第50話 永遠の銀色
パンタシアは押し黙ったままジーンを見上げ、まだ何か言いたそうだったが、すぐにプイッと背を向け、聞きなれない太古の言葉を呟いた。
すると、中心からゆっくりと広がる黒い渦が、木箱の中に現れた。
顔をしかめて、カヤノツチが言う。
「これはまた……面妖な」
風呂にでも入るように、パンタシアは渦の中へ片足を突っ込んだ。徐々に足元から、闇の中へ沈んでいく赤い髪を、ジーンたちは静かに見送った。
「心なしか箱が軽くなった気がするわい。ほれ、返すぞ」
「あちらへ戻ったのでしょう」
カヤノツチは「せいせいしたわ」とせせら笑い、マシュマロのようにふくよかな小さな手を拝むように合わせると、
「さて、ここらでお開きとするか」
前足を揃え、置物のように座っているパラディに向かって、カヤノツチは顎をクイっと上げた。
合図を待っていたかのように、パラディはスクッと立ち上がり、俊敏そうな足を優雅に爪先立って主人の元へやってくる。
カヤノツチは軽やかに、パラディの背に飛び乗った。
悠然と顔を上げているパラディは、これから気が遠くなるような時間を、この着物を着た精霊と共に過ごしていくのだろう。
よその子となってしまったパラディを前にすると、物悲しさと深い喪失感に襲われる。とりわけジーンにとっては、特別な思いがあるに違いない。
パラディと初めて会ったのは、ジーンが紅顔の美少年だった頃のこと。両者を引き合わせたのは、冥府の中心地から外れた森の奥で、一人静かに暮らしていた神父だった。
死神は単一民族である。
瞳の色や肌の色は様々なのに対し、髪色だけは闇に溶け込むような黒しか存在しない。その中で、銀髪のジーン、いやリアンノンは異質な存在だった。
死神と人が交わること自体、
人間との間に生まれた子は皆、銀髪になるという。死神以外の種族の中には、僅かだが黒髪もいるにはいるが、ごく少数である。
冥府のマジョリティが死神である以上、銀髪であること、すなわち正統なる死神ではない、と出自を明らかにする烙印のようなものである。
現世でも冥府でも、他人の自尊心を傷つけることに容赦ない悪童はいるものだ。そのせいで、戦いに明け暮れていたリアンノンは、いっときの間でも心が安まるシェルターを必要とした。
隠れ家は、冥府の魔獣が好んで住み着いている広大なパクトゥム(契約)の森にあった。
初めて森の入り口に立ったなら、誰もが口を開けて見上げるだろう。木々の背が異常に高いことに。てっぺんを視認できる高さの木など、どこにも見当たらない。
遥か頭上で大小の葉が重なり合い、森の中はどこを歩いても
隠れ家としている石造りの家は、周囲を囲むように木が並んでいるおかげで、
その日、
トントン、と扉を叩く音に、肩越しに振り返る。扉の向こう側を想像して、神父は微笑んだ。
「いらっしゃい。よく来たね」
取っ組みあった後なのだろう。
銀髪は乱され、左頬は赤くなって少し腫れている。口の端っこも切れて、血が滲んでいた。折角の上質そうな白いシャツも、ボタンが取れていたり、あちこちが土で汚れてボロボロだ。
「手当は必要かな?」
少年は首を横に振った。
口を尖らせ黙りこくったまま、足元にストンと視線を落とした姿に、心臓を握られたように胸が痛くなる。
「――さあ、中へお入り」
リアンノンの小さな肩は、微かに震えていた。
家に入って最初に目にするのは、作業台も兼ねている傷だらけの木製テーブルと二つの椅子。そして、その奥にどっしりと鎮座する
火に掛けられた鉄鍋から、ほのかにハーブの香りが漂う、なんとも美味そうな匂いがしてくる。
左奥には、手作りと思われる木と
「ちょうどいいところに来てくれた。味見をしてくれないか?」
硬い椅子に腰を下ろし、リアンノンは仏頂面で頷いた。
湯気の立つスープが入った皿に、スプーンを入れて渡してやると、少年は両手で大事そうに受け取った。
食欲をそそる匂いに釣られ、自然と頬が緩んでくる。
澄んだ黄金色のスープを一口、スプーンで口に運んだ。
「どうだ、私の自慢の一品は。悪くないだろ?」
スープが喉元を通って腹に届くと、身体中の血が活気付くような気がした。
「――うん」
「それは良かった。ゆっくりしていくといい」
神父の優しい声に、リアンノンのスプーンを持つ手が止まった。皿を
「相手にするつもりは……なかったんだ」
「そうだろうな」
「ちゃんと分かっているよ。あんなボンクラどもの
「心がけは立派だな。だが、ボンクラは言い過ぎじゃないか?」
刺すようなきつい視線が、神父に飛んできた。かと思ったら、すぐに視線を外した。
リアンノンは、この部屋の物も神父も見ていない。ここではない、どこか遠くに目を凝らしている。
ありったけの憎悪を両目に宿し、ボンクラどものニヤけた顔を残像のように映し出していた。
再び湧き上がってくる怒りが爆発しそうで、皿を持つ手がぶるぶると震える。
「あいつら……ママのことを――売女、って言ったんだ。だから、僕は生まれながらに汚れている、ともね。この髪の銀色は汚れの
激しい憤りは、言葉を吐き出すごとに薄れていき、最後は自分を哀れむように、自虐的に鼻で笑っていた。
「そんはずないだろ?」
「――言えるのは、この銀色の髪は最悪だってこと」
「ええ? そんなはずないだろ?」
すっとんきょうな声で驚く神父に、リアンノンは不機嫌を露わにする。まだスープが残った皿を、テーブルに大きな音を立てて叩きつけた。
「しつこい!」
「もう一度聞くよ。そんなはず、ないだろ?」
土や草が混ざって絡んでしまった銀髪に、神父がそっと手を伸ばした。
一つ一つ丁寧に取り除いてやりながら、
「ママからもらった素敵な髪じゃないか。お前の銀色の髪は美しい。誰が何と言おうと、これは疑う余地のない真実だ」
最後に手櫛で髪を
「よし、ちょっと待ってて」
リアンノンが呼び止める間も無く、神父は外に出てしまった。所在なさげに、椅子の上で足をぶらぶらさせながら、ぼんやりと神父の帰りを待った。
すぐに、キイと音を立てて扉が開いた。
音に反応して、スッと顔を上げる。
戸口に目をやった途端、リアンノンの曇った表情は、雪が解けていくように柔らかな微笑みに変わっていった。
神父が腕に抱いていたのは、子犬というには少し大きな魔獣だ。そのくせ、怯えているのか、小刻みに震えている。
親に捨てられ森で彷徨っていた魔獣の子を、保護したのだと神父は言う。
「この子の毛皮も、お前と同じ銀色だ。美しいと思わないか?」
リアンノンは同意し、力強く頷いた。
小さな魔獣を覆う銀色の毛並みの美しさに目を見張る。
「ああ……とってもキレイだね。それに、とっても可愛い」
「そうか、気に入ったか。私の代わりに、この子の面倒を見てくれないか? 魔獣のくせに臆病な子だから、優しく育ててやって欲しいんだけど。やれるかな?」
それから二百年の月日が過ぎた。今はもう隣に自分はいないのだ、と改めてジーンは思い知る。
この世からも、冥府からも去ることに未練はないが、長年連れ添ったパラディとの永遠の別れは、やはり重苦しく、耐え難いものがあった。
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