第55話 乾杯

「はい、おしまい」


 見事な口上だった。


 粛々と語られる虚飾を捨てたジーンの語りは、耳を傾ける価値があった。


 感情を抑制した物静かな声音と相まって、ジーンの貴公子然とした姿は神々しくさえある。秀麗という賛美がこれほど似合う男もいないだろう。


 つまりは、何から何まで、乙女の胸を見事に貫き、遂には言葉を喪失させたようだ。


 百合子はシーツから目だけを覗かせ、瞬きも忘れてジーンを凝視している。


 それに気づいたジーンがにっこりと返してきたものだから、百合子はハッとして、小さな咳払いをした。


 それから、長い語り部を務めたジーンを、たどたどしくねぎらう。


「あの……素敵なお話、どうも、ありがとう……」


「どういたしまして」


「不思議だわ」


「なにが?」


「私の名前を勝手に使ったでしょ? 私は、あそこまで横柄ではないと思うんだけど……まあ、それはいいの」


「失礼しました。で、何が不思議なの?」


「少年の髪色がジーンと同じ色だったせいかしら? 他人の話やお伽話には思えなくって……」


「身近に感じるかな、と思って、君の名前を使わせてもらっただけ」


 もっともらしい言い訳にも思えるが、どうにもに落ちない。難しい顔をして、百合子は上の空に相槌をうつ。


「……そう」


 自分でも気づかないうちに、百合子は物語に登場した女に感情移入していた。


 理由を尋ねられたら答えられないが、手に取るように、女の言動全てが百合子の胸に響いてくる。


「私……思うんだけど。少年が軒下で一緒になった女の人ね」


「うん」


「彼女は実際に、誰かに恋をしていたに違いないわ。それも一方通行の」


「片思いか――どうして、百合子はそう思うの?」


「一方通行の恋というのはね、波風さえ立てなければ、これほど安全で楽しいものはないの。だから、どんなことでも楽しいし、嬉しいから笑顔でいられる。恋する女が輝いて見える理由はそれよ」


「そういうもの?」


「そうよ。少なくとも私はそうだったわ。ずいぶんと昔の話だけど」


 堂々と話している割に、口元までシーツをかぶっている彼女の姿はジーンの失笑を誘う。


 大きく目を輝かせながら、百合子は急かすように、


「それで? 少年はどうなったの?」


 次から次へと飛躍する話題の転換の速さは通常運転だが、一点の曇りもない純粋な好奇心から聞いている、というわけでもなさそうだ。


 他人事だと思えない何かがある。


 ヒントの糸口を求めて、百合子はジーンの一挙一動を捉えようとしていた。


 ギシっとベッドが軋んだ。


 向かい合って寝そべっていたジーンが、おもむろに体を起こした。その間も百合子の視線がついてくる。


 辛抱強く回答を待つ百合子の目を余所に、ジーンは背に当てるクッション代わりの枕の位置を調整してから、のんびりと口を開いた。


「もやもやが吹っ切れて救われたよ。そして、自分の世界に帰った」


「それは良かったわね。それだけ?」


 無言のプレッシャーに、ジーンの口から苦笑が漏れる。


「そうだな……感情を抑える努力はしたみたいだよ。負の感情が高ぶる時は、いつも彼女の姿を心に浮かべてね」


 百合子の中に芽生えた猜疑心は、どんどん膨らんでいく。


「ふうん」


「何、そのしたり顔は」


「別に。なんでもないわ」


 やましいことでも隠しているように、ジーンがスッと視線を外した。


「あくまでこれは僕が聞いた話……現世に降り立った死神の少年が人間と交流する、っていう……死神あるある話の一つだよ」


 聞かれてもいない弁明を、自ら口にするのがまた怪しい。


「私、何も言ってないわよ。そう。その少年はあなたと同じ死神だったのね」


「なんだか、言い方に棘があるなぁ」


「気のせいでしょ。それより、二人は再会したの?」


「――会えたよ」


 魚の小骨が喉につっかえたようなジーンの物言い。このもったいぶった間に、やきもきする。


「会えたと言えば……まあ、会えた、ってことになるかな」


「なんだか煮え切らない答えね。どういう意味?」


「――彼女は少年と会った記憶を失っていたんだ。再会した時、彼女からすれば、初対面の男としか認識してないだろうね」


 不可解そうに、百合子は目を細める。


「どうして、彼女は記憶を失ったの?」


「今日はどうしたの? ちっちゃな子供みたいに質問が多いね」


「はぐらかしても無駄よ」


 ジーンは腕組みすると、瞑目したまま何やら考え込んでいる。しばらくして、閉じていた瞼をゆっくりと上げた。


 待ち構えていたように、百合子が口火を切る。


「私に分かるように話して」


 組んでいた腕をほどき、ジーンは百合子を見つめながら答える。


「死神と人間。両者はそれぞれ全く別の世界に存在している」


「生前の私と、あなたのように」


「そう。死後の世界に繋がる事象を、生きている人間が暮らす現世に残しておくわけにはいかない。だから、記憶や証拠となるものは全て、強制的に排除することになっているんだ。それが僕らに敷かれた鉄則だからね」


「そんな重要機密を私に話していいの?」


「君はもう死んでいるからね」


 ジーンの顔に、いつもの温かな微笑みが戻った。


「間違ってはいないけど……率直すぎないかしら……」


「君が聞いたんでしょ」


 女との一瞬の出会いをかてに生きた少年と、記憶がない相手を前にした時の少年の心痛を想像してしまい、百合子の勢いは急速に萎んでしまった。


「不憫ね……少年もその女性も……」


「――二人はまた出会い、最終的には結ばれたんだ。悪い結末ではないと思うよ」


 淀みのないジーンの笑顔に、百合子の心臓がぎゅっと握られた気がした。


 ジーンの話からは、違和感の正体に対する明確な回答を得ることが出来なかった。頭ではもう自重しろ、と命令が下ったが、胸の内で大きくなったもやの先を見たい気持ちも抑えきれない。


 どうしても聞かずにはいられなかった。


「あのね……根拠はないんだけど……この話って……やっぱり」


「違うよ。――これは君と僕のお話じゃない」


 きっぱりと、ジーンは言い切った。


 笑っていない彼の顔を見ている方が辛くなる。百合子は唇を噛み締め、それ以上の追求は腹の底に飲み込むことにした。


「さて、話はもうおしまい。今夜の買い出しでも行こうか? 最後の晩餐にふさわしい食卓にしたいな」


「――そうね。酒屋さんに寄って、美味しいワインとシャンパンを買うことにするわ。乾杯しなくちゃ」


 百合子の言葉に深い意味はなかったが。


「何に乾杯する?」


「――君の未来に」


「私は――あなたの未来に乾杯するわ」


 二人の間に沈黙が落ちてくる。底の見えない川が、ジーンと百合子の間で流れている。


 たちこめる濃霧を追い払うように、ジーンは肩の力をふっと抜いて相好を崩すと、すっと手を伸ばした。百合子の頬を包み込むように添える。


「じゃあ、お互いの未来を祈って乾杯しよう」


「…………」


 先ほどまでの明朗快活な百合子は影をひそめている。


「ということで、先にシャワーを浴びてきたら?」


 駄々っ子をジーンは上手に誘導する。


 ジーンの手が頬から離れた瞬間、百合子はシーツから険しい顔を出すと、


「――私が良いというまで、目をつぶって向こうを向いてて。絶対に振り返られないでよ?」


「はいはい」


 用心深く、窓の方を見ているジーンを見上げて確認する。そして、その光景に自然と溜息を漏らした。


 ずいぶん見慣れた横顔だと思っていたが、今日は何度目だろうか。新月の夜に現れた時のまま、ジーンは神話の神々の威光を放つ美しさと尊さに溢れていた。


「まだ?」


 百合子を催促する、その声は笑っている。


「そのままそのまま! 振り返ってはだめ!」


 そう言われると、振り返りたくなるもの。


 危機を察して、百合子は半身が露わになるのも気にせず飛び起きると、ジーンの頭を抑えた。


「まだだってば!」


「ごめんごめん」


 どんな顔で百合子が慌てふためいているのだろう。


 ベッドを飛び出し、いつになく駆け足で寝室を出ていった百合子の姿を想像していると、自然とジーンの顔がほころんだ。


「ホント、楽しいなぁ」

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