第47話 夜話

 木箱を開けてから、三回目の夜を迎えた。


 百合子は苦痛と疲労を宿した顔を上げ、窓の向こうに想いを馳せている。今にも声を発してしまいそうで、無関係な夜空に救いを求め、ただ雲間に浮かぶ月を見ていた。


「どうした? 呪いでもかけられたか」


 背後に聞こえた幼女の声に、百合子は顔をしかめたまま振り返る。息苦しい部屋の中には、二人と一匹が固唾を飲んで、物言わぬ女の動向を見守っていた。


 一人はカヤノツチだ。式の日取りと場所が決まったことを知らせに、従者となったパラディに颯爽とまたがり、百合子のマンションを訪れていた。


 ところが、部屋に入ってみれば、重い沈黙で淀んでいる。祝杯でもあげようか、という良い気分が台無しだ。


 薄っすらと涙を目尻に浮かべた百合子を睨んだ後、カヤノツチはパラディにまたがったままジーンを見上げた。


 ジーンは普段と変わらず、穏やかな笑みを見せているのが、二人の間に漂う異様さを一層のこと際立たせている。


 カヤノツチは片眉を上げ、溜息をついた。


「もっと二人で騒いでおると思ったのじゃが――そうでもないのう」


「ずっとこの調子で」


 と言ったジーンの目は、もう笑っていない。


 百合子は眉をひそめて、自分の両の手のひらを見つめた。十本の指先それぞれに巻かれた、血のにじむ絆創膏が痛々しい。


 パンタシアが用意するイラクサの茎は、先端が鋭利になった棘が無数にあるせいで、傷は癒えることがなかった。


 安易な気持ちで、アモルの策略に乗っかった訳ではないが、ジーンの命を救えるという冠の完成は、思いの外、困難であることを知った。


 百合子の苦悶は、指先の痛みだけが原因ではない。このままジーンと一言も交わすことなく、呆気なく最後を迎えてしまうかもしれない、という恐怖にも似た不安が心の大部分を占拠していた。


 カヤノツチはパラディの背中から、ひょいっと飛び降りながら、心の中で小さく舌打ちした。


――死神どもめ。

 

 ジーンは笑みを取り戻すと、カヤノツチを居間のソファに座るようにうながした。


「うむ」


 カヤノツチは案内されたソファにちょこんと腰掛け、小さな体をソファに預けた。心地よさに声が弾んだ。


「おお! ふっかふかじゃのう!」


 ジーンは喜ぶカヤノツチに微笑むと、横目で窓の方を見た。


 絆創膏だらけの指先を見つめたまま、百合子はうつむいていた。


 パラディが甘えるように、百合子の腕に鼻先をこすりつけている。


 柔らかな毛皮が手のひらに当たり、伝わってくる温もりに導かれるように、百合子はパラディの額を愛おしそうに撫でてやった。


 ジーンはカヤノツチに視線を戻し、

 

「そのご様子だと、首尾は上々のようですね」


「当たり前じゃ。わしが引き受けたからには最後まで面倒を見てやる。言っておくが、死神と屍人の結婚式など、喜んで引き受けてくれる阿呆は、そうそうおらんぞ」


 ジーンは口を結んで、同意するように何度か頷いた。そして、胸に右手を当てると、ソファに座るカヤノツチの前で、王子のごとく片膝をついた。


「感謝しております。あなたにお願いして正解でした」


 うやうやしく頭を下げる死神の一礼に、カヤノツチは思わず相好そうごうを崩して、クックックと笑った。


 土産話に余程の自信があるのだろう。目の前にひざまずく死神を驚かせるという、小さな征服欲がむくむくと湧いてくる。


 カヤノツチは少し顎を上げてジーンを見下ろすと、誇らし気に言った。


「場所は、ここらで一番高い山で行う。聞いて驚くな。火産霊命が快く引き受けてくれたわい」


「ほむ……ほむ」


 カヤノツチはキョトンとしたジーンの顔を腹立たしく見ながら、声を荒げる。


「ほむすびのみこと、じゃ! ええい! 口惜しい! この快挙が理解出来んとは! まさに豚に真珠じゃな!」


 苦笑するジーンを見て、カヤノツチは大きく溜息を吐き出し、ソファに深々と身を沈めて言った。


「……まあ、カグツチでも良かろう」


 ジーンは嘘くさい笑みで応える。


「では、カグツチ様で。ご高名な方のようですね。さすがです」


 詐欺師を見るような目で、カヤノツチはジーンを薄目で見ると、小声で「よう言うわ」とぼやき、言葉を継いだ。


「褒めたところで、何も出んぞ」


 カヤノツチは窓際を一瞥し、前のめりになるとジーンの耳に囁いた。


「して、アレはどうなっとるんじゃ」


 窓の方を向いたまま、振り返ろうともしない百合子に、二人の視線が走る。ジーンは暫く考えた後、あくまで穏やかに、そして控え目に微笑んだ。


「大丈夫ですよ。少し不機嫌なだけですから。お気になさらずに」


 あのイザナミとイザナギの間に生まれた火の神が、二人の式を取り計らってくれるというのだ。承諾を得た今、予定が流れてしまうのは、カヤノツチとしても絶対に避けたい。


 しかし、カヤノツチは鼻をふんと鳴らしただけで、多くは語らなかった。

 

「十日後の半宵はんしょうに、迎えに参る。それまでに、現世の未練全てを断ち切れるよう、身辺を整理しておくのがよかろう」


 ジーンは膝を崩し、その場に胡座あぐらをかいて座り直し、顎に手を置いくと、何やら難しい顔をした。


 カヤノツチは悩める死神を冷ややかな目で見ながら、


「不服か?」


 ジーンはハッとして顔を上げると、首を横に振った。


「とんでもない。そうではありませんが――」


「もったいぶるな。さっさと申せ」


「十日後まで、僕らが姿を保っていられるかどうか――と思いましてね」


 カヤノツチはソファの上でふんぞり返り、腕組みすると鼻息荒く言った。


「日取りはカグツチ様がお決めになったこと。わしがどうこう出来ることではないわ」


 カヤノツチは腕をほどいて、ジーンの頬に小さな手のひらを伸ばした。


 神話の時代から世を見てきたいにしえの精霊からすれば、二百五十歳の死神など若造に過ぎない。


 時には、不器用な二人に慈愛を感じることもあるのだ。


 カヤノツチは神妙な顔を見せながら、


「おぬしの言わんとすることは理解できる。当の本人たちが姿を消してしまった後では、婚礼を執り行う意味がないからのう」


 幼な子の小さな手に、ジーンが顔を上げた。


 ジーンの生命力を使い切るのが、いつなのかと問われても、神のみぞ知る、としか言えない。そう思えば、日取りの変更を依頼しても、徒労に終わる可能性も高い。

  

「いえ……お迎えは予定通りでお願いします」


「なんじゃ、あっさりと引きよったな。まあ、その方がわしも助かるわい。さて」


 と言って、カヤノツチは横目で、背中で会話を盗み聞きしている百合子を見ながら、わざとらしく大きな声でぼやき始めた。


「お主らは、いつ消えてもおかしくない。それが明日かもしれんし、今かもしれんのだな。悲しいのう。時間がないのう」


 百合子の肩がピクッと上がったのを察して、カヤノツチは顎で百合子の方を差しながら、眉を寄せてジーンに目力で訴えた。


 ジーンは目をまんまると見開いた。瞬時に笑いを噛み殺しながら、カヤノツチの耳元に顔を近づけ囁いた。


幸甚こうじんの極みに至ります」


 と言って、ジーンは、ゆっくりとカヤノツチから顔を遠ざけた。

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