第54話 ピロートーク
夏はすぐそこだ。
白い一筋の飛行機雲が、水色の空を走っている。ベッドから眺める窓の景色も、そろそろ見納めだ。
そんなことを思い浮かべながら、百合子は居眠りしかけていた。
日の高いうちから、ベッドの中で寝転んでいることに背徳を感じないと言えば嘘になる。が、今はただ、海原を泳ぎ切った魚のように、心地よい脱力感に覆われていた。
眠気が指の先まで、じんわりと侵食してくるのが気持ちいい。
向かいには、午後の光を背に受け、影になったジーンの顔がある。
のんきそうに話せる死神が、少し羨ましく感じる。
「お茶、冷めちゃったね」
その問いに笑って答える余裕は、今の百合子にはない。
どうでもいいジーンの問いかけにさえ、気恥ずかしさから眠気も吹き飛び、頭に血が上ってくる。
百合子は首まですっぽりとシーツをかぶってから答えた。
「――そうね」
「顔、見せてよ」
「嫌です」
きっぱり断ると質問を諦めたのか、ジーンのおしゃべりが静かになった。
シーツの中で身じろぎもせずに身構えていると、
「やっぱり、痛かっ」
あけすけな問いを、百合子が即座に待ったをかける。
「もう! そういうこと聞かないで!」
夜ではないが、初夜の直接的な感想は、皆まで口にして欲しくないものだ。
「ごめん」
しおらしくジーンは謝った。だが、今日はちょっとしつこい。シーツの上から背中をゆさゆさと揺すってくる。
「映画でも行かない? レイトショーはどうかな。ちょうど観たかった映画があるんだ」
百合子も映画は好きだが、ジーンの趣味とは相容れないものがある。つまらないと思う映画を観に行くのは苦痛だが、こっそりと楽しみにしていることもある。
スクリーンの光を浴びるジーンの端正な横顔を眺めること。
でも。
「…………」
「じゃあ、そうだな……素敵な話を聞かせようか」
その間に、心を落ち着かせる時間くらい稼げるだろう。
「それなら……」
もぞもぞとシーツから頭だけを出して、百合子は意味もなくジーンを睨んだ。
向き合うように顔を付き合わせているが、こんな姿でこんな明るいところで、どんな顔をするのが正しいのか、皆目見当もつかない。
「やっと、穴から出てきたな」
ばつが悪そうに、百合子は貝のように口を閉ざしている。
ジーンは口元に笑みを浮かべ、語りかけるようにゆっくりと話し始めた。
「昔々、あるところに、一人の寂しがり屋で甘えん坊の少年がいました」
「あなたの話?」
「もう、いいから、黙って聞いててよ」
百合子は無言でコクリと頷くと、
「いい? 続けるよ――男の子は小さい頃から喧嘩ばかりしていました。その内、味方してくれる仲間ができたのですが、それでもまだ、彼は世界を呪っていました」
「……可哀想ね」
「ある日、収まらない怒りを持て余し、勢いで家を飛び出してしまいました。すると、泣いている間に、彼は見知らぬ世界に立っていました」
そこまで言うと、ジーンは一呼吸置いて話を続けた。
「空を見上げると、晴れています。なのに、地上は土砂降りの雨。頭の上からバケツをひっくり返されたように、ずぶ濡れになった男の子は、天に向かって思いつく限りの悪態をつきました」
「狐の嫁入りね。あら、ごめんなさい。続けて」
ジーンは百合子の茶々に苦笑して、淡々と物語を紡ぎ始めた。
通りが白く見えるほど降り注ぐ雨に、少年は舌打ちした。薄い下唇を噛みしめ、行き場のない怒りの落とし所を探している。
視界は悪いが、辺りを見渡してみると、お
これだけの雨となれば、さすがに外を歩いている人も、通り過ぎる車も見当たらない。なんだか、自分だけが新世界に取り残されている気分になってくる。
「最悪だな……どこだ、ここは」
体に張り付く長袖のシャツも、髪から雨が滴るのも鬱陶しい。両手で顔の水滴を拭うと、そのまま濡れた髪を手ぐしで撫で上げた。
どうしたものか、と思案しながら、人っ子一人いない通りを見ていたら、滝の向こうから近づく人影に気付いた。
ただでさえ苛立っているところへ、この世界の住人らしい女が身を屈めながら、軒下に駆け込んでくる。
他人と雨宿りなどしたくなかった。面倒だとしか思えない。
彼女の華奢な体も、やはり白い半袖のシャツが張り付き、地味な色のスカートも水を吸って重そうだ。素足に履いた下駄も、泥水をかぶっている。
話しかけるな、と少年は女に信号を送ったつもりだったが、女は空気が読めないらしい。
「ひどい雨ねえ」
ぼやきながら、女は後ろで結んでいた髪の先を絞っている。雫を垂らしている女の髪は、忌々しいほど黒かった。
余計に腹立たしく、少年は無実の女を理不尽にもギロリと睨んだ。
それでも女は気にすることなく、驚いた顔で覗き込んでくる。
自分の方が、幾分か年上に見えたのだろう。女は少年を男と認識せず、くっきりと露わになった体の線を隠す様子もなければ、警戒する素ぶりも見せない。
頭一つ分背が高いから、女から見下ろされているようにも思えて、これも少年の苛立ちに拍車をかけていた。
「あらあら、ちょっと、どうしたの? 喧嘩したの? あちこち傷だらけじゃない。ほら、ここからも血が出てる」
お節介な親戚の叔母さんでもあるまいし。
頬を指差された少年は、プイッと顔を女から
「…………」
「いいわ、理由は聞かない。男の子だもの、いろいろあるでしょうよ」
少年は、頑として女と視線を合わさないつもりだ。
仏頂面の少年は、実のところ女が思うほど子供ではない。華奢すぎるきらいはあるが、見たところ高校生くらいだろう。どちらも痩せっぽちで、見た目も年の差は大して感じられない。
「お家はどこ? 遠いの? もしかしたら……日本語が分からないのかしら」
即座に少年の自尊心が反応した。
「分かるよ。僕に分からない言葉なんかあるものか」
「まあ、生意気な子ね」
と言いながら、女は三日月のように目を細めると、偏屈なティーンネイジャーに微笑みを送る。
反対に少年は腹に溜め込んだ冷ややかな感情を、榛色の瞳の中に
「言っておくが、僕はお前より年上だぞ。子供扱いされるのは心外だ」
「あらそう、ごめんなさい。あなた良いとこの子なんじゃない? ずいぶんと口が達者なのね」
何がそんなに楽しいのか、ずぶ濡れの女はよく笑う。
訳が分からないから、どうにも調子が狂う。何かの罰ゲームではないか、と思うほど、雨が止む気配もない。
「それにしても、あなた」
苦々しい目つきを崩さず、少年はキツい眼差しを向けた。
「は?」
スッと女の手が伸びてきた。
払いのける間も無く、女が髪に触れたかと思うと、
「はい、どうぞ」
差し出されたのは、一枚の葉っぱだった。
「髪に絡んでたのよ」
「……勝手に触るな」
「こう言う時はね、ありがとう、って言うものよ」
「…………」
「可愛い顔しているのに、そんなにブスっとしてちゃ、もったいないわ。宝の持ち腐れ、ってことわざ知ってる?」
少年の眼光の鋭さにも、女は全くひるまない。そして、女が自分の前髪辺りを一瞥した瞬間を、少年は見逃さなかった。
「何? 変な色だとでも言いたいわけ?」
冷めきった声音の裏から悲痛な叫びが聞こえた気がして、女は苦笑いして言った。
「あなたはそんな風に思っているの? 自分の髪のこと」
「……いいや」
思わず本音が漏れたことを恥じ入り、少年は女から視線をはぐらかした。
「私は、とても美しいと思うけど」
「何も知らないくせに」
「そうね。あなたのことは何も知らないけど、美しいものは美しいのだから仕方がないじゃない」
少年は空笑いしながら、止まない雨を見ながら呟くように答えた。
「じゃあ……その髪と交換してよ」
「いいわよ。でも、こんなありきたりな黒髪で、あなたは本当にいいの?」
「ありきたり……それがどれだけ幸せなことか。誰も分かっていない」
「難しいこと言わないでよ。私は女学校中退なんだから」
さも面白そうに女は一人でクスクスと笑って、続けて言った。
「そうね……みんなが黒の中で、もし私だけが、あなたのような銀髪だったら……うーん」
女の視線が宙を泳いでいる。そら見たことか、と少年はフンと鼻を鳴らした。
ふと通りを見ると、雨が穏やかになってきた。
ちょうどいい頃合いだろう。無駄に時間を過ごしたと、少年はすぐにでも軒下から出て行くことにした。
すると、女は胸に両手を重ねて言った。
「それって、素敵じゃない?」
「は? 何、言ってるの?」
「たった一人の髪色。ものすごく特別なことじゃないかしら?」
再び覗き込んでくる女の顔は、憧れのスターにでも会ったかのように輝いている。
あれだけ降っていた雨脚もどこかへ去り、女の笑顔に呼応するように、空が地上を照らし始めた。
「人と違うことで、嫌な目にあったかもしれないわね。でも、誰でもない、あなだけの個性とも言えるんじゃないかしら?」
繰り返すように、少年は「個性」と呟いた。それまで見ようとしなかった女の顔を、そこで初めて見た気がした。
「少なくとも私には、あなたの髪がまばゆいほど輝いて見えるのだけど」
上目遣いで少年は女と目を合わせ、蚊の泣くような声で女に尋ねる。
「本当に……そう思う?」
「ええ、思うわ。それで、あなたは私の髪と交換してくれるのかしら?」
何故、と聞かれたら説明できない。その時、少年の目には、女が両手を広げ、自分を抱きとめようとしている、そんな願望にも似た幻影が脳を横切った。
だが子供ではないから、無邪気に女の胸に飛び込んだりはしない。努めてぶっきらぼうに答える。
「――やだよ」
「あら残念。交換したくなったら、いつでも
そう言うと、女はすっかり晴れ上がった細い一本道のずっと向こうを指差した。
「ここを真っ直ぐ進むと、交番があるの。そこの方に、早乙女家を聞けば教えてくれるから。またどこかで会いましょう。ごきげんよう」
女はどこかの貴族の令嬢のように優雅に腰を下ろし、軽く会釈してみせた。それから、小さく手を振りながら、先に軒下から通りに出て行った。
呆気にとられるほど、女は世界を愛している。
そうとしか思えないほど、少年には女の笑顔が眩しく映った。
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