第9話 女狐 その名はただ一つ

次の日の朝が来たことに、俺は気付かなかった。

考えのループは無限で、エアーチェに肩を叩かれようやくループから脱出する。

「おはようございます。」

「おはよう、ラーナ。」

「今日は随分早いですね。どうかしましたか?」

「いろいろと考えて、あまり寝付けなかったの。」

「それは…。昨日はガユともども無礼を働きました。どうかお許しください。」

「いいのよ。事実だもの。覚悟をより強くもできたわ。」

「何かを得ていただけたのなら良かった。」

「それでね、今日から街に出るのでしょう?持っているお金で私でも扱える武器をいくつか買いたいの。昨日のように私が魔法を使えないことになってしまった時、やはり持っていたほうが安心だし、何より私は攻撃用の魔法を多くは使えないから。」

「そうですね…。ならば、弓などいかがでしょう。」

「弓?どうして?」

「護身用の短剣も持っていて損はないですが、何より短期間で仕上げることを考えれば飛び道具のほうがこちらとしても安心です。俺達の中で弓を扱うのはパルティだけですし、良いと思われませんか?」

「そうね、そうするわ。では選ぶのに付き合ってもらっても良いかしら?」

「もちろんです。」

「ありがとう。そろそろ、みんな起きてくるかしら?」

「そうですね。朝飯の支度をしましょうか。」

ガユが起きてこないのをいいことに、食事を作ってしまう。

「「おはよーラーナ、エアーチェ。」」

ライとガユはそろって寝坊して起きてきた。

またもそろう二人。同じ位置に寝癖を付けて朝からにらみ合っている。

「おはよう、ライ、ガユ。朝飯できてるぞ。」

「おはよう、ふたりとも。」

「わー!ラーナのごはんだ!ガユが当番かと思ったよ!

ラーナのご飯はおいしいよね!パルティの次くらい。」

「次にって…。」

苦笑する俺。

「おいどういうことだ?ライ?」

ガユは心底分からないという表情で詰め寄る。

「ま、たしかに誰もパルティには敵わんよな。」

「そうだな。」

エアーチェが言う。

「パルティは料理が得意なの?」

ライが無邪気に答える。

「パルティはね、料理人になるのが夢だったの!」

無意識に過去形になる言葉に俺はまた苦笑しガユは少しだけ顔を顰めた。

エアーチェもはっとした表情になった。

「夢…。」

静まり返った空気の中、俺は首を振っていろんなものを振り払うと、言う。

「さあ、そろそろ出発しましょう。ほら、二人は片づけをして。

姫は荷物をまとめましょう。」

三者一様に返事をし、出発した。

もやもやとした空気を振り払えぬまま、4つのマントは進む。


進路は次の街、ゼリ。

この国で1,2を争う混沌とした大きな街だ。

山から文字通り落ちたおかげでだいぶ近道をし、約二日でついた。

ゼリは古く、俺らがいた時代も様々な行商人が行き交う、内陸のこの国の陸と海を交易する主要都市だった。

その雰囲気を変えぬまま、ゼリは相変わらずごちゃごちゃとしている。

大きく変わったのは先の大戦によりできたカースト制度による奴隷たちの姿がみえることと、海のものが姿を消していること。

人々が皆、どこか疲れた顔をしていること。

「うわあー!懐かしいね!

ここでトゥル国の飴を買ってもらったことあったよね!」

とはしゃぐライ。

「お前はいつまでも落ち着きがねえな。」

と言いながらもうずうずとしているガユ。

二人は祭り気質で、こういう街が大好きだった。

反対にパルティやカシャなどは苦手で、珍しく行動を共にしない双子の姿が見られたものだ。

俺は二人をたしなめながらこれからの予定を説明する。

「これから二手に分かれていく。この街には大量に軍人がいるだろうから、目立つなよ。

ガユとライは食料その他旅の道具の用意を頼むよ。あ、余計なものは買うんじゃないぞ。

俺と姫はまず買い物をして、ファカティーのところへ行きます。姫は髪を縛って、フードの後ろに隠してくださいね。

二人も、フードから出来るだけ顔を出すなよ。ああ、でもあまりにも隠しすぎると逆に不自然だから、あくまで自然に、な。

集合は今日の夜。いいか?」

「二人とも、仲良し兄妹って感じね。」

とエアーチェがからかうと、ライが嫌な顔をしてかみつく。

「そんなの絶対いやー!!」

ガユも黙っていない。

「あ!?俺だってこれ以上最悪なこたあねえよ!」

「「ふんっ」」

俺とエアーチェは顔を見合わせ、吹き出す。

「これ以上ないほど仲良しに見えるわね。」

「はい。それじゃあ、二人とも気を付けて。ガユ、ライを頼むな。ライもガユの言うことをちゃんと聞くように。それじゃあ解散!」

ライとガユが付かず離れずの微妙な距離で去るのを確認した後、ため息を吐く。

「本当に世話が焼ける…。さあ、我々も出発しましょう。」

「ええ。」

街の中心部へ歩き自然に旅のものを装う。

歩きながら、エアーチェに問うた。

「この街の違和感に気付かれましたか?」

「…海産物がないところと、人々の顔に輝きがないところ、かしら。」

「そうですね。もう物が入らなくなってきたのでしょう。」

心の中で奴隷制が当たり前になっていることに驚きながら言う。

「物が入らないとは?」

「この国は盆地で海も豊かに穀物を実らせる土地もありません。生きるために必要なもののほとんどは隊商がもたらしているのです。

しかし、周りの国が敵国となってしまった今、隊商の道は塞がれ、捕らわれ、殺されているところでしょう。」

「…ならば、どうしてこの国は永らえているのですか?」

「この国で作られる超一級品の布と地下鉱脈からとれる銀です。

それから、古くから外交上手な政治のおかげですね。」

「私の習ってきた帝王学とは、まるで違うのね。

しかし、この国の実験を持つ父上が外交をしていたところを私は一度も見たことがありません。

どうのように外交を行っていたのですか?」

「確か、代々ニルラ家のものが行っていたとか。

私達の時代にはまだ若い当主でしたが、成程確かに頭が切れる方であったように思います。」」

「ニルラ家…!」

一つの店に何げなく近づいてみているふりをする。

店主は奥で何かを読んでいて、こちらを見向きもしない。

「どうかしましたか?」

「私の、本当の父…この国の、宰相だった男の、家系です。」

大きな声を出さないように気を付けながら通りに戻る。

「それでこんなにも一気に他国との関係が悪化したのですね…。」

「そのようです。今ニルラ家には跡取りがおらず、政務長が外交と兼任になったと聞きました。」

俺は思い出したくもない光景を一瞬フラッシュバックさせ顔を顰める。

「物が少ないことの理由はわかりました…。ではなぜ、こんなにも民の顔に輝きがないの?やはり物がないからかしら?」

その声に現実に戻り、言う。

「それは民に聞いたほうが早いですよ。」

人ごみに紛れる。人がたまって話している場に、目立たない場所を視つけ、するりと座る。

「ったくよぉ、どうなってんだか。物が入ってこないんじゃあ俺達は生きていけねえじゃねえか。」

屈強そうな若者が小さなパンを手に言う。

「お偉いさんは何をやってんだ!」

「どうにかしてくれると思っていたのに、ひどいわね。なんだかって王様は死んだらしいし、この状況の説明もない。」

乱れた服の女。

「ああ、そういうえばそんなこと言ってたな。

でもよ、俺は生まれてこの方一度も、王とやらの顔を拝んだことはねえよ。

大体この国は俺達が働かなければあいつらだって飯も食えねえんだぜ?そのくせ絞るだけ絞りやがって。

税金は上がる、物も入ってこない、わずかな農作物で俺達は生きて行けってか?

けっ冗談じゃねえよ。このまんまじゃあ、生まれたばかりのうちの坊主はもう幾日も生きていけねえ。」

痩せた男が言う。

「そういえば王女も死んだらしいな。おかげで湿っぽくてかなわねえ。」

「今頃城の中で豪華な食い物食ってんだろうな…。ぼくには想像もつかねえや。」

小さな子供も言う。

俺はいとも自然に会話に紛れた。

「よお、俺はちょうど旅をしていてさ。都市がこんなんじゃあ小さな町や村なんかは、もうだめかい?これから行こうと思っていたんだが。」

すると最初に話していた若者が応えてくれる。

「ああ、旅の人か。

そうさ、ここらも一か月くらいまえからどんどん経済状態が悪くなっちまって。

逃げ帰ってきた隊商の話だと、虐殺があったらしい。隊商の取り決めはどうなったんだろうな…。

少しこの街からでりゃあ村ごと餓死してる光景が増えてるよ。そんない貧しくても軍人は顔色一つ変えないで金を巻き上げやがる。もうそろそろ、この国もしめえかもしれねえ。」

やせた男も加わる。

「しかも少し南に言ったところに奴隷が暮らすところがあるんだがよ、半分が軍隊に駆り出された挙句俺達でも金がねえのにもっと金がねえ奴隷だろ?

衛生状態が悪化して疫病でどんどん死んでるんだ。おかげで俺達の仕事も増えるし、もうさんざんさ。」

俺は顔を顰めて見せる。

「そりゃあいけねえ。おめえさんらも大変だなあ。俺もさ、住んでた街がいよいよあぶねえってんで出てきて、旅をしながらなんとか生きているんだが…。」

「ああ、それでかい。んで、この子は?」

と女がエアーチェを指す。俺はあらかじめ考えておいた嘘を並べた。

「こいつは旅の途中で拾ったんだが、どうも口がきけねえらしい。

きっとつらいことがあったんだろうよ。聞かねえであげてくれ。」

皆頷くと、

「そうだよなあ。こんな状態じゃあ何があってもおかしくねえよ。」

「可哀想に、つらかったろう?」

「お姉さん、僕のパンをあげるから、元気をだしてよ!」

と励ましてくれた。小さな小さなひとかけのパンを差し出す子供をみてエアーチェが震えているのに気づき、俺は立ち上がった。

「すまねえなあ、皆。どうもありがとうよ!お互い頑張って生きようぜ。」

そう礼を言うと、みんな口々に立ち上がった。

「またなんかあったらここにおいで。この国で最後まで生き残れるのはここくらいさ。」

「実は俺ら若者で、クーデターを起こそうって話も出てる。

縛られ苦しめられた怒りを、あいつら王族に分からせてやりたいってやつは結構いてさ。」

「ああ、本当にありがとう。頼りにさせてもらうよ。」

そういって輪から外れて歩き出す。

裏地にエアーチェを座らせ、水を飲ませる。

「大丈夫ですか?」

何も言わずに震えているエアーチェ。ややあって細く息を吐く音が聞こえた。

「こんな…。こんなことがあるのなんて…。

地獄とは、このことなのかしら。」

しっかと肩を掴み、真正面からエアーチェを見据える。

「ここは、あなたの国です。あなたは、この国の王女です。

ここは地獄でも現実なのです。現状に嘆く暇があるなら、しっかりと足を付け未来を見なさい!」

その言葉にはっとなり、小さく返事をする。

と、その時上から声が降ってきた。

「おい、そこの二人、そんな狭いところで何をしておる。」

おそるおそる見上げると軍人が立っていた。俺は素早くエアーチェにここにいるよう伝えると、軍人の前にひれ伏した。

「申し訳ありません、じつは先程あの子の母親が亡くなってしまって。」

俺の腰の低さに気を良くしたらしい軍人、見立て通りの浅い人間に内心苦笑した。

「そうかそうか、それは残念であったな。

それでは娘、身寄りはあるまい?ん?どうだ、俺が買ってやろうか。」

と脂ぎった笑みを浮かべてきた。

さすぎに予想だにしない下種な質問に、この危機的状況で能天気にいい放つ外道に怒りを覚えた。

エアーチェに伸ばされていた手を払うと、真正面から睨みつける。

その、人とは少し違う、そう、いうなれば鳥のような鋭い眼光に軍人はひるんだ。

「な、なにをするかクソガキ!俺は軍人だぞ!?」

「ほう、なればその軍人様はこんなところで油を売っておられる暇があるのですか?早く戦準備でもしたほうがいい、今のあんたの体型じゃ真っ先に戦場で死ぬだろうな。」

軍人が顔を赤らめ剣を抜いたのを視、俺はエアーチェの手を引いて駆けだす。

後ろから負け惜しみのようなだみ声が響いた。

「貴様ら、軍人様を馬鹿にしよって!必ず牢屋にぶちこんでくれる!」

そして仲間を呼ぶ声が聞こえた。

俺はできるだけ人通りの多い道を走った。続々と軍人が追いかけてくる。

その時、薄暗い横通りから白い手がにゅっと伸び、俺とエアーチェを引きずり込む。

そのまま裏手の家の中に俺らを放り込むと、

「そこでじっとしてなさい。」

と言った。

「ファカティー…!」

ファカティーはそれには答えず、やってきた軍人としゃべり始めた。

「おい!そこの女!今ここで二人連れを見なかったか?」

「あぁら軍人さん、お勤め大変ねえ。さあ、アタシは見てないけど…。

それより、今夜どう?安くしておくわよ?」

と白い肌を撫でる。ごくりと唾をのんだ軍人は首を振ると去っていった。

しばらくじっと通りを見ていたファカティーがするりと戻ってきた。

「久しぶりね、ハンサムさん。」

「相変わらずだな。ファカティー。」

「それは褒め言葉かしら?あんたは本当によく女を泣かせているわねえ。罪な男。」

エアーチェは立ち上がる。

「あ、あの…。」

その声にファカティーは固まり、

「ラーナ?この娘は誰?」

と尋ねた。

俺はエアーチェに頷いてフードを取ってもらい、言う。

「エアルリエ・ローチェ姫だ。」

ファカティーはしばらく固まっていたが、すぐに気を取り直す。

「それで?」

「俺はこの姫と共に生き、もう一度国を救う。」

「…分かった、他には?」

「ライとガユがいるよ。」

「そう。じゃあ準備してくるから、少し待ってなさい。」

そのはやすぎる決断に、俺とエアーチェが何故か慌てた。

「おい、もう少し考えなくていいのか?」

「そうです。あなたにいてほしいのは本心だけれど、救えるかどうかもまだ分からないのです。命を、この国と、この私に、かけてもらうのですから、もっと考えて。」

「そこであんたの為に命を懸けろっていうところ、嫌いじゃないわよ、アタシ。

でももう決めたの。考える時間が短くても長くてもアタシの結論は変わらない。」

どこまでもあっけらかんとしたファカティー。

「ですが…。」

それを遮ってファカティーは言う。

「いいって言ってるじゃない。

アタシはどの道を選んでも後悔しないわ。決してね。だってアタシは誰にも縛られずにアタシ自身が決めたわ。後ろを振り返り立ち止まることがいつだれを救うの?

その時、その一瞬をアタシは自分の思うままに生きる。

だからいいのよ。さあ、行きましょう。」

そういうと俺とエアーチェを引っ張り、外へ出る。

俺は思いを込めて、変わらない彼女とに救われた礼を言う。

「ありがとうな、ファカティー。」

前を見たままファカティーは手を振り、

「さ、早く出て。」

と言い、走り出した。

ごちゃごちゃとした街のさらにごちゃごちゃとした裏通りがあり、ファカティーは迷うことなく、通りを進む。

それから地下に降りる道の蓋をあけ、

「降りて。」

と一言言った。

俺が先に降りてエアーチェの手を引き、最後にするりとファカティーが入ってきて蓋を閉めた。

「しばらくはここでやり過ごして、夜に集合場所にもどろうか。おそらくライとガユもそろそろ戻ってくることだろうし。」

「分かったわ。」

「ん。」

二人が返事をしたのを聞いて歩き出す。

「滑るから、俺に俺にしっかりつかまっててください。」

「ええ、ありがとうラーナ。」

「あら、ハンサムくんありがとう。」

ファカティーの星の出そうなウインクを見て俺は今度こそ歩き出す。


その夜、ファカティーの記憶と気配を頼りに歩いていると、エアーチェが突然聞いた。

「あ、ファカティー、お仕事は良かったの?」

俺もしっかり失念していて、慌てる。

「そうだ!大丈夫なのか!?」

何も気にしていない風でファカティーは涼しい顔をしている。

「大丈夫よ。今のお店も結構長くてね、そろそろいくら化粧です、じゃあ無理があったから。

現れ方も謎なら、去り方も謎ってね。いいじゃない、粋で。」

「…また遊女をしていたのか?」

「昔ほど荒れてないわよ。私ももう歳よ?

ちゃんと節度あるお店にいたわ。あ、多分ここが一番近い出口ね。」

「…そうか。」

安堵の息をもらしつつ蓋を少しずらした。街外れは暗く、誰も居なかった。

素早く蓋をすべてずらし、ファカティーがまず外に出て見張ってもらう。その間にエアーチェを引っ張り出し、集合場所の廃屋への道を急いだ。


廃屋に入ると、ガユとライはすでに帰り、夕食の準備をしていた。

俺達をみてライはぱっと明るい笑顔になるが、すぐ精一杯をのしかめ面になった。

「もー!ラーナってば、ライ達には目立つなって念を押していたくせにラーナが思いっきり目立ってるじゃない!」

昼間の騒ぎはばれていたらしい。

「すまない、ついね。」

ガユが下品に笑いながら絡んでくる。

「騎士だねえ、ロマンチックだねえ…。」

「ガユお前、酔ってるな?」

「あ?酔ってねえよ!俺様を誰だと…ひっく…思ってやがるっ!」

後ろから胡散臭そうに手を振りながらファカティーが言った。

「あんた、一番酒に弱いくせに一番飲みたがるわよね。ったく、久しぶりだってのに、とんだごあいさつね。」

エアーチェも後ろから覗き込んできた。

「まあ、お酒に強そうな顔をしているのにね。」

「うるへー!ほら、お姫さんも、女狐も、飲め飲め!」

「こーら、酒は終いだ。ガユ、もう寝ろ。」

呂律の回らないガユから酒を取り上げ、ライを寝かせる。

ご飯を食べているエアーチェとファカティーを横目に、俺も横になった。

「お先に、お嬢さんがた。」

「おやすみ、ラーナ。」

「おやすみなさい。」


そして静かになった廃屋。

エアーチェが口を開いた。

「ねえ、ファカティー。聞いてもいいかしら。」

「あら、もうすでに一個聞いているわ。どうぞ、なんでも。」

「ふふ、そうね。…ファカティーは、先ほどラーナと会った時、大きな決断を一瞬で下したじゃない。その理由が聞きたかったの。」

「ふうん。どうして?」

「私は、考えるのに時間を使う。決断するのがいつもいつも遅いわ。決断することに恐怖を感じるの。その選択の先に待つ、責任を考えてしまうから。でもそれは、私の後悔に直結している。後悔をしてきたことで、一度もいいことなんてなかった。

ファカティーの、何事にも動じぬラーナへの信頼と、決断力の源を私に教えてほしいの。私はそれを学び、自分のものにするわ。」

ファカティーはしばらく黙り込んでいたが、ややあって口を開いた。

「アタシ、物を教えるのはうまくないから、上手に解釈して聞いて頂戴ね。

アタシね、もともと色町に売られた女だった。ああ、勘違いしないでね、楽しかったわ。アタシにはこういう生き方があってたの。アタシの手の上で自由に男を操れる、そんな生き方がね。

お金だってたくさん持ってたし、綺麗な服もたくさんたくさん持っていたわ。

みんながきれいだって褒めてくれて、アタシは狭い世界の中で一番上にいた。

でもね、なんていうのかしら。

何事にも、満たされなかったの。

誰一人、化粧を落としたアタシを、見てくれなかった。


…そんな時、アタシは客の一人だった男と出会ったの。少し年上の、まじめで、アタシの住む世界にいなかったような男だったわ。

アタシはそいつに生まれて初めて…恋をしたの。

笑えるでしょう?恋人ごっこの商売で、初めて恋を見つけるなんて。


でもね、本気の恋よ。命を削って恋をしたわ。御法度だった駆け落ちまでして、彼と一緒になった。

追手に怯える暮らしだったけれど、生まれて初めての自由に彼がいてくれるだけで、アタシは幸せだった。

でも、一人で勝手に幸せだったのは、アタシだけだった。

良い家の育ちだった彼は一年の間に痩せこけ、酒癖も金遣いも、人柄も悪くなった。彼は怖がりだったの。特別ね。

そうしてある寒い日の朝、彼は永遠にアタシの前から居なくなった。

何時の間にか賭博で出来た莫大な借金を残してね。

アタシは、一緒にいさえすれば大丈夫だなんて安易な考えと失った恋の喪失感に真っ白になったわ。

そして、死にたい、なんて安易に思った。今思い出しても馬鹿らしいけど、その時はもう生きていく意味なんてないんだって、本気で思ってたの。

でもいざ死ぬ勇気なんてなくてね、ふらふら近くの街へ歩いて行ったら、悪質なのに捕まった。奴隷みたいな扱いと辱めを受けたわ。

借金なんて到底払えそうにないし、体も心もぼろぼろに弱っていくのは分かっていたけれど、どこかこれでいいような気もしていたわ。


…そんなある日、私は死体になった彼だったモノを見つけた。

麻薬や賭博に漬けられて、暴力を受けてゴミ捨て場で殺されて、川に流された、彼を。

その日はね、たまたまいつもと違う川の横の道を歩いてたの。理由はもう忘れてしまったわ。で、たまたま人が集まっていたところをがあって、興味本位で近付いて、たまたま彼と再会したってわけ。

笑っちゃうわよねえ、あまりの皮肉さに。

どう?ここまで聞いて、どう思った?」

エアーチェは彼女が平然と話した内容に、驚き、哀しみ、どこか同情していた。

「かわそうだと、思うわ。」

ファカティーは悠然と頷く。

「そう思うわよね。話を進めると、アタシはそのあと、逃げたの。

なんで逃げたのか分からないけど、どこをどう走ったか、街を外れた野原にいた。

このままどこまでも走り続けて死ぬんだろうって、そう思った時に私は洞穴に落ちた。

それが、みんなが住む家だった。

アタシとさほど変わらない、世界を拒絶する目を持った子供達が何人か、当たり前だけど警戒して立ってたわ。

追い出そうとする言葉なんて入ってこなかったんだけど、何故か無性にお腹が空いてね。

こんなにもお腹がすくことの意味が分からなくて、でもこらえきれるようになってしまって涙は出なかった。

どうしたらいいのか分からなくなった時に、臆から黒髪の妙に存在感のない男の子が出てきてね、アタシを見るなりこう言ったの。

「この人、傷付いてる。俺達と同じ、悲しい傷を。」って。

そういって切れ長の目を精一杯柔らかくして、小さなパンの半分をくれたの。

久々に泣けたわ。パンは不味いし、餓鬼しかいないし、もうわんわん泣いたわ。

ま、その男の子がラーナってわけ。

こんな感じが、だいぶ長くなってしまったけど私の身の上話。

それで、本当にアタシが言いたいのはここから。

こんな人様に言えたもんじゃない身の上話が今は思い出として話せてしまうのも、決断に迷いがないのも、アタシが強いからだわ。

アタシはアタシの過去を誇りに思ってる。アタシの積み上げてきた時間があったからこそ今のアタシがあって、ラーナと、エルと、みんなと出会えたのなら、つらく悲しい時間が長くとも、それは幸せであったと胸を張って言える強さがアタシにはある。

その強さは、アタシと関わった全ての人にもらったものよ。

だからいつの日か、アタシなりに決めた。

昨日のアタシにもう一度会えたら、「最高だ」って言える生き方をすること。

明日アタシがこの世から消えたとしても、「満足だ」って言える生き方をすること。

これは、天邪鬼なアタシの志。

あんたの志は、何?

それを問い続け、それに沿い続けて生きることが大事なことよ。

アタシは常に、アタシが信じると決めて人達について志と協議しながら生きているわ。」

「こころざし…。」

「ええ。アタシからも一つ、お願いを聞いてくれる?」

「いくつでも聞くわ。」

「ここから先、あんたがどんな道を選ぼうと、あんたに関わるどんな残酷な場面においても、他人を可哀想だと思う心を持たないでほしいの。同情は、ここに捨てていってほしい。神の子孫たるあなたは、民と、人と同じ目線を持って、生きていけるいい女になることを約束して。」

真剣にエアーチェは頷いた。

「正直に言えば、今まで心の中でいつもかわいそうと思っている自分がいたわ。私は何一つ不自由ない生活を送ってきた。それに比較してしまう自分に気付いていた。だから、いまここであなたの前で、その自分を捨てていくことを約束するわ。

私の志が何なのかすら、今はまだはっきりと言えないけれど、いつかファカティーと同じくらい堂々と胸を張って言えるようになるわ。

その時には、きっとあなたが一番に聞いてね。」

女狐は、ぬらりと不敵に笑う。

「いいわ。その時まで死ぬんじゃないわよ。


“Blood vessel”が一人、

“Fox song”のファカティーよ。

永遠の命を貰った唄を、あんたに歌うわ。


“We give one’s blood for one’s country.”」

そういって、軽く大剣を突き刺す。

その手を取ってエアーチェが言う。

「こんなにも大事なものが多いのです。簡単に死んでなんかやるものですか。

たとえ国の端にいても、あなたの唄を聞いています。


“I believe my knight.

I expect that you will do your best.”」


女二人の儀式を終えた後も、二つの影は話し続けていた。



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