第33話 拝啓 あなたへ

 すでに朝だった。


 ベッドの中で、一瞬で目が覚めた。視界は良好。半身を起こしてみれば、そこは見知った自分の寝室ではあるが、隣にジーンはいない。


 耳を済まし、ジーンの、パラディの足音や声を探してみる。


 恐ろしく静かで、かすかに台所から、古い冷蔵庫のファンの音が聞こえてくる。


 ゆっくりと両足をベッドから下ろすと、早朝の肌寒さに身震いした。冷たい床の上を裸足のまま、寝室の扉に向かって歩き出す。


 吐き出した息は、弱々しく震えていた。


 ゴクリと唾を飲み込み、寝室の扉の前まで歩いた。


 ドアノブをそっと回し、扉を開ける。


 右目からポロリと涙が一筋、頬を伝わった。


 ジーンはソファで、死んだように、いや眠り姫のように美しく、澄ました顔で眠っていた。


「良かった……」


 昨夜、百合子とジーンは砂漠から、この部屋に戻ってきた。


 帰宅早々、疲れた二人は紅茶を飲んで一息入れたのだが、その間に百合子は眠りに落ちてしまったらしい。


 外食は諦め、ジーンは百合子を抱きかかえて寝室に運び、そのまま寝かせたのだろう。


 ジーンを起こさないように、忍び足でソファに近づくと。


 ソファの足元で、主人に寄り添うように眠っていたパラディが、百合子の気配に顔を上げた。


 百合子はパラディに微笑み、立てた人差し指をそっと唇に当てて見せた。利口な銀色の子は、再び静かに床にふせって目を閉じた。


 肌寒さにぶるっと体が震え、百合子はテーブルに置いてあったエアコンのリモコンを取り上げ、暖房のボタンを押した。


 ピッと短く響いた電子音に、そろりとジーンを振り返る。


 起きる様子はなく、胸をなでおろす。


 それから、ミシン台の隣にある小さな机に移動し、ゆっくりと椅子を引いた。もう一度、ジーンを振り返るが、いい夢でも見ているのか、この上なく幸せそうに眠っている。


 百合子はそろりそろり、と机の引き出しから、便箋とボールペンを取り出した。


 便箋の表紙をめくると、何十年ぶりかに開かれた空白のページは白茶けていた。


――新しい便箋の方がいいのかしら。


 古い便箋を目の前に、少しだけ悩んだが、もったいないという理由で、そのまま使うことにした。


 ボールペンを握って、手紙を書く準備は出来た。


 が、筆が進まない。


 机に頬杖をついて、目を閉じて思いを巡らせてみる。


――茂木もぎが生きている頃は、手紙の交換をしていたっけ。結局、八重子とは会わずじまい。姉の私よりも……あんなに早く逝ってしまうなんて。いい娘だったのに。


 握っていたペンを机に置き、苦しそうに頭を抱えた。


 どんなに思いを寄せ、後悔を積み重ねたところで、死んでしまった相手に贖罪をすることは叶わない。


 絶対に叶わないから、絶望感に苛まれ続ける。


 妹の八重子は愛する人と結婚し、一人息子を生み育て、それは幸せな人生を送っていたが、若くして母と同じ病であの世に旅立った。五十五歳だった。


 その頃、百合子は一人で経営していた婦人服の小さなブティックを売りに出し、すでに隠居生活。


 会いに行こうと思えば行けたし、再三の八重子や夫の三郎からの手紙や電話に応えることもできたはずだ。でも、百合子は深海に身を潜めるように、家族との接触を拒み、連絡を遮断し、一人隠れるように暮らすことを選んだ。


 戦前から実家を支えきた使用人の、茂木という男が亡くなってから、生家と百合子を繋ぐ線は途切れ、八重子の家族や孫たちが、今、どう暮らしているかなど知るよしもない。


 それは、向こう様も同じである。


 百合子は伝えるべきことを、頭の中で繰り返した後、ありきたりな挨拶から書き始めることにした。


 手紙の目的は、あるものを貸してもらうこと。


 遠縁となった家族との距離感が分からず、どう書けば良いのか思案に暮れ、繰り返し書き直した。結局、便箋を五枚も使い、やっと納得いく仕上がりに思わず笑みがこぼれた。


「おはよう」


 突然の声に、百合子は肩をビクッとさせて、ゆっくりと後ろを振り返った。


 眠そうな顔をしたジーンが、ソファの横に立っていた。恐らくウインクをしているつもりだろうが、目が開けきれず絶妙に変な顔をしている。


 百合子は小さく吹き出した。半目になってにやけたジーンは、どことなくスペースに似ている気がした。


「おはよう。早いのね」


「そう? しかし、お腹が空いたなあ」


 そう言って、ジーンは両腕を天井に向かって突き上げ、気持ちよさそうに伸びをした。


「後で、パンケーキでも焼こうかしら」


 ジーンは「それもいいね」と微笑んだ。


 そして、首を右へ左へと伸ばして、百合子の肩越しに机の上を覗き込んだ。でも、ジーンは言及することなく、すぐに視線を外した。


 ぼさぼさになった髪をかき上げながら、ジーンが百合子に、今度は完璧なウインクを投げてきた。


「今朝は僕が作るよ」


「そう? じゃあ、お願いできるかしら」


 百合子は不器用な微笑みで返し、トクトクと早まる心臓の鼓動を聴きながら、また机に向き直した。


 背中から、ジーンの声がした。


「それで、何を書いてるの?」


 百合子は、振り向かずに答えた。それは、昨夜の晩御飯を聞かれ、カレーだったわ、と応えるくらいの普通さをもって。


「手紙よ。実家にね」


「式に招待でもするつもり?」


 冗談めいたジーンの言い方に、百合子はペンを静かに置くと、つかさず振り返った。


「するわけないでしょ。今の私を見て、早乙女百合子だと分かる人は、この世のどこにもいないわ」


「それはそうだ」


「妹の旦那が……孫と同居しているはずなの。それで、彼にちょっと……お願いをね」


「そうなんだ。じゃあ、早く終わらせてね。僕は手際がいいからね。朝食はすぐだよ」


 自信に満ち溢れたジーンの笑みに、百合子は目を細めた。


「本当かしら」


 ジーンは朝食のアイデアが湧いたのか、眉を上げて目を輝かせた。


「そうだ、キャベツは好き?」


 その問いに、どう受け取るべきか。


 百合子は苦笑した。


「嫌いじゃないけど、他のメニューもお願いしたいわね」


 ウインクで返してくるジーンに、一抹の不安を感じることさえ、今は楽しい。ジーンが台所へ行った後、百合子は「素敵な朝だわ」としみじみ呟いた。


 パラディも、のっそりと立ち上がると、主人あるじについて、台所へ行ってしまった。


 それから、台所はずっと賑やかである。


――大丈夫でしょうね……。


 百合子は何度か振り返っては、一度台所へ様子を見てこようか、と椅子から腰を上げたりもしたが、途中から背後の騒動は忘れることにした。


 手紙を書き終わり、静かにペンを机の上に置くと、祈るような気持ちで目を閉じる。


――訃報ふほうは届いていないから、お元気だとは思うのだけれど。さて……。


 ホッとするのも束の間、ジーンが嬉しそうな顔で、台所の暖簾から顔を出して叫んだ。


「百合子! すごいのできた! 早く来て!」


「すごいのって何? どういうこと?」


 百合子は椅子を立ち上がり、急いで台所へ直行すると嫌な予感は的中。


 見た目は美味そうなサラダとサンドイッチが、台所の小さなテーブルに用意されていたのは良い。しかし、シンクの中から床に至るまで、キャベツを切り刻んだ残骸が、そこら中に散らばっていた。


 パラディも前足で、床に転がるキャベツの芯を転がして遊んでいる。


「やだ、ジーン! ウサギ小屋みたいじゃない!」




 空騒ぎの向こうでは、無防備にさらけ出された便箋が、机の上でエアコンの風に揺れている。宛名は妹の夫であり、そしてかつての百合子の初恋である三郎だった。


『私にはもう、多くの時間は残されておりません。不憫だと思って、そちらにある花嫁衣装をしばらくの間、お貸しいただけませんでしょうか。代わりの者を行かせます。最後の我儘を聞いて頂けるのでしたら、お返事を頂けますと幸いです』

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