第6話 ライ・ソミエ
俺の眠りは深いようで浅い。眠るときは一瞬で意識を底に落とす。なにか危険を感じ取れば底から最上の速度で起きる。だから俺は夢を見ない。
朝が来たことを体で感じて起きる。
朝靄の中、伸びをする。火はすっかり消えていた。
昇る朝陽を見ていると眩しさからかエアーチェがもぞもぞと動き出す。
手早く火をおこし、昨日の食事に水を足してスープにする。
身を起こしたエアーチェは寝ぼけなまこに辺りを見渡した。
「おはようございます、エアルリエ姫。」
「…おはよう…。」
「食事ができましたよ。起きてください。」
「ああ…良い匂い…。」
「仮にも一国の王女ともあろう方が寝袋にくるまったまま四つん這いで飯にありつこうなんて、別の意味でこの国の将来が心配ですね、私は。」
ため息を吐きながらスープを渡す。
「何よう、乳母みたいなこと言って。
王女だって朝くらい弱いのよ…。」
そこから体を温めて、エアーチェの眼も醒めたころ、準備をして俺達は出発した。
元・英雄と元・王女の二人が。
小さな、しかし歴史的には重要になってくる一歩を踏み出した。
街を出て、長期的な旅に備えられる準備を整える。
人目に付く装備は元通り服をに入れ、落ち着いた山の枯れ木の色のマントを九つ買い、一つをエアーチェに、一つは俺が羽織る。そうして森に戻り、歩き始めた。
「ところで、どうやって他の七人を探すの?」
「私達は、森の力で繋がっています。大体のお互いの位置は分かるんですよ。
そうやって私達は鉢合わせをしないように少しずつ生きる場所を変えてきました。
ここから一番近いのはライですね。
さて、行きましょうか。」
「便利な力ねえ。」
かなり傾斜のきつい森林の獣道だが、エアーチェは特に気にした風には見えない。
「大丈夫そうではありますが、傾斜はきつくありませんか?疲れが出たらすぐに教えてくださいね。」
「まあ、私は魔導士よ。脚力強化の魔法をかけているの。」
「便利な力ですね。
ライの事ですが、昨日生い立ちについては少し説明しましたね。
彼女は私達の中で一番体は大人ですが、心はだいぶ昔に成長を止めてしまっています。
私も含め、全員が目に見える傷と、目に見えない傷を背負っています。
ですが、貴女には曇りなき眼で、先入観なく私達を見ていただきたい。お与えした情報は私達の人生ごくわずかにすぎません。」
エアーチェは真剣に頷いた。
それからの行程では、エアーチェは何かを思案している顔で歩いていたので、話しかけず、警戒を緩めないようにしながら、ここ二日の破られた日常について考えていた。
もう昔のことになってしまった日常が、確かにあった。
護りたかった人がいた。
護りたい国と民がいた。
紡ぎたかった、決して忘れられてはいけない歴史があった。
その頃きっと俺は、生きていた。
森をだいぶ駆け抜けて、陽が傾く。
ウタが言った通り。
時代が変わり、愛する人が消えても、今日も明日も朝日は昇る。
どれだけ苦しんでも、泣いても、今日も明日も夕陽が沈む。
なんて美しく、生きにくい世界なんだろう。
と、その美しい夕陽が急激に翳っていく。
「なんだか寒いわ。霧かしら。」
「いえ、この感じはおそらくライの気配です。
ライは虎の力を強く引き、気配を殺したり欺くことが得意なのです。
しかし、以前はこれほどまでの力を自在に操れてはいなかったはずですが…。」
地形を頭の中で立体化し、地形を鑑みながら進む。きっとこの能力がなければ三分で迷ってしまっていたことだろう。
しばらく進むと、急に視界が開けた場所に出る。
こけむした岩の上に美しい少女が眠っていた。
真珠の肌に栗色の豊かで艶やかな髪。
随分伸びているが枝毛一つない美しい髪を垂らし、絹の肌は斜陽に照らされていた。
その様子を、エアーチェはまるで岩場に寝そべる女神のようだと言った。
吐息を一つ漏らして長い睫毛が震え、ゆっくりと大きなアーモンド形の目が開き、潤んだ赤目がちな琥珀色の瞳がゆっくりこちらを見る。
ふっくら薄紅色に染まった唇が形作られ弧を描く。
「ラーナ…?」
鈴を転がしたような儚げな声が俺の名を呼ぶ。
「ライ、」
言葉が続かない。
もう何十年と生きているのに心が動けば涙が出る。
涙目でライが駆け寄ってきた。俺も両手を広げて受け止める。
「夢じゃないよね?ラーナだよね?」
頭を撫でてやりながら答える。
「ああ。ライ、久しぶり。元気だったか?」
「この匂い、この暖かさ。この声。
うん、ライは元気だったよ。ラーナは?」
「俺も、それなりにちゃんとやってたさ。」
「良かった。ところで、どうしたの?
ラーナがみんなとの約束を破ってまで会いに来るってことは、何かあったんだよね?」
俺は黙って頷く。そして背に隠していたエアーチェの後ろに立つ。
エアーチェは深く被っていたフードを脱ぎライを真っすぐに見つめる。
その顔を見たライは衝撃を隠さぬまま固まる。歯の根を合わぬままそっと手を伸ばした。
「エ、エル…?」
エアーチェは静かに首を振る。
「私は、エアルリエ・ローチェ。
この国の元・王女ですわ。」
青ざめていた顔が、美しい顔が怒りに染まっていく。
「何で、」言葉も続かない。
「何でエルが私達を裏切った汚い大人に…」
体を震わせ、髪をかきむしる。
「大人…
大人はいつだって私の敵だ…!
ああ…汚い…汚い…私に近づくな…!!」
瞳が紅く輝き、腕は体を抱く。
「殺す」
そういってライが前に出た瞬間にエアーチェの前に俺が立つ。
雷が降り、そのいなづまの中に俺は虎の顔を見る。
「ライ」
呼びかけに驚きが見えるのもつかの間、ものすごい衝撃が俺を襲う。
「ラーナ!」
エアーチェの声が聞こえ、俺は10mほど吹っ飛んだ。
すぐにエアーチェは駆け寄ってきて俺の顔を覗き込む。
「ラーナ!?無事ですか!?」
瞼を開け軽く手を挙げる。エアーチェはほっと安堵の息を吐くと、傍らに落ちた俺の剣を両手で取り横に置く。
「とっさに剣で受け止めはじくなんて…心臓が止まるかと思ったわ…。」
そういうと俺の上に手を翳し、何やら呟く。俺はまだしびれの残る口を動かした。
「はは、まだあなたの心臓は止まれないですよ、姫。」
「馬鹿、知ってるわよ。
…あなたは誰も傷つけないためにわざと受けたのでしょう?」
「ばれていましたか。」
「もちろんです。」
徐々に体に暖かい光が落ち、体が楽になる。目だけでライを見やると目を見開いて座り込んでいた。
俺の視線に気づきびくっと震えると、ようやくよろよろと立ち上がった。
「ラ、ラーナ…?
あ、え、私ラーナに何を…。」
俺は上半身を起こす。
「ライ、大丈夫だ。
いろいろなことが起きたから混乱させてしまったね、すまない。」
ライはまた座り込むと、そのまま気を失ってしまった。
ライが目を覚ましたのは夜も更けたころだった。
粘っていたエアーチェも、先ほどこてん、と寝てしまった。
むくり、と焦点の合わぬ瞳が俺を捉える。
「…ラーナ…。」
「うん、おはようライ。」
「あ、ああ…ごめんなさい私ラーナになんてことを…!」
ダイヤモンドのような大粒の涙が絹の肌を伝う。
「いいんだ、ライ。俺は頑丈にできてる。
話を、聞いてくれるかい?」
涙を拭いながら言うと、ライはこくんと頷いた。
そして俺はこれまでの経緯を話し始めた。
「…と、言う訳なんだ。
俺はエアーチェを信じ、護り、出来ることなら本格的な戦が始まる前に、この事態をどうにかしたい。また、生きてみようかと思う。
そして、叶うなら、また、みんなで。」
ライは受け止められていないようで、どこか遠くを見ている。
「ラーナはいつでも正しい。
だからきっとラーナの判断は間違ってないよ。」
「そんなことはないよ。俺はいつだって間違えた。
今度こそ間違いたくない…いや、間違えてはいけないんだ。」
するといつの間にか起きていたらしいエアーチェが話に加わった。
「誰も、間違えてはいないのです。
過去も、未来も、何もかも。
ただ、人生という問いに戸惑い、選択し、その結果が、今であるのです。
あなた方の選択を責めるものがいるのなら、私がそれを許さないことでしょう。」
聞く人によっては傲慢にも聞こえるエアーチェの声が、心にしみた。
ライは身じろぎもせず、聞き入っている。
「これから、失うものは多いでしょう。
それでも、私達人間は生きていかねばならないのです。
失ったものの上に成る、これから手にするもの全てを、愛するために。
近い先終わりを告げるだろうこの国を、それでも私は愛しています。
ライ、私に力を貸してください。」
嗚呼、人の紡ぐ歴史が何と難しいことか。
「これから私がこの世界から消えたとしても、
私とあなた達で作る歴史は死にません。
眠らない歴史を、この手でつくりましょう。」
ライが動いた。エアーチェが座る傍らに跪く。
「数々の非礼、これからの働きをもってして必ずや返上致します。
“Blood vessel”が一人、
“Tiger’s sunder”のライ・ソミエでございます。
この命、貴女と共に。
“We give one’s blood for one’s country.”」
そう言って、大剣を突き立てた。
エアーチェは優しく微笑んだ。そしてライの指輪にキスをする。
「”I believe my knight. I expect that you will do your best.”
よろしくね、ライ。」
緊張の面持ちだったライもようやく笑顔になる。
「お姫様は、あの大人達じゃなかった…。」
それからはっとなると、
「ごめんなさい、口が滑っちゃった。」
と焦ったように言った。
「いいのよ。そのままの、ありのままのライを見せて。
何なら、敬語なんていらないわ。あなたで、いてほしいだけだから。」
ライは少し考えこみ言った。
「ライは、お姫様と一緒に、戦うよ。
こんなにもすぐ、ついていこうって考えになったのはね、実は…。」
といたずら笑顔。俺とエアーチェは首を捻る。
「さっきのお姫様の怒った顔がエルに似てたから!」
確かに、怒り方は良く似ている。
俺が吹き出すと、一拍遅れて、エアーチェも笑いだした。
「ありがとう、ライ。」
えへへ、と笑うライ。この娘がいるだけで、空気が明るくなる。
暗く難しい、このいまを抱える俺やエアーチェが背負っているものが少しだけ軽くなった。
それから、エアーチェに向き直る。
「姫、私が言っていた意味が、分かりましたか?」
「“魅力にあふれる”ライ、の事ね?」
ライの顔が途端にこわばる。そう。ライはどうしても人の“目”を引いてしまう。それは男も女も関係なく。美しい外見もさることながら、彼女のうちから溢れる鮮やかな気が、誘惑心をくすぐってやまない。それが歪んだ形になって、彼女の心を壊してしまった。
「ねえ、ライ。
貴女は素敵ね。私はあなたの自由のように生きたことはないわ。
貴女の琥珀の瞳には、どんな世界が広がるのかしら。
ライ、貴女はこれから私の夢の源になれる。
未来に、続く夢よ。
それはきっとあなたにしかできないことなの。
永遠を願い、消えかけた炎すら明るく照らしてしまう私の夢、そのものともいえるわ。
歪んでしまったことは消えないけれど、私はその歪んだ夢を、未来に捧げるの。
ああ、あなたに出会えて本当に良かった。」
ライは立ち上がると、俺達に背を向ける。
「ライはね、ずっと助けて、って心の中で叫んでたんだ。
でも誰も気付いてくれなかった。ううん、大人は気付かないふりをしていた。
それでもライはみんなのことが好きだった。大丈夫大丈夫ってごまかすしか生きていけなかった。
ある日サシャとカシャに出会って、ライは救われた。
誰も好きになる必要なんか、ないんだって。
誰かに依存しなくても、私は生きていける。
エルに出会って、ライは助けてって、言えた。
ライは幸せだなあ。
どんなことがあったとしても、その事実があったってことだけで、ライは生きていける。
過去、どれも悲しくないことなんか、なかった。
それでもライは愛を見つけたんだ。愛ってさ、お姫様みたいな人のことを言うんだよね。
今お姫様が言ってくれたこと、お姫様がいずれいなくなってしまってもライはきっと忘れない。
お姫様の愛を、夢を、ライは護ることにする。」
そういって振り返った笑顔は、本当に本当の魅力に満ち溢れたライの笑顔だった。
眩しい。
そう思った。
あんなにも弱かったライは、もういない。
体の成長が止まっても、心というものはいつまでも成長できるものだと、ライに教えてもらった気がした。
エアーチェも、何度も頷いている。
時は、巡った。
早朝、見張りをしていた俺の横にライが座った。
「昔もこうやって、ラーナが見張りをしてたね。」
「ああ、そうだったな。」
「ラーナは夜が遅くても、朝が早くても、いつもしゃんとしていてすごいなあって思ってた。」
「俺は夜目が利かないから、夜の戦闘ではみんなの足手まといになるだろう?
その分くらいは、ね。」
「でも本当にラーナが見張当番の時に、敵襲があったら危なかったよね。」
「何故か俺の時は夜襲がないんだよな。」
そういって二人で笑う。あの頃も、そうやってみんなで笑った。
「ラーナにまた会えてよかった。」
「これからみんなに、会える。」
「エルだけが、いないね。」
「そしてまた、俺らは戦うんだ。未来と。」
「…悲しいね。でも、嬉しい。」
「うん。」
「ねえ、ラーナ。」
「うん?」
「またいつか、エルに会えるのかな。」
「昔も、話したな。みんなで。」
「うん。」
「俺らは、きっともうエルには会えない。俺達は、エルが最も望まない選択をして、今に至るんだ。」
「うん。」
「悔しいけれど、変わってしまった俺達を見られるより、よっぽどいい。」
「…うん。」
「どうかしたのか?急に。」
「お姫様はさ、良く見たら全然違うけど、外見はエルと同じだよね。
お姫様はお姫様だし、エルはエルだけど、これはどういうことなのかなって。」
「…そうだな。残念ながら俺も明確な答えを持ち合わせていないよ。
何のめぐりあわせか、と最初は思ったけれど。」
「そっか。うん、そうだよね。」
「ところで、ライは力を随分増したようだな。」
「うん?そうかな、そういわれるとラーナも随分気配が濃くなってるよ。」
「うーん、どういう事だろう。」
「もしかしたら、この森がウタの森に似てるから、かも。」
「ああ…なるほどな。確かに。突拍子もないけどそんな感じはする。」
「この森はね、生きてるんだよ。ウタの森もまだ、生きてるかな。」
「生きてるさ、大丈夫。それにほら、」
「トーノでしょう?」
「うん。」
ここから最も遠いところにいるのはトーノ。そして彼がいる位置的にはウタの森なのだ。
そうして昔話に花を咲かせていると、エアーチェが起きてくる。
「おはよう…ラーナ…ライ…。」
「おはようございます、姫。」
「おはよう!お姫様。」
「今は姫じゃないから、エアーチェでいいのよ…。」
「エアーチェ、朝苦手なんだね。ライも!」
少しにぎやかになった俺達は、また歩き出した。
「ばいばい、またいつか。」
ライが森に手を振った。
枯草色のマントの数が一つ、減った。
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