第45話 G線上のアリア
カーテン越しに、朝日が昇っているのが分かった。
昨夜は色んなことがありすぎて、昼になろうかというのに、二人は向き合うようにして、未だベッドの中である。
こうして手を伸ばせば届く距離に、奇跡が具現化した天使が寝ている。
先に目を覚ました百合子は、隣で寝息をたてるジーンをぼんやりと見ながら、そんなことを思った。
二人分の体温で温まった布団は心地よく、それだけで幸せを肌で感じられる。
百合子は静かに寝返りすると、ベッドサイドのテーブルに置いた木箱に目を向けた。
アモルは言った。
箱を開けるのは、一人の時だ、と。
そのチャンスは、思いの外、すぐにやってきた。
二人が目覚めた後、遅い朝食の準備をしていたら、メニューに必要な牛乳が空になっている。
ジーンが育ち盛りの学生のように、毎日、ごくごくと美味そうに飲むものだから、ストックがすぐに切れてしまうのだ。
台所でボールの中に、卵を割っていた百合子の背後で、ジーンが溜息をつきながら、冷蔵庫の扉を静かに閉めた。
「これは、お前が行ってこい、ってことかな」
百合子は手を止め、卵を一つ握ったまま振り返る。
「あなた、飲み過ぎなのよ」
そう言われては、ジーンも笑うしかない。
「コンビニで買ってきてくれない? 今朝は、フレンチトーストを作りたいのよ」
「OK。他に何か買うものは?」
「いいえ。牛乳だけで結構よ」
そう言って、百合子はジーンに背を向け、また手を動かし始めた。あまり料理は得意ではないが、朝食はきちんと食べたい派である。
「先にサラダを用意すればいいわね」
百合子は鼻歌まじりに、レタスとプチトマトを、さっと水で洗い始めた。
紙ナプキンで野菜の水気を取っていると、ロングコートを腕に掛けたジーンが現れた。
「まだいたの?」
と振り向き様に、ジーンは無防備な百合子の頬にキスをした。
「じゃ、行ってくるね」
そうしてやっと、ジーンは爽やかな笑顔とお約束のウインクを残し、風のように家を出て行った。
不意打ちは体験済みだが、やはり頬が熱くなる。呆けている自分に気づいて、自分のやるべきことを百合子は思い出す。
「こうしちゃいられないわ」
すぐにシンクで手を洗い、エプロンで手を拭きながら、百合子は居間の方へ急いだ。
テレビ台には、大昔に買ったレコードプレーヤーと小さめのスピーカーが置かれている。下にある観音開きの扉を開けると、数少ないコレクションから一枚を取り出した。
「これを聴く日がくるなんて、人生、何があるか分からないわね」
プレーヤーの電源ボタンを押し、ガラスの蓋をそっと持ち上げる。レコードの紙ジャケットから丁寧に盤を引き出すと、黒いターンテーブルの上に置いた。
人差し指で持ち上げるように針を盤面に静かに下ろしてやると、独特のノイズでスタートを切った。
曲はバッハ。管弦楽第3番『G線上のアリア』。
穏やかに流れる美しい調べの中に、荘厳さもある気高い名曲であり、結婚式の定番である。目を閉じると、天使に囲まれ温かい光の中に漂っているような、そんな感覚に陥る。
「まだ囲まれたくないわね」
そう言って、今度は慌ただしく寝室へ向かい、ベッドサイドにある木箱を、両手で持ち上げた。
G線上のアリアが、居間から流れてくる。
高まる気持ちを抑えようと、木箱を胸に抱いたまま、大きく深呼吸した。
木箱の外側はざらつき、所々ささくれている。
興味と不安が混ぜこぜになりながら、箱を傾けて四方を見たり、少し振って耳を近づけたりしていると、
「痛っ!」
指先を見れば、ぷくっと鮮やかな赤い血の玉が浮き上がっている。百合子は、そっと唇に指を持っていき、小さな傷を舐めた。
気を取り直し、今度は、さっきよりも慎重に上蓋を持ち上げた。
その瞬間だった。
箱から飛び出すように、白い閃光が走った。壁を突き抜けんばかりの勢いで、光は一気に放射線状に広がった。
あまりの強烈な眩しさに顔を傾け、片手をかざし両目を隠した。
「なんなの……!?」
瞼から光の消滅を感じ、薄っすらと目を開けてみる。
「どなた?」
百合子はきょとんと、目を見開いた。
何故なら、箱の中に、女が立っているからだ。片手を腰に当て、自分を見せつけるように。
見間違いではないか、と百合子は二、三回、まばたきをした。
身の丈は手のひらサイズだが、姿は正真正銘の女。それも極上のシルエットで、不敵な笑みがよく似合っている。
褐色の肌に、燃えるように赤い髪。濃いまつげの奥に覗く、猫のような瞳はエメラルドのよう。肢体は肉感的でありながら、優雅さも損なわない絶妙なバランスが素晴らしい。
百合子は箱から視線を
思案していると、女がしゃべった。
それも棒読みで。
「ご結婚おめでとう」
感情のない声だが、一応は祝ってくれた。百合子は困惑したまま、小さくて魅惑的な妖精に頭を下げて返す。
「あの……あなたは?」
「私? パンタシア。あなたの愛を確かめに来たのよ」
小さな女は、口角を上げて微笑んだ。
「あの……」
「なあに?」
パンタシアと名乗る箱の中の女は、いかにも不服そうに口を尖らせる。
「確かめるとは、どういう意味でしょうか?」
それを聞いて、百合子は、またか、と胸内で溜息を吐いた。
「言葉どおりだけど? 何か?」
とても好意的とは言えないパンタシアの態度は、百合子の眉を寄せるものがある。箱を閉じてしまいたいところだが、アモルの真意は探るべきだろう。
「あなたの役割は何ですか?」
「アモルの望みを叶えること」
「……私に、その……何をさせたいのですか?」
「質問ばっかりね」
パンタシアは溜息を吐いた。そして、百合子を指差しながら、淡々と答える。
「簡単なことよ。私が用意するイラクサで、あなたは冠を作りなさい。ゴールは、それをリアンノンの頭に乗せる。それだけ」
「それだけ?」
「そう。ただし、ちょっとした条件があるの。冠が完成するまで、あなたは一言も話しては駄目。筆談も駄目」
「一体なんのために、そんなこと……」
「そういうお伽話、聞いたことない?」
百合子は眉根を寄せたまま、首を横に振る。そして、次の質問を口にした。
「ジーンがイラクサの冠をかぶると、何が起きるのですか?」
パンタシアは両腕を上げて、髪を後ろへすくい上げながら、退屈そうに答えた。
「リアンノンが救われる、というハッピーエンディング。悪い話じゃないでしょ?」
百合子は唇に拳をあてて、突然現れた妖精の言葉に考えを巡らせる。
「あなた、愛する人を救いたくないの?」
呆れたように言って、パンタシアは肩をすくめた。
箱の中の女は洗練されていると同時に、本能も隠さず、野性的な色香まで兼ね備えていた。
そして、圧倒的な差を持って、百合子を女として見下している。
と、百合子は感じた。
「ねえ、この箱、どこかに置いてくれない? あんたが持ったままじゃ、落ち着かないもの」
言われたように、百合子はサイドテーブルに箱をそっと置き、自分はベッドの端に腰掛けた。
「じゃあ、始めましょうか? 素敵な御伽話を」
箱の中のパンタシアはその場に腰を下ろすと、ゆったりとした様子で、
百合子を見つめたまま、余裕たっぷりに微笑み、よく通る声でイラクサの物語を語り始めた。
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