第52話 花嫁衣装
あれから、二人の生活が永遠に続くかのように感じるほど、穏やかで他愛のない日々が過ぎている。日記を書く人間であれば、何を書けばいいのか困惑するくらいだ。
寝ても覚めても、ただ楽しい、嬉しい。
許された時間は、あと一日と十三時間。
今朝も、日々繰り返される同じメニューの朝食だけで、互いに笑いあえた。
食事を終えると、いつものようにジーンが愛飲する牛乳は
帰りを待つ百合子は、ミシンの前に呆けた顔でじっと座っていた。今だに慣れずにいる不意打ちのキスに頬を赤らめ、熱くなった頬に手を当てて。
数秒ほどの沈黙の後、我に返り必死の形相に戻る。
実家で受け取り損ねた花嫁衣装の代わりとなる、白いドレスを制作中だったことを思い出す。
「まったく……時間がないっていうのに」
壁時計を見れば、お昼に差し掛かっている。
「花嫁衣装というより、これは……まあ、死装束ってとこかしらね」
そこに悲哀はなく、むしろ口元が自然と綻んでくるのを感じて、クスッと笑いまで漏れた。
これまで見えなかった小さな幸せの欠片が、辺りいっぱいに転がっていることを知った。だから、死装束であっても、その日が来るのを楽しみにしている。
仕上げを待つ白いドレスを見つめながら、百合子がほくそ笑む。
「あなた、なかなか素敵よ」
時間との勝負の中で百合子が考えたのは、素材そのものが華やかであり、乙女心をそそる総レースの生地を使った、マーメイドラインのロングドレス。
細い腕にレースがぴったりと張り付くように施され、洗練された大人のウェディングドレスになるだろう。
「さあ、あともう少しで完成だわ」
腕まくりし、決意を新たにしたところで、突如、玄関のチャイムが一度だけ鳴った。不意の訪問者に、百合子はちょっと顔をしかめる。
「これ以上、生活をかき乱されたくないものね」
不満そうに呟いたが、無視するわけにもいかず、しぶしぶ手を止め、丸椅子を立ち上がった。
「どうしてこうも、いない時を見計らって来るのかしら」
ぶつぶつと呟き廊下を渡り、不平は胸にしまいこんでから、玄関のドアノブに手を掛けた。百合子は苦い顔で深呼吸すると、いつもの冷静さを取り戻したことを確認してから、ゆっくりと扉を開ける。
「お届け物です。早乙女百合子さんのお宅でよろしかったでしょうか?」
扉の向こうに立っていたのは、厚みのない縦長のダンボール箱を両手で抱えた、二十代そこそこと思われる宅配業者の青年だった。
拍子抜けした百合子は、
この家の住人はインターネットで買い物をする知識もなければ、パソコンもスマホも持っていない。加えて、物を送り合うような親交がある友人、知人も存在しない。
よって、宅配便など届くはずがない。
「はい……そうですが?」
「じゃあ、ここにサインいただけますか?」
朗らかな青年の声音に即されるまま、百合子はボールペンをおずおずと受け取った。眉根を寄せ、得体の知れない箱の上に置かれた伝票にサインをしようとした時、送り主の名前に手が止まる。
「えっと、どこでもいいんで」
「あ、はい。ここ、ですね……」
サインをする百合子の指先は、驚きと歓喜に震えている。なんとか気丈に振る舞い、送り状を青年に手渡した。
「ありがとうございます」
強張った表情の受取人を不思議そうに見つめながら、
「じゃあ……こっちが控えになります」
青年は送り状の控えを箱の上に乗せ、ゆり子の手に荷物を渡した途端、ペコっと頭を下げ、そそくさと階段を下っていった。
足早に去っていく靴音を聞きながら、百合子は送り状を見つめている。
「あらあら」
送り主の名前は、早乙女誠。
妹と三郎の一人息子。
さようならも言わずに、逃げるように実家を後にしたものだから、実は誠のことは気になっていた。
「やっぱり……優しい子ね」
恐らく、この箱の中身は、手にすることを待ち望みながら、永遠に触れることはない、と諦めていた代物に違いない。
鼻をスンとすする。
床に落とさないよう片手で慎重に箱を抱えながら、後ろ手で静かに扉を閉めた。
玄関の鍵を閉めると、まるで神棚に献上するように恭しく箱を両手で掲げ、百合子は心を込めて頭を下げた。
「ありがとうございます」
クリスマスや誕生日にもらうプレゼントではなく、百合子にとっては、神器を仕舞ってある箱と言えるだろう。
廊下で壁にぶつけたり、転んで落とさないように寝室に運んだ。ベットの上で箱を開けてみる。一通の手紙と一緒に、たとう紙に包まれた着物が入っていた。
和紙の紐を解くと、微かに
「なんて……言ったらいいのかしら。ねぇ?」
百合子は振り返り、背後にある小さな飾り棚の方へ、懐かしそうに視線を送る。妹の写真に向けた百合子の顔は、泣き笑いしていた。
花嫁衣装に身を包んだセピア色の八重子は、花弁を開いた大輪の花を思わせる笑みを
後悔とか未練とか、甘酸っぱさとか。かつての感情が、胸中にじわじわと入り混じってくる。
思ったとおり、中から金糸銀糸の鮮やかな黒引きの振袖が現れた。それは、写真の八重子が着ているものと、同じものだった。
四隅に桜の花びらが描かれた、縦書きの白い便箋には、繊細で流れるような文字が並んでいる。
百合子様へ、と書かれた文字をなぞりながら、
「懐かしい……そっくりじゃないの。三郎さんからお習字の手ほどきを受けたのかしらね」
文字一つにとっても、こうして多くのものが次の世代に受け継がれているというわけだ。瞼を閉じて、百合子は自分の胸に問いかける。
「さて、あなたは何かを残せましたか?」
腹の底から絞り出すように、深い溜息を吐き出し、百合子は首をゆっくりと振った。
再び開目し、手紙を両手で持ったまま、ベッドの端に腰掛ける。
誠からの手紙はこうだった。
突然、帰ってしまった葵、つまり別人になりすました百合子を気にかけていること。そして、渡せなかった着物を百合子の家まで持参するか、送るか迷ったことまで書いてある。
「正直な子だわ」
いきなり対面することは百合子が望むことではない気がして、誠は送ることにした、と。
「頭も良いみたい」
読んでいる間に、思わず白い歯がこぼれる。
誠の母親である八重子も、誠の一人娘も嫁入りの際に着たものだと言う。もっと言えば、高祖母の時代から受け継がれている着物である。
ずっと大事に保管してくれていたことが伝わってきて、感謝の気持ちが湧き上がってくるのを感じた。
高齢の百合子が今更、この着物を必要とする理由を尋ねるような無粋な質問は、手紙の中には書かれていない。
「聡明で心の優しい子……九十歳にもなって、花嫁衣装を借りたがるなんて、笑われても仕方がないと思っていたのに」
ただ、送られてきた荷物の中には、黒い振袖しか見当たらず、帯や中に着る着物も草履も入っていなかった。
「ドレスも完成間近だけど、着物も届いちゃったわ。贅沢な悩みだこと。どうしましょうね」
楽しげに二つの花嫁衣装を頭に浮かべながら、手紙の続きに目を落とした。
「あら……まあ」
嬉しそうに呟き、最後の一文を心に刻むように、百合子は手紙を大事そうに両手で胸に抱きしめた。
「一緒に暮らしませんか……だなんて。まだ、私を家族だと思ってくれているの?」
止どめもなく涙がポロポロと頬を伝ってきて、胸の上で押さえていた手紙から片手を離すと、指先で嬉しそうに涙を拭った。
その時、玄関の扉が開く音と同時に「ただいま」と言う声が聞こえた。
百合子は泣きながら、嬉しさに笑顔をこぼした。
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