第53話 白旗降参
「寝室?」
ジーンが居間にいなかった百合子を探している。
手にはコンビニの袋を下げ、スウェットを着こなした死神が、ひょっこりと寝室の入り口から笑顔を覗かせた。
「どうしたの? また泣いてるの?」
無意識に、百合子はツンとそっぽを向く。
「別に……」
名ばかりの家族だと思っていた。そんな誠から、真心が
とは言え、感傷に浸っている自分を、人に見られるのは嫌なものだ。特に普段気取っている百合子からしてみれば。
「歳をとるとね、涙もろくなるものなのよ」
「ふうん、なるほどね」
「何が、なるほどなの?」
「年齢を重ねれば、否応なく経験値は高まるだろう? 僕がそうであるようにね」
「それが涙もろくなる理由?」
「あくまで僕の仮説ね。見逃しがちな小さな事でも、その重要性、尊さ、悲しみ、切なさ、それに、優しさ。そういうものを瞬時に感じ取ってしまうんだろうなって思ったんだ。良いことじゃないか」
妙なところで感心するジーンをチラッと盗み見る。彼の言い分は、今の百合子には理解できる解釈だ。
それはそれ。
易々と素直な微笑みで返すほど、余裕も蓄えていなければ技量も備わっていない。
「あなたは高い経験値をお持ちだろうけど、泣いているところなんて、とんとお目にかかったことないわね」
最後に涙を流したのはいつだろうか。ジーンは考えてみるが、思い出せない。
実のところ、経験値が高すぎて色々と超越しているせいか、長寿すぎるせいなのか。感情の揺れ動く
「ああ、確かに。僕は泣かないね」
他人事のように納得して、ジーンは頷いた。だが、視線はしっかりとベッドの上に開かれた箱にあるところが、抜け目ない。
「それって」
ジーンに隠す必要はない。愛人からの貢物でもあるまいし。百合子はどうも家族のこととなると、問答無用で動揺してしまう一面がある。
そこで関係がこじれないのは、百合子のおかしな挙動にジーンがいちいち反応しないからだろう。
「そうなの。誠が送ってくれたのよ。黒引きの振袖だけね。私が着るとは思っていないでしょうけど」
ちょっと早口に答えると、特に深い意味合いはないが、百合子は口を尖らせてみせた。
「そうなんだ。良かったね」
ただそれだけ言うと、ジーンは微笑んだ。コンビニの袋を持ち上げ、見せつけるように百合子の方へ突き出すと、
「デザートも買ってきたよ。お茶を淹れるから一緒に食べよう」
よっぽど百合子よりも気が回る。百合子にはない、相手のことを考えて行動するジーンに、なんとなく気後れしてしまう。
「どうも……ありがとう」
「どういたしまして」
百合子が胸に抱いた手紙については何も聞かず、ジーンは笑顔を残して、台所へ行ってしまった。
ジーンを目で見送るや否や、百合子は手早く箱を片付け、手紙を手にしたままベッドから立ち上がった。
「すっかりこの若い身体に慣れてしまったわ」
朝、ベッドから起き上がったり、椅子から立ち上がる何気ない動作全てが、あの媚薬を喉に流し込んで以来、いとも簡単に出来てしまう。
不完全だと思っていた自分が、こんなに素晴らしく、美しいものだと百合子は知らなかった。
「昔は仮面をつけて暮らしたいくらいだったけど、今思えば、そんなこと必要なかったわね。もっと早くに気づいていれば、別の生き方があったのかしら」
甥っ子である誠からの手紙を大事そうに、飾り棚の引き出しにしまうと、百合子は遠くを見るように、八重子の華やいだ花嫁姿に向かって語りかける。
「気づくのが遅いわよね。でも、私は幸運なことに、こうして思い返す時間をいただけた。ねえ、十分だと思わない? 心から幸せを願いたくなるほど、私には大切な人がいる。それがこんなに嬉しいことだなんて」
お茶の用意が出来たのだろう。隣の部屋から、ジーンの呼ぶ声が聞こえてきた。
この瞬間でさえ、愛おしさが募る。
最後にもう一度、百合子は自分によく似た八重子の幸福そうな顔を見つめた。
「ましてや、想い合える相手が隣にいるなんて、私には過ぎた話というものだわ。あのね、私……ジーンをご家族にお返しようと思っているの。だって、こんなに素敵な時間をもらったんですもの。当然のことよね?」
心の中に漂っている平穏の煌めきが、百合子の瞳に映し出されている。写真立てをそっと持ち上げ、手紙をしまった同じ引き出しを再び開けた。
「また向こうで会えるよう、あなたも祈っていてね」
妹としばしの別れを済ますと、引き出しに写真立てを納めた。
すると、百合子を待ちきれずに、ジーンがまた寝室に入ってきた。
「今日はウバにしてみたよ」
百合子は素早く引き出しを閉めると、顔をひきつらせ振り返った。
「今、行こうと思っていたの」
下手な作り笑いに、思わずジーンの頬もゆるむ。
「――そう」
「なに? 私の顔に何かついてる?」
「いいや。何か隠してることがあるんじゃないかな、って思ってさ」
「な、ないわよ……なにも」
「本当に?」
なんとも言えないこの数秒の静けさが、百合子の神経を撫でまわすように刺激してくる。
研ぎ澄まされていく感覚が、ジーンの接近を告げている。この緊張感が何であるか、なんとなく分かった気がして、百合子は戸棚の前でうつむいた。
息を飲み込んだ瞬間、耳にジーンの息が掛かり、唇から小さく声が漏れる。
「僕に話してよ」
背後から抱きすくめられ、甘えるようにジーンが首筋に顔を埋めてくるから、銀色の美しい髪が頬に触れてくすぐったい。
「一緒に何度も映画館に行ったよね。手厳しい君と批評もしあった。手も繋いで街を歩いた。ああ、クレープは食べ損なったか」
得体の知れない媚薬の瓶を渡され、飲み干す決意を固めた時のことを百合子は思い出していた。
仮初めの身体でも、心臓は口から飛び出てきそうだし、血という血が全身を濁流のように激しく流れている。
「君の気持ちに判断を委ねるけど」
それ以上の言葉を聞くのが、百合子は怖かった。
「今日が最後の日だってこと、分かってる?」
「……分かってる」
「どうする?」
「――どうするって? 何を?」
分かりきった質問をするなんて愚の骨頂だと、百合子は苦しげに瞼を閉じる。
「僕は白旗を上げている。君次第だよ」
ジーンの身体と重なる背中が、これ以上なく優しく、そして温かいのはずるい。
「意地悪なこと……言わないでちょうだい」
「君は無理をする必要はない」
甘くて妖しげな薬を一服盛られたように、今にも膝から崩れそうだ。
ジーンの言葉も声も、どれも切ないほど優しいのに、腰に回された両腕は、それを許さないと言わんばかりに強い意志を示している。
「僕のこと、嫌い?」
動揺していた百合子の目が大きく見開いた。少し顔を傾けると、ジーンの前髪に唇が当たりそうだ。
「そんなはずないじゃない!」
予想していなかった強い語気に、百合子自身がびっくりした。
「そんな風に反論してくれただけでも、僕は嬉しいよ」
背中にすうっと風が通った。
ジーンは百合子から腕を離し、一歩後ろに下がった。
「ごめんね。怖かった?」
急に遠ざかった温かさを探すように、百合子はジーンの方を振り返った。
ジーンの顔には、全てを受け入れてくれる穏やかな笑みが宿っていた。嘘偽りを感じるなど、罰当たりな気がするほどに。
この優しさと愛おしさに、百合子は全身で応えたい。その胸に飛び込みたいとさえ感じているのに、どうしていいのか分からない。
唯一出来たことと言えば、黙って首を横に振ることくらい。
ジーンはそれは嬉しそうに歯を見せて笑い、両手を広げて言う。
「どうぞ」
歩いて一歩、いや二歩の距離が果てしなく遠くに感じる。
震える唇を百合子は噛み締めながら、右足をゆっくりと持ち上げた。一歩、そしてもう一歩。クリスマス・イブの夜に受け取った神からの贈り物が、そこにある。
ジーンの胸の前で立ち尽くしたまま、百合子はすぐ近くにある奇跡に、今更の畏怖を感じた。
スローモーションのように顔を上げると、見下ろしてくるジーンの榛色の潤んだ瞳に出会った。
ふいに抱きしめられ、頭の上にジーンの頬が重なる。
「本当に、いいんだね?」
自然と頷く自分に驚く間もなく、百合子の唇は強引に奪われた。
「優しくする自信はないけど、頑張ってみるね」
とんでもないことを聞かされ、百合子の身体は頭からつま先まで、きっと真っ赤に染まっているのだろう。見つめ合う死神の方は、言っていることとは裏腹に清々しく、百合子が眉をひそめるほど爽やかだ。
恐れは僅かにあるものの、脳内を支配している喜びが優っている。爆発しそうな心臓の音を聞いても尚、百合子はそのまま受け入れることにした。
「ありがとう、ジーン――」
視界を遮るように、ジーンの上半身が被さってくる。
嬉しいのか怖いのか、涙が瞳を揺らすから、ジーンの顔が水面に映るように揺れて見えた。
今にも泣き出しそうな百合子の頬に、ジーンが口を寄せて言う。
「それは僕のセリフだよ。ありがとう、百合子――君は僕の救世主だ」
自分の血は青いのかもしれない。
どこかでずっと、そんな風に思っていた。
この世で本当に本当の最後の日に、血は赤いのだと百合子は身を以て知った。
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