第32話 針路変更

 ジーンは百合子の問いに、答える術がないのか。それとも、答えるつもりはないのか。シーシャから吸い込んだ煙を上へ逃がそうと、少し顎をあげ、ゆっくりと吐き出した。


 そうしてやっと、柔らかな笑みを携え、百合子に顔を向ける。


「君が心配したり、不安になることは何もないんだけどね」


 いつにもまして真意が掴めない。

 苛立ちと焦りは緊張に変わり、百合子を早口にさせる。


「どうして、私にそこまでしてくれるの? 生涯独り身で処女で……って自分で言って悲しいのだけれど……ともかく! 頑固で怒りっぽくて、たった一度の失恋に引きづられ、立派な大人に成長出来なかった老婆への情け? それとも仏心? どうして?」


「死神に情けも仏心もあるものか。でも、自己分析が出来ているのは感心感心」


 のらりくらりと、話の焦点をぼやかされていることにも腹が立つが、自虐的に述べてみた自己分析を、正解のように評されるのは心外である。


 ジーンが言う不確かな方法で、百合子が長生きが出来たとして、死神であるジーンはどうなってしまうのだろう。そして、何故そうまでするのか、という理由。


 思考の迷宮に迷い込んだ百合子は、身も蓋もない正論をぶつけることしか出来ない。


 百合子は前のめりになると、呼吸も忘れたかのように、一気にまくしたて始めた。


「笑い事じゃないんですけど? 分かっているの? 本来の寿命ならともかく、これは自殺行為よ? あなたが消えてしまったら、きっとご家族やお友達が嘆き悲しむに違いないわ! パラディだってそうよ……彼女か彼かは知らないけど、きっと悲しむのは目に見えてる。動物の鳴き声は切なくて……私、嫌いなのよ――」


 ジーンはどこまでも澄み切った瞳で、百合子を見つめていた。


「君は悲しいの?」


「私? 悲しいに決まっているじゃない! あなたがいない世界で、あなたにもらった命で、これから四十年も一人を繰り返す? それこそ死にたくなるわ! というか質問しているのは、私の方なんですが!」


 百合子を駆り立てるもの、それは一人っきりの暗い部屋に巣食った物悲しさ。そして、ジーンの気持ちの確証を得られない不安。


 思わず振り上げてしまったものの、行き場のない右手の拳を、百合子は力なくストンと膝に置いた。


「馬鹿だなぁ」


 とジーンは微笑んだ。


「馬鹿じゃないわ!」


 と百合子は涙ぐんだ。


 ジーンは静粛を保ったまま、一人だけ風のない海辺に佇んでいるようだ。いつもと変わらない、穏やかな口調だった。


「前を向いて歩いてさえいれば、必ず君は幸せを見つけられる――」


 ジーンは楽しい記憶でも手繰たぐり寄せるように、嬉しそうに、そして懐かしそうに語り続ける。


「受け売りだよ。冥府には、僕が敬愛する神父がいてね。昔、彼が煙草をかしながら、そんなことを言ってたんだ。いつもバーにいるようなダメな大人だけど、僕にとっては最高の先生だったよ」


 ジーンは、一人で愉快そうに笑っている。


 百合子は視線を避けるように、明後日あさっての方向を向いたまま微動だにしない。


「僕が願うことは、君が幸せそうに笑って、僕なんか追い越していくこと。君もきっと――」


 黙って聞いていた百合子だが、今度はジーンの語りに割り込んできた。


 ヤケクソな気持ちではなく、百合子はジーンの真意を図ることを止めることにした。ジーンが「それ」をどう感じるかは彼の自由であり、百合子が関与することではないから。


 迷いが消えた分だけ、頭が冴えわたっている。針路に向け、両手で舵を握る百合子に落ち着きが戻り、なんとも晴れやかな気分に高揚していた。


「私も決めたわ」


 澄ました顔のまま、ジーンを一瞬だけ見遣みやった。いわゆるチラ見である。少し驚いたようなジーンの目を確認し、バレない程度にほくそ笑む。


 ジーンは目を細め不思議そうに、百合子の顔を覗き込む。


「なにを?」


「私の人生は、私がコントロールするの。もう、手放したりしないわ。私の願いを叶えるために、あなたではなく、自分の幸せを願うことに決めたの」


「つまり、どうしたいの?」


 どうしたいのかなど、百合子の心の奥深いところでは、とうに決まっていた。


 それは誰にも言えない秘め事であり、玉砕覚悟で物申すほど、百合子は若くない。相手に返事を求めるほどの自信もなかった。


 難破船同然だった百合子が、今は自身の手の中にしっかりと舵を握っている。目指したい場所に向かって、自分で操縦するとは、なんと爽快なことだろう。


 真っ直ぐにジーンを見据えて、百合子は答える。


「私と結婚してください」


「本気?」


「最後までずっと一緒にいてください。あなたが願いを叶えるには、私の意思を尊重するしかありません」


「それじゃまるで、脅迫してるみたいじゃないか」


「もう、それでいいわ」


 鼻息の荒い百合子に、ジーンは笑いを堪えるようにしているが、どこか嬉しさを隠しきれない。が、もう一度、百合子に尋ねる。


「人生を取り戻せば、もっと素敵な時間が待っているかもしれないよ?」


 百合子は首を横に振った。


「いいえ。私はもう、あなたから素敵な時間をたくさんいただいているの。これ以上ないほどのね」


 言い切った後の気分は、とにかく最高だった。ジーンが、この申し出にどう答えるかは、また別の問題である。


 落ちてきそうなほど大きな月が、二人をじっと見ていた。


 百合子は空を見上げ、思いっきり息を吸い込んでから、ありったけの声で叫んだ。


「お兄様! 私、選びました! この話は、これで終わりです!」


 追従するように、ジーンも百合子の言葉に繋げる。


 ただし、叫んだりはしない。

 あくまで穏やかに、マイペースに。


「だそうです、スペース。アモル兄さんと父様とうさま、それに先生によろしくね。僕たち、結婚することになったから」


 天の声とは思えない、脱力した声が空から響いた。


「うわあぁ、引くわー。そういう大事なことはさぁ、家族に相談してから決めてよねぇ。俺がアモルに、どやされるだろうが」


 空からの罵声は無視して、すでに新しい針路に舵を取った二人には聞こえないも同然だった。


「さて、うちに帰ろうか。今夜のディナーは外に行かない?」


「いいわね。駅前に素敵なお店を見つけたの」


 ジーン、もとい末っ子リアンノンの救済を、アモルに任されていたスペースとしては、二人をこのまま素直に東京に帰したくない。


「おーい、お前らー、お兄様の話を聞けよ。……このバカップル!……しょうがねぇなぁ、ったくよう」


 そして、パチンと空に指が鳴った。

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