3
本格的に朝の光が差し込んでくる頃に朝食を告げる母の声が聞こえてきた。自分の部屋から台所へ向かうといつものようにこの世の終わりのような顔をした父が不味そうに味噌汁を啜っているところだった。
「……ちっ、おまえはいいなあ。休みがあって」
ちらりとパジャマ姿の僕を見た父が「おはよう」の代わりにそう呟いた。
「……おはよう」
僕はそう返した。「おはよう」の言葉は帰ってこなかった。黙って父は席を立った。儀式のように険しい顔で溜息を吐いた彼は何も言わず仕事のために家を出て行った。母はそれを見送りもしない。いつものことだった。
部屋へ戻ると机の上に置いたスマホがぶるぶると震えているところだった。まるで自分自身を見ているかのようだ。出来る事なら出ずに窓から外へ投げ捨ててしまいたかったが、仕方なく僕はそれを手に取った。予想通りの名前がディスプレイから僕を威嚇していた。
「……はい、もしもし」
「おせーよ! 早く出ろ! それとも待ちくたびれさせて俺を殺す気か?」
「すいません」
「謝れば済むとでも思ってんのか。俺たちの目の前で誠意見せろよ」
「……はい、すぐに行きます」
僕は電話を切るとすぐ玄関に向かった。「目の前で」は「すぐ来い」という言葉と同義語なのだ。数分の遅れがどのぐらいの蹴りやパンチに変わるか、僕は身に染みて知っていた。逆らえないならそのルールの中で最善を尽くすしか無い。
五分程走ると目的のコンビニが見えてきた。ここがいつもの集合場所だ。入口の辺りにはいつもと代わり映えのしない二つの見知った顔が並んでいた。
「おっせーって言っただろ?」
どん!
ぜえぜえ息を切らしていた僕の内腿を蹴り飛ばしたのが斉藤司だった。僕は悲鳴をぐっと飲み込んだ。大きな声を出せばもう一度、より強く蹴られるだけだとわかっていたからだ。
すると彼は僕から視線を外し、ちらっと隣にいたもう一人の顔を窺った。途端にその眉間に皺が寄る。どうやら「キレた」らしい。
「何だ、てめえ! 今にも泣きそうな顔しやがって。俺が悪者みたいじゃねえか。豚彦、てめえはずっと笑ってろって言っただろうがよ!」
がん!
斉藤が僕にやった時以上の力で尻を蹴り上げた相手が佐藤武彦君だった。但しクラスメイトの中で彼を正式な名前で呼ぶのは僕だけだ。彼は泣き声とも鳴き声ともつかない奇妙な声を上げた。それが気に入らない様子の今藤は今度は反対の尻を蹴り飛ばした。
「お前の鳴き声は耳障りだって言ったはずだぜ、豚」
二週間くらい前のことだ。斉藤はいつも泣きべそをかく武彦君に「お前の汚い泣き顔は見飽きたから、これからは何があっても笑え」と無茶苦茶な命令をしたのだ。
それからというもの武彦君は笑顔を強要され少しでも表情を崩すとこうして蹴られていた。でもずっと笑顔でいろなんてどうやっても無理な話だ。今だって胸ぐらを掴まれた武彦君は怯えてすぐにでも泣きそうな顔だった。
そんな時、僕たちの背中から声がした。
「遅くなりましたね、司君」
僕たちは一斉に振り返った。逆光の中にひょろっとしたシルエット。しかし笑顔らしきものを浮かべ近づいてきた男の眼は獲物を狙う蛇のようにいやらしかった。
「正義、遅かったじゃねえか。こいつら全然学習能力が無くてよー」
「仕方ありませんよ、三流社員の二世たちですからね」
そう言って笑ったのが問題の「今藤正義」だった。
皮肉なものだ。名は体を表すというが彼は全く真逆の事例を示していた。彼は正義感などカケラも持ち合わせていないだろう。斉藤が暴力的な野蛮人だとしたら今藤はタキシードを着た獣だ。彼は直接的な暴力を斉藤に任せ、僕たちに対する嫌がらせにだけ頭を使うタイプなのだ。斉藤から武彦君への「笑え」という命令もアイデアを出したのは実際には今藤の方だった。
「豚彦君、笑ってますか? 僕は知りたくてね、ずっと無理して笑うと人間はどうなるのか? 興味深いことだと思いませんか?」
にやっと笑った今藤の眼は目の前の僕たちではなくどこか別の世界を見ている気がした。ときどき今藤はこんな眼をするのだ。僕らはどういう反応をしたらいいかわからなかった。斉藤ですら一瞬戸惑ったような表情を浮かべていた。
「と、ところでさあ、正義、今日はどうする?」
話を変えた方がいいと判断したのか、斉藤は急にそう言った。僕と武彦君はそれにびくっと反応した。何をするにしても彼らと一緒にいて良かったことなど一度もなかった。
「ああ、ちょっと今日は用事がありましてね。残念ですがすぐに失礼しなければならないんです」
僕は表情に出さないように注意しながらも内心ほっとしていた。ちらっと武彦君を見ると彼も同じ気持ちのようだ。なぜわかったのか。彼の顔にはそれがあからさまに出てしまっていたからだ。
「今の笑顔、自然でいいですね」
ぽつりと今藤が呟いた。武彦君の表情が恐怖に変わった。
「おっと、それじゃ駄目ですよ」
そう言いながら今藤はちらっと斉藤に眼で合図を送った。
次の瞬間、先程よりさらに速い蹴りが武彦君の股間辺りを捉えていた。
何の声も出さず武彦君はうずくまった。僕は慌てて彼に駆け寄った。尋常じゃない量の汗を浮かべ始めた武彦君に今藤は「笑顔ですよ、笑顔」とだけ言い残し、何事もなかったかのようにひらひら手を振りながら、斉藤と一緒にコンビニから去っていってしまった。
結局、武彦君が復活するまでそれから三十分は掛かった。それでもまだ腰を引いた状態で歩く彼に僕は病院へ行くよう勧めた。しかし彼は首を横に振った。
「……親父があんなところで働いていなかったらなあ」
彼の言いたいことは痛いほどわかった。実は武彦君の父親も同じだったからだ。今藤の父親が社長を務める会社、残念ながら僕と武彦君の父親はそこの平社員だ。ちなみに斉藤の父親は、というと、そこで人事の決定権を持つ役職に付いていた。僕たちの力関係は産まれた時から決まっていたわけだ。
「この世界から消し去ってやりたいよ、許されるなら」
僕は「許されるって誰に?」という言葉を慌てて飲み込んだ。誰に許されたとしてもそれはやってはいけないことだ。
「畜生、あいつらに天罰下らないかな? あいつらもあいつらの親も恨みいっぱい買ってそうだろ? きっといつか一族そろって惨めに這いつくばって無残な死を迎えて……」
そうぶつぶつ呟く武彦君の眼には異様な光が宿っていた。見ているだけで寒気がしてきた。僕は何とか話を変えようと話題を考えた。そこでふと脳裏に浮かんだのが昨日の墓医者のことだった。
「えっと、話は変わるけどさ、『墓医者』っていうの知ってる?」
「……えっ、何、ハカイシャ? 破壊って、解体とかやる人のこと?」
うまく彼が興味を持ってくれたようなので、それから僕は昨夜墓医者と出会ったことを彼に話して聞かせた。
ところが最初は静かに話を聞いていた武彦君がやがてゲラゲラと笑い出した。
「あはははは、そんなのただのおじさんだよ。いや、待てよ、ひょっとしたらそいつは墓荒らしかも知れないな。お供え物を盗みに来て君に見つかったからそんな突拍子も無い作り話で誤魔化したんだ。からかわれたんだよ、君は」
「そうなのかな?」
「そうだよ。むしろ逆ギレして襲いかかって来るような奴じゃなくて良かったね。もう夜中の墓地なんて行かない方がいいよ」
そんなことを話しているうちに僕たちはいつの間にか僕の家の前に到着していた。
武彦君は「じゃあ」と手を上げて去っていった。
同じ虐められ仲間である僕にだけ見せる彼の本当の笑顔。
もし墓医者の話があのおじさんの単なるおふざけだったとしても彼の気を紛らわせる役には立ったようだ。
それでいい。
僕はそう思うことにした。
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