第30話 旅人の宴 その1

 ゆるやかに隆起する砂丘の中腹で、百合子は足を止めた。


 砂丘の頂上が見えた時、ふと思ったのだ。今の自分はどんな姿をしているのだろう、と。


 予想は出来るが、乾いた唇を指でなぞってみる。


――カサカサだわ。


 ついでに、頭を撫でてみる。こちらは、台所にある化繊のスポンジのようだった。


 ウルサの話が本当であれば、砂丘の向こう側に、ジーンが百合子を待っているはずだ。再会を果たすには、あまりに崩れすぎている。


 砂に足元をすくわれないように、ゆっくりと振り返り、視線を落とした。


 アウローラは百合子の憂いなど関係なく、砂の中に頭を突っ込んで、懸命に穴を掘っている。彼にしてみれば、新しい玄関を作る方が重要度が高いのだ。


 斜面の半分を過ぎた百合子の立つ場所からでは、モフモフっとした尻と尻尾しか見ることは出来ないが、愛らしい光景に口元がほころんだ。


 少しばかりの英気をもらい、百合子は顎を上げた。


「この向こうに、あなたはいるのよね……」


 そう思ったところで、百合子の足は一向に動こうとしない。


 成熟しきった大人が新しい一歩を踏み出す時、自分が納得できる確かな理由を、無駄に探そうとすることがある。


 どんなに素晴らしいアドバイスをもらっても、結局は自分がその気になるまで、貪欲に理由や保証を欲しがるのだ。


――緊張する必要ある? ないわよね? もし会えたら……ただ、一緒に……家に帰るの。それだけのこと。


 不安と歓喜が混ぜこぜにしながら、重い足取りで歩き始めた。考えがまとまらぬうちに、頂きに到達した直後のことだった。


 ふいに、足元から砂混じりの突風が襲ってきた。


 両目に砂が舞い込んできて、ほんの少し痛みが走る。百合子は両手で顔を覆い、まぶたをぎゅっと閉じた。


――痛い! もうこんなの嫌! お風呂に入りたい!


 役目を終えた突風は、あっという間に夜空へ吸い込まれるように、上へ上へと逃げていった。


 全身に砂を浴びた百合子の顔は、不快感を全力で表している。目をしょぼしょぼさせ、体の砂を払い落としていると、後から遅れて吹いてきた風が足元で舞い上がった。


 素足の間に迷い込んできた、破廉恥な風である。


 妙な開放感に顔を赤らめながら、ふんわりと浮き上がるスカートの裾を必死に抑えた。


 百合子は、小さな砂嵐に目も開けられず、今にも泣きそうな声を上げた。


 風がおさまると、口の中がザラつくほど、砂をかぶっているのが分かった。


 髪や顔の砂を払っているところへ、頑張ったご褒美なのか、今度は、待ちに待った春風が吹いてきた。


「お迎えに来ましたよ」


 その懐かしい声に、百合子は両目をぱっちりと開いた。


 視線の先には、探し求めていた人懐っこいジーンの笑顔がある。


「疲れたんじゃない? 待っている間に、色々と用意しておいたよ」


 ジーンは見慣れた部屋着のスウェットではなく、白く長いローブのような服を着て、斜面から百合子を見上げていた。


 普段と違うエキゾチックな出で立ちは、百合子が見惚みとれるのに十分な優美さと色気が同居しているものだから、声が出ない。


「これはね、誇り高き砂漠の民、ベドウィンを気取ってみたんだ。どうかな?」


 ジーンは呆気にとられる百合子の手をそっと取り上げ、斜面をゆっくりとエスコートして砂丘を下り始めた。


 待望の再会のはずなのに、百合子はけわしい目で、ジーンをにらんだ。


 ジーンは、ただ微笑んでいるだけで、百合子の眼力程度では、何の威力も発揮しなかったようだ。


「積もる話は、あのテントで聞こうか。ほら、見て」


 ジーンが指差した先に広がる風景は、おとぎの世界そのものだった。


「まあ……アラビアンナイトじゃない」


 にらんでみたり、うっとりしたり、女は本当に忙しい。


 起伏の少ない平地には、豪勢な布地で作られたテントと、刺繍が美しいカーペットが砂地の上に敷かれている。


 真紅の分厚いカーペットは毛並みが長めで、いかにも心地よさげだ。蝋燭の火が灯る小さなランプや、ターコイズブルーにオレンジ、そしてゴールドの艶やかな色のクッションも見事である。


 周囲に置かれた背の高い松明たいまつの灯りは、夜の世界をより幻想的に演出していた。


 旅の終点で、こんなご褒美が待っているとは夢にも思わなかった。


「どう? 気に入ってくれた?」


「ええ……なんて……なんて素敵なの……本当に、すごく素敵だわ」


 目の前の景色に、すっかり心を奪われている百合子に、ジーンはクスっと思い出し笑いした。


「素敵って言い過ぎ」


 砂丘の斜面をゆっくりと滑るように下り終わると、宴の席は二人を静かに待っていた。


 松明たいまつの灯りを頬に受け、眩しそうに宴席を見渡す百合子。


 少しの間、その横顔を見つめていたジーンは、何も言わずに百合子の髪に手を伸ばした。


 髪越しの感触に心臓が跳ね上がり、百合子は真顔をジーンに向けた。雰囲気に飲まれたのか、いつもの三倍増しに体温が上がっていく。


「お風呂もあるんだよ。とてもロマンチックで、とても素敵なヤツがね」


「本当に?」


 願ったり叶ったりである。今の百合子にとっては、極上のもてなしだろう。


 ジーンはゆっくりと瞬きし、そうだ、と答えた。


 そして、百合子に手を差し出し、


「一緒に入る?」 


 と、微笑んだ。


 このような聖人君主の笑みで聞かれたら、思わず頷いてしまいそうになる。百合子は我に返って、首を横に激しく振った。

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