#3

「――ふう」

 脱力して沈む立夢の体に合わせて、湯気を放つ水面が揺れた。

 立夢は湯船の縁に体を預け、目を閉じる。耳を澄ませると、お湯の流れる音とは別に、竹柵の外から川のせせらぎが響いてくる。

 遠く落ちていく夕日は朱と影を生み、露天風呂から見上げる空にはすでに僅かながらも星が瞬いていた。

「この時間の露天風呂というのもなかなか乙なものだね」

「そうですねえ……」

 立夢の隣には同じく極楽に浸る小春。濡れた髪からは雫がこぼれ、眼鏡を外したその顔は、夕焼けに照らされてか熱に当てられてか、血色の良い色に染まっている。

「……それで」

 そこで立夢は小春のいる向きとは逆に視線を動かす。

「アライさんはさっきから何をイライラしてるのかね?」

「アライじゃありません。安来豆あらいずです」

 立夢の視線の先では倉崎が苛立たしげに顔をしかめていた。

「名前に関しての話は直す気がなさそうなのでもうとやかく言いませんが、せめてわたくしの機嫌が悪いとわかっているのなら自重して欲しいのですけれど」

「それは不機嫌なわけによるね」

 立夢の、悪びれるどころか躊躇なく踏み込んでくるような態度に、倉崎は眉間のシワをより深くする。だが、相手の性格のひねくれ具合については最早、とうの昔にわかりきっており、倉崎は渋々ながらも理由を話し始めた。

「……部屋からこちらへ向かう途中ですれ違った男性客がおりましたわよね」

「あの三人組のおじさんたちのこと?」

「ええ……そのうちの一人がこちらをすれ違いざまにじっと見つめていたのですわ……」

「あー、うん。なんとなく怒ってる理由はわかったよ」

 倉崎が自身の体を抱きしめる仕草を見て、事の次第を察する立夢。要するに、倉崎はその男に性的な目で見られたと思って不愉快になっているのだ。

「思い出したらまた腹が立ってきましたわ……! どうして世の男たちはこうも野蛮な連中ばかりですの!?」

「どうどう、落ち着いて……さすがに男はみんなそうと決め付けるのは話が飛躍しすぎだから。それに反射的に見てただけで他意はなかったかもしれない」

「いいえ! あの下卑た目は間違いようがないですわ! 見なさい!」

 そう言って倉崎は指をさす。

 その先には、のぼせてきたのか、先ほどより赤みが増してきた小春。

「ふぇ……?」

 ――の前面に浮かぶ、二つのふくらみ。

「このつがいを見る目が健全なものであるなど、あなたは本当にお思いになるかしら!?」

「アライさんって高尚ぶってるけど時たま発想が低俗になるよね。まあ言い分はわからないでもないけど」

 集中する二人の視線に気づき、その豊満な双丘を遠ざけるように小春は身をよじる。

「ふ、二人して何言ってるんですかっ!?」

「いやいや憂沢ういざわさん。今回の議題はそれに触れずして終わることはできないよ」

「そうですわ。前々から思ってましたけどなんですか、その暴力的なまでの大きさは。貴女の性格と違って自己主張が顕著すぎますわよ」

「私だって好きでこんなの抱えてるわけじゃありません!」

 真っ赤な顔でうろたえる小春に、立夢はじわじわと歩を詰める。

「いらないなら分けてよーわたしの壁に厚塗りするからさー」

「そんな自虐を交えて懇願されても分けるのは無理ですから!」

「先っちょだけ、先っちょだけでいいからさー」

「先っちょってなんですか!?」

 そんな感じで乳繰り合う――傍から見ると片方が一方的に弄ってるようにしか見えない――二人。

「よいではないかよいではないか……ん?」

 小春の背中に密着してあれやこれやしていた立夢だったが、倉崎が少し前から妙に黙り込んでいることに疑問符を浮かべる。

「今度はどしたの?」

「あっ……いえ……」

 立夢に声をかけられ、慌てた様子を見せる倉崎。立夢は一瞬訝しんだが、すぐに彼女の目線が直前まで自分の背中に向いていたことを悟った。

「わたしの背中の傷がどうかした?」

「…………!」

 倉崎は思っていたことを言い当てられたことでびくりと硬直し、申し訳なさそうに顔を歪める。言わないことで彼女なりに気を遣っていたつもりだったのだろう。

 それを見て立夢はやれやれ、と困ったように軽く微笑んだ。

 表では高慢な態度を取っている倉崎だが、立夢は付き合っているうちに、彼女が実はとても友人思いで、その関係にヒビが入ることに対して敏感になる部分があることを知った。本人がそのことを自覚しているかはわからないし、立夢からすればそんなに気にしなくてもいいのに、と思うこともある。しかし、弱さとも言えるそういった一面がむしろ、立夢が彼女との距離を感じない要因の一つでもあり、好きなところでもあった。

 立夢は涙目になってあうあう言っている小春から離れて、倉崎のそばに寄る。

 手を伸ばすと倉崎は再び身を竦ませたが、構わず立夢はその手を取った。そして、安心させるように両手で優しく包む。

「そんなにビクビクしないでいいよ。大丈夫。わたしは全然気にしてないから」

「で、ですが――」

「それよりわたしが倉崎さんを心配させたみたいでごめんね?」

 倉崎が何か言おうとする前に、立夢は自分の言葉で遮った。

「そ、そんなっ、それこそあなたが気にすることではありませんわ!」

「ふふ……気遣ってくれてありがとう。倉崎さんは優しいね」

 刹那、耳まで紅潮する倉崎。何か言いたそうだが、ぱくぱくと口を開閉するばかりで声が出てない。

 やがてハッとした表情を浮かべると立夢に握られていた手を素早く引っ込める。

「そ、そそそそろろろあがりましょうかっ!? へ、部屋に戻る頃には夕餉の用意もできているでしょうし!」

 立ち上がり、若干呂律の回っていない口で言葉をしぼり出すと、倉崎はふらふらと頭を揺らす小春を引っ張って、そそくさと脱衣所へ行ってしまった。

「……今の言い方はちょっとズルすぎたかな?」

 一人残った露天風呂で立夢は誰にともなくそう呟くと、悪戯っぽくこっそり舌を出した。

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