「ええ」


「そのイメージで『心』を澄ましてみろ。そうすれば最初に蚊が鳴くような幽かな声が聞こえるはずだ。そうしたらもっと心をその声に同調させていけ」


 僕は言われたとおり心を落ち着けようと努力した。ところが落ち着こうとすればするほど余計なことが頭を過ぎり、心がざわついてしまった。つい眼を開けると男がこちらを見ながら仕方無いというふうに「うん」と頷いた。


「やはり難しいか。よし、私も手伝おう。いいか、絶対途中で止めるなよ。願いを聞いてもらえなかった墓の念は恨みとなって墓医者自身に返ってくるからな。命に関わることもあるぞ」


「えっ! は、はい、わかりました」


 そんな話は聞いていないと思ったが、彼の手は絶妙の力で僕を固定し続けていた。仕方なく僕は彼が目を瞑るのを見届けてから自分も眼を瞑り直した。


 どのくらい時間が経った時だろうか。風の音やいつの間にか鳴き出した虫の声に包まれていた僕はふと自分の存在が消えたような感覚に陥った。境が無くなったと言ってもいい。自分の肉体も触れているはずの男の手や墓石も聞こえてくる音さえ「自分」だった。そこには内も外もなく全てが自分であり別のものでもあった。


 そんな時、声は聞こえてきた。


 ……寂しい。


 聞き取るのがやっとの微かな声だったが、確かにそう聞こえた。もっとよく聞きたい、そんな事を思った瞬間、僕という存在の中に溢れるような寂しさが襲いかかって来た。


 それは言葉であり、感情であり、思い出であり、つまりは「流れ」であった。激しい流れの中で舞い踊る落ち葉のようにもみくちゃにされた僕は消えていた自我を取り戻しパニックになった。身を削られるようなこんな寂しさにはもう耐え切れない、そう思った僕は思わず現実の世界の墓石から手を離そうとした。しかしがっちり抑え込まれた掌は全く動かなかった。するとその時小さな声が聞こえた。


 ……耐えろ。


 それは確かに墓医者のおじさんの声だった。しかし奇妙なことにすぐ横にいて今も僕の手を押さえつけているはずの彼の声はどこか遠くから聞こえてきた。未だに流れは続いていてその遥か向こうから彼の声はするようだったが、その中に取り残された僕は痛みすら伴う悲しみのあまり涙が溢れ呆然と立ち尽くすことしかできなかった。一瞬とも数百年とも感じる時間が僕の中を外を通り過ぎていった。


 ある瞬間、僕はふと我に帰った。あれほど激しかった感情の流れは幻だったかのように消え去り、いつの間にか目の前には一人の老婆が立っていた。色のない山水画のような老婆は無言でにこりと微笑んだ。


「……終わったぞ。もう目を開けても大丈夫だ」


 はっとして僕は声のした方に振り返った。そこには墓医者の男が立っていた。もう僕の手は押さえられていなかったのだ。いつ離したのか、全く気づかなかった。


 呆然と男を見つめた後、僕は急に先程の老婆のことを思い出し、前を見た。しかしそこにあるのは自分が手を置いたままの単なる墓石に過ぎなかった。なぜだろう? 先程見た時には大層立派に見えていたはずのその墓は今やただの石の塊にしか見えなくなっていた。


「よく耐えたな。あれほどの寂寥感はなかなか無いものだ。初めての相手としては少しきつい挑戦だった。だが君は見事にやり遂げた。ひょっとしたら君の才能は私以上かもしれん」


「あ、あのお婆さんは?」


「あれはこの墓の思い、その集合体だ。この墓を代表する人物の生前の姿をとったに過ぎない」


「何か、お礼を言ってました。……それにしてもあんなに寂しいと思ったのは初めてだ」


「この墓はかなり立派だがね、建てっぱなしらしいな。拝む人間がいてやらなくちゃこんなものは単なるでかい石の塊に過ぎん。だがこれで誰か墓参りに来るだろう。君が思いを浄化してやったからな」


「浄化?」


「君も感じたはずだ、流れを。あれは墓に溜まっていた思いが君という現実の存在を通して外に溢れ出したものだ。君のおかげで形無き思いは現実を動かす力を得たのだ」


 そう言われても自分が何かをやってのけたような感覚はまるでなかった。目の前に広がるのはただの霊園だ。先程と何ら変わりはない。


「手応えがないか? それでいい。手応えがあるなんて時は逆に碌なことがない」


 そういうものなのか。きょとんとしていた僕に対し彼は急に真顔になった。


「……いいか、墓医者というものは墓の思いに体を貸す。それは今、君が体験したように精神に負担を与える行為だ。そして『思い』とは決して良いものだけではない」


「は、はい」


「時には自分を消去したくなるほどの絶望や人類を滅亡させたくなるほどの殺意に包まれることもある。『無念』という奴だ。だがさっきも言ったように一度始めた治療は決して途中で止めてはいけない。『絶対に』だ。大切なものを無くしたくなかったらな」


 彼の言葉は今まで以上に真剣なものだった。彼の過去に何かあったのだろうか。暗闇で見ているはずの彼の顔になお一層の影が差しているような気がした。


「君もこれでもう墓医者の仲間だ。まだまだ未熟だがね。経験を積まなくてはならない」


「あの、明日も会えますか」


 僕は恐る恐る彼にそう聞いた。


「明日か。いや、明日の夜は少し用事がある。私はここに来られない。君も明日は諦めなさい。いいかい? 決して一人ではやらないこと。危険だからな」


 その後、僕と彼は昨日のように霊園で別れた。


 帰りの夜道で考えたことがあった。「明日は来られない」という彼の言葉。僕はそれを聞いても全く残念には思っていなかった。


 ……それでいい。


 僕の中の黒い誰かがそう繰り返し呟いていた。












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