第31話 旅人の宴 その2

「冗談だよ。テントの裏にあるから、一人で入っておいで」


 百合子は他に人影はないか、周囲への警戒を怠らない。


「心配性だな。誰も来やしないよ」


「いいえ、この砂丘の向こう側に住んでいるアウローラが言うには、時々、この砂漠には人が迷い込んでくるそうじゃない」


「らしいね。でも大丈夫だから」


 風呂には入りたいが、外はどうしても嫌だと百合子が叫んでいる。


 ジーンはごねる百合子の背中を押しながら、テントの裏へ強引に連れていった。


 テントの後ろには、天井のない小さな部屋が作られていた。


 すぐに百合子は小さく口を開け、右手をそっと胸に添えた。


 オペラピンクと呼ばれる、青みがかった鮮やかなピンク色のカーペットの上には、金色の猫足がついた真っ白なバスタブ。


 バスタブの周囲には、白い布が張り巡らされていた。外側には、二本の松明たいまつが掲げられ、バスタブをほんのりと照らしてた。


 湯船から見上げる夜空も、さぞやロマンチックなことだろう。と、容易に想像できる。


「――いいわ、入るわ」


「では、ごゆっくり」


 ジーンが出て行くのを百合子がじっと見ている中、ジーンは気にする様子もなく、紳士らしく軽く会釈をしてから、バスルームを出て行った。


 パサっと入口の布が音を立てた後、百合子がもらす安堵の吐息が聞こえた。


 外ではジーンが口元に手を当てて、必死に笑いを堪えている。


 警戒心を解いて脱衣し始めた百合子のシルエットが、周囲を囲む白い布地にぽっかりと浮かんでいたことは秘密だ。


 しばらくして、さっぱりとした百合子が戻ってきた。誰にも見られずに、心ゆくまでバスタイムを堪能したのは一目瞭然。


 身につけているのは、ジーンが用意した民族衣装らしい。


 足首まである黒いドレスは、ゆったりとしていて、体のラインが気にならない。目を引くのは、胸元や長袖の袖口、裾に、びっしりと施された金糸銀糸に、赤や水色を交えた繊細で見事な刺繍。


「いいね。砂漠のお姫様だ。さあ、ここに座って」


 ジーンは赤いカーペットの上で、シーシャという水タバコをくゆらせていた。掛け布団を丸めたような長いクッションに肘を掛け、ゆったりと座っている姿は一枚の絵画のようである。


 ジーンのそばへ行くと、水タバコを勧められた。


「試してみる? フレーバーは桃だよ」


 タバコに酒、そういった嗜好品に縁遠い百合子は、首を横に振り、やんわりと断った。


「そう? じゃあ、喉が乾いてるんじゃない? これを飲んでみて」


 ジーンが横にあった美しい細工の銀のお盆を、カーペットの上を滑らすように、そっと百合子の方へ押し出した。


 華奢で優美なスタイルをしているシルバーのポットには、アラビア風に淹れた紅茶が入っていると言う。百合子が目を細め、思わず手を伸ばしたのは、淡いグリーンの磨りガラスのカップだった。


「砂糖は多めがオススメ」


 百合子は言われたとおりに、紅茶の中にスプーン山盛りの砂糖を混ぜながら、ためらいがちに口を開いた。


「ジーン」


 シーシャからポコポコと水の音がする。


 ジーンはタバコの煙で輪っかを作るように、口をポカンと開けたまま、水蒸気のように真っ白な煙をゆっくりと吐き出した。


「ん? なに?」


 百合子は重たく感じる唇を噛み締めた後、まず乾いた喉を潤すことにした。小さなカップの紅茶を一気に飲み干しても、まだ足りず、もう一杯カップに注ぐ。


「そんなに急がず、ゆっくり飲んでいいんだよ」


 駆けつけ三杯とはいかないが、二杯目を飲み干し、肉体的な渇きはこれで解決。あと残すはジーンだけ。


 からになったカップを盆に戻し、ニコリともせずに正面のジーンにすり寄った。


「おお、大胆だね」


 ジーンは両手を広げてみせ、大歓迎の意を態度で示してみせる。


 しかし、百合子はジーンの目の前に片手を突き出し、迷惑そうな顔をした。


「私は真面目な話をしようとしているの。茶化さないで」


 ふざけるのを止めたジーンは、芝居掛かった両腕を下げると、座り直して胡座あぐらをかいた。


「ごめんなさい」


 ジーンは悟りきったような、涼しげな笑みを顔に浮かべている。何か心に引っかかる。そんな微笑みとたたずまいをしていた。


「そうか、聞いたんだね」


「ええ、騒がしいお兄様にね。あなたの力で私は生かされ、そして二人に残っている時間は四十五日、でしょ?」


「そうだよ」


 どうして笑っていられるのか、ジーンに問いただしたいところだが、それはなんとか飲み込んだ。


 本当に知りたいことは、笑顔の理由などではない。


「私、あなたに」


「スペースに何か意地悪なことでも言われた?」


 普段なら聞き上手のジーンが、百合子の話を遮ってくる。漠然とだが、よくないイメージが頭をぎってしまう。


 寿命を分け与える行為は死神の慈悲である、というスペースの話も思い出し、余計に百合子の心は騒めく。


今夜はジーンがおしゃべりであることが、百合子は気になって仕方ない。


「いいよ、無理して答えなくて」


 百合子は目を伏せ、黙りこくってしまった。

 

「そうだ、僕から話をしよう。実はね、君に提案したいと思っていたことがあるんだ」


 提案という言葉に反応した百合子は瞼を開けると、ジーンを不安そうに見た。


「――私に?」


 ジーンは微笑み、百合子に頷いた。そして、これはずっと前からジーンの胸中で、決めていたのかもしれない。


 迷いは一切なかった。


「残りの時間、君に全部あげる」


 それはまるで、最後まで残しておいたケーキの苺をあげる、と言っているくらい穏やかに告げられた。


 聞き間違えではないか、と百合子は眉を寄せる。この申し出から未来を想像しても、悲嘆にくれる自分しか思い浮かばない。


 百合子の沈黙にも構わず、ジーンは淡々と話を進める。


「人である君の一日は、僕ら死神の一年に相当する。これが死神の生命力とするなら」


 ジーンはお盆から銀のポットを持ち上げると、百合子の前に置いた。


「そして、こっちが君たち人間の命の容量としようか」


 今度は百合子が一口で飲み干した、お盆の上にある小さなカップを指差した。


「現世にいる間は、僕も君と同じ時間軸にいるんだけどね。でも」


 ジーンは銀のポットにあった紅茶を、カップに紅茶をゆっくりと注ぎ始めた。


「でも、死神である僕の時間を君が費やすなら、残り四十五日ではなく、君の人生はあと四十年は続くんじゃないか、って思ったんだ」


 カップに入りきれなかった紅茶は、お盆にあふれ出し水たまりができた。


 ジーンはポットをカーペットの上に置くと、お盆の中に紅茶で出来た水鏡を占いでもするように、神妙な顔で覗き込んだ。


「正直に言うと、前例はないから正確な時間は分からないんだ。けどね、試してみる価値はある」


「――それで、あなたは、どうなるの?」


 ジーンの心は乱れもなく、穏やかで澄みきっているのだろう。そういう顔で微笑むから、百合子は堪らず胸が苦しくなってきた。


「君はもう一度、人生をやり直せるんだ。素晴らしいと思わないかい?」


 喜びに満ちたジーンを、百合子は悲しそうに見つめて言う。


「ジーン……私は、あなた自身のことを聞いているのよ」

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