第49話 目論見

 その会話に自分を入れないで欲しい、と百合子は心の中で手を合わせていた。が、この部屋に人間が一人もいないことに気づくと、幸か不幸か、戸惑いと不安は失笑に変わった。


 死神、精霊、妖精、加えて魔獣が集合した絵面えづらは、なかなか御目おめに掛かれるものではない。ファンタジーの住人たちに凝視されているとことに、何故だか笑いがこみ上げてくる。


 一方で、親しい友人たちが集っているようにも見えるものだから、その光景に胸が疼いて鼻の奥がツンとした。


 天寿を全うするまでの長い時間、百合子は一人っきりで過ごしてきた。正確には、五十代で店を売り払うまでは、少なくとも社員、お客といった社会と繋がっていたのは確かだ。


 心に引っかかる御仁と出会う機会が、全くなかったわけではないが、恋人がいた試しはない。


 社会の儀礼に従い行動し、波風が立たないように他者には礼節を尽くしたところで、肝心の心を閉ざしているようでは、恋人はおろか、語り合える友人も出来るはずなかった。


 絶世の美女ではないにしても、笑うと目が三日月のようになり、普段のすまし顔とのギャップと相まって、なかなか可愛らしい一面だってある。


 人様に迷惑を掛けない生き方を心がけてきた百合子は、誰かに恨まれたりうとまれるような性悪でもなかった。


 やりようは、いくらでもあったはずだ。


 人生を豊かにするはずの他者との関わりを、ことごとく避けた結果、百合子は臨終のベッドの中で思い知る。社会の輪の真ん中で、たった一人孤立していたことに。


 最後の最後に、悲哀とも悔恨ともつかない苦痛が押し寄せ、現世に未練を残したまま、取り返しのつかない痛恨の生涯を閉じてしまう羽目になった。


 そこへ、迎えに来た死神のジーンやら何やらが、日々の生活に関わってきて、摩訶不思議かつ賑やかな今に至る。


 生前には感じたことのなかった充足感に包まれたり、感じたくもない不安や懐疑心にさいなまれたり。緩やかなジェットコースターに乗っているように、苦楽を繰り返し経験した。


 だからと言って、落胆しているわけではない。スペースの言葉を借りるなら、自らの意思で舞台に上がることを選んで正解だった、と百合子は信じている。


 頭上を照らすスポットライトに、立ちすくんだこともあった。喜びに胸を震わせ、両手を伸ばし、その光を自ら望んだこともあった。


 毎日が、満ち足りていた。


 同じ時間を分かち合える存在が側にいる奇跡に嘆息し、そして心から感謝した。この得難えがたい時間は、誰でもない、紛れもなくジーンがくれたものだ。


「笑うておるぞ……あの娘」


 童女の怯える声に、百合子は瞼を上げた。


 幕が下りる間際、主人公が何を演じるのか、固唾を飲んで待つ観客に応える時だ。自然と百合子の口角が、ゆっくりと上がっていく。


 スウェットを着こなした死神は、全てを包み込むような笑みを浮かべ、その一瞬を心待ちにしている。


 無言を貫いてきた百合子が、迷う様子もなく、頭を深々と下げて言った。結末は、あっさりと終わりを迎えたりする。


「――ご心配をお掛けし、申し訳ありませんでした」


 小さな体をソファに沈ませていたカヤノツチが、ゆっくりと身を乗り出し呟いた。


「お、しゃべったぞ」


 ソファの傍に立つジーンも呼応するように、朗らかに続いた。


「はい、しゃべりましたね」


 イラクサの冠でジーンの延命を図る、という約束を反故ほごにされたパンタシアは、怒り心頭の様子。自慢の赤い髪をすくい上げながら、きつい目で百合子をにらんでいる。


「やってくれるわねぇ。これじゃあ、王子様を救えないじゃない。ありえないんですけど?」


 ついでに言うなら、パンタシアが用意していたイラクサは、魔界では高値で売買される貴重品である。入手困難な代物も、ここにきて全て水の泡となった。


「あのね、謝って済むなら警察はいらないの。それに、あなたがどんなに謝っても、許してあげないんだから」 


 魔界にも警官がいるのだろうか、と百合子は余計な想像を巡らしてみる。お詫びの品も用意はしていないが、パンタシアの淡々とした口調に、苛立ちが混じっていることは察した。


「それでも、私はあなたに謝らなくてはね。折角、ジーンのために考えてくれたんだもの。途中で断念してしまって、本当にごめんなさい」


 またしても丁寧なお辞儀をする相手に、パンタシアはなんとも複雑な表情で唸った。叩頭こうとうされたこともなければ、したこともない妖精からすれば、理解しがたい行動なのだろう。


 甘えた鳴き声がして、百合子はくるりと向きを変えた。


 この気高く優しい魔獣と目が合うと、自然と笑顔になれた。


 ひんやりとするパラディの艶やかな毛並みを撫でてやった後、百合子はジーンの方へスタスタと歩み寄る。


 自分なりに考えた上で、ジーンの延命を願って始めたことを、こうもあっさりと降参した自分が気恥ずかしくて堪らない。


 こんな風に正面から顔を付き合わせるのも久しぶりな気がして、まともにジーンの目を見るのははばかられる。


「ずっと黙ったまま避けたりして、感じ悪かったわよね……ごめんなさい」


「終わりよければ全て良し、ってことでいいんじゃない? それにしても良かった、また君の声が聞けて」


 この見慣れた慈しみにあふれる笑顔は、いつだってどうしようもなく百合子の心を踊らせる。


「イラクサのこと……知ってたの?」


「まあね。すぐには気づかなかったけど。箱が違ったんだ」


「箱?」


「そう。パンタシアの住処すみかの入り口となっている箱は、本来、魔界で採れた石で装飾されていて、それはそれはご大層な宝石箱なんだよ」


 アモルが大事にしているパンタシアを、単独で現世に送り込んでくるとはジーンも思っていなかった。


「君が無言でイラクサを編み始めた時、ああ、これはパンタシアとアモルだな、って。やっと気づいたんだけど、君は話を聞いてくれないし。ホント困ったよ」


 説明したい衝動を抑えるために、ジーンから逃げ回った三日間。それを思い出して、百合子は顔をうつむかせ、短く息を吐き出した。


 すると、医者が患者の傷の具合を見るように、ジーンは百合子の両手を取って持ち上げた。


 指先には、血が滲んだ絆創膏が巻かれている。

 傷を刺激してしまったのか、百合子は顔を歪めた。


「痛い?」


「いえ……大丈夫。でもこれでは、しばらくの間、お料理を作るのは難しそうだわ」


 苦笑する百合子に、ジーンは肩をすくめて、


「それはちょっと困るね」


 そう言って、ジーンは百合子にかしずいて頭を下げると、傷だらけの両手のひらに唇を寄せた。


 上目遣いのジーンと息を飲む百合子の視線が、一瞬で絡み合う。


 カヤノツチは見てはならない物を目撃したように、恐る恐る二人を見上げながら、思わず声を漏らした。


「おお……」


 カップルの二人に置いてきぼりにされたせいか、精霊と妖精は、それぞれの胸中で『帰ろうかな』と呟いた。


 ジーンの真剣な眼差しを見れば、意識を集中させているのが分かる。


 皿からスープを飲み干すように、ジーンは時折、休息を挟みながら、勢いよく息を吸い込んでいる。


「あ……」


 百合子の声に、ジーンが顔を上げた。


「どう? もう痛くないだろ?」


「ええ……不思議ね」


 興味本位に見ていたカヤノツチとパンタシアだったが、死神の技というべきか、傷を癒していく様を見て、感嘆の吐息を漏らした。


「おぬし、やるのう。しかし、それでは――」


 嬉々として、えた指を曲げたり伸ばしたりしている百合子を横目に、ジーンはカヤノツチに向かって、人差し指をそっと唇に当てた。


「おぬしがそれで良いならば、わしが口を出すわけにもいかぬが。のう……」


 にっこりと笑って頷くジーンを見ていられなくて、カヤノツチは目をふとらした。


 全ての指先に小さな心臓があるのかと思うほど、脈打っていた痛みはすっかり消えている。


 百合子は両手を高く掲げ、目を輝かせた。


「リアンノン」


 パンタシアに名を呼ばれ、ジーンが振り返る。


「何?」


「盛り上がってるとこ悪いんだけど、私はもう帰るわ」


目論見もくろみが外れて残念だったね。ま、そういうことで、アモル兄さんによろしく伝えてよ」


 怪訝な目つきでパンタシアはジーンを見上げたものの、用意していた嫌味が口から出てこない。意味不明のもやもやが、腹の奥に溜まっていく気がした。


「言っておくわ。その……あなたとはもう、会うこともなさそうだけど」


「兄のこと、頼んだよ」


 アモルの策略の報酬として、パンタシアが食いたかったパッションは、ジーンと百合子の間に確かに存在し、その美味そうな匂いに脳をくすぐられたはずだ。


 ただ、それは火傷するような熱さはなく、冬の日の陽だまりを感じさせる温かさだった。


 原因不明のしくしく痛む胸に右手を押し当てながら、パンタシアは不機嫌そうに別れを告げる。


「ご心配無用よ――では、ご機嫌よう」

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