第3章 エコール

第21話 時空の狭間 その1

 スペースは組んでいた腕をほどくと、ソファから悠々と立ち上がった。


「つーことで、行きますか?」


 差し出されたスペースの手の所作は、しつけが行き届いているのだろう。どこかへ連れ去られようとしているのに、百合子には、それがとても優雅で美しく見えた。


 それはそれとして、百合子はスペースの手を拒否するように、両手を胸の前で交差させ、ソファに背中をぐっと押し付けた。


「あらら、嫌われてるなあ、俺。これでも結構、紳士な方だと思うんだがなあ」


 スペースはあっさりと手を引っ込め、肩をすくめてみせる。ジーンが綺麗な顔で睨み、無言で示す強い拒絶も、スペースは全く気にしない。


「心配ご無用だってば。ちょいとばかし、お嬢さんをお借りするだけだから。二人っきりで話がしたいのよね」


「許可できません」


 スペースは腰に両手を当てて、わざとらいく大きな溜息を吐いた。


「あのね? 戻す、って言ってるだろ?」


 パラディを使って、百合子を亡き者にしようとした前科がある兄の言うことなど、誰が信じられるだろう。不信感でいっぱいのジーンと、余裕すら感じるスペースの呑気さが対照的だ。


 美しい死神の兄弟に挟まれながら、突然、百合子がスクッと立ち上がり、ジーンに向き合うと、柔らかな眼差しを向けた。


「私、行ってくるわ」


「君の聡明さは、実に麗しい」


 背後からスペースの声が聞こえたかと思うや否や、百合子は振り向く間もなく、スペースに腰を抱き寄せられた。


 百合子はスペースに抱きかかえられたまま、恐る恐る自分の足元を覗いてみる。


 床から頭一つ分ほど、体ごと浮いているではないか。驚いて顔を上げると、飛び込んでくるようにジーンが腕を伸ばしているのが見えた。


 咄嗟とっさに、百合子も指先を伸ばしたが、互いの指先は僅かに届かなかった。


「んじゃ、行きますか。行ってきまーす」


 と、間延びしたスペースの呑気な声が上がったと同時に、パチン、と甲高い音が響いた。


 スペースが指を鳴らした瞬間、慌てふためいたジーンの顔を最後に、残像も残さず百合子の視界からジーンが消えた。


 正確には、百合子が消えた。


「え?」

 

「いらっしゃい! 趣味全開で申し訳ないんだけど、相談、と言えば、ここっしょ」


 得意げなスペースの言葉に、百合子はぐるりと周囲を見渡した。


 そこは別世界であり、見覚えある懐かしい情景だった。


 西日が差し込む窓際には無機質な机があり、スペースは医師のような白衣を着ている。天使のように邪気のない笑みを浮かべ、安っぽい回転椅子に足を組んで座っていた。


「古今東西、相談と言えばさ、夕方の保健室と相場は決まっている。シチュエーションは大切かなあ、と思ってね。どう、これ?」


「なんと言っていいのか……」


 スペースが対話の場に用意したのは、学校の保健室だった。


 百合子は怪訝な表情のまま、背もたれのない丸椅子に座るように言われ、スペースがにんまりと見守る中、ゆっくりと腰をおろした。


 頬を照らす夕暮れ時の学校。それは、遠い過去の煌めき。百合子の中に残っていた、セピア色のモラトリアムの時間に触れた気がした。

 

 思い出と違い、実際に目に映る光景は、より深く記憶にもぐりこんできた。錆び付いていたはずの記憶が、昨日のことのように鮮明に浮かび上がってくる。


 回顧録を頭から引き出していると、傍からクスクスと笑い声が聞こえて、百合子はハッと我に帰った。


「でね?」


「は、はい……」


「今日はさ、君に相談したいことがあるんだ。なんとなーくは、このまま幸せが続く、とは君も思っていないだろう?」


 百合子は目を伏せ、小さく頷いた。


 ジーンが話していた、いつか来る日のことだ。二人で暮らせる時間には限りがある。ジーンは最初に、そう言っていた。


 ノスタルジックな思い出は、一瞬で消えてしまった。


「あいつのこと、好き?」


 百合子は小首をかしげ、ぽつりぽつりと答えた。


「嫌いでは……ありません」


「あ、なに? その煮え切らない返事。あいつは君に熱烈なラブコールを送っているように思えるんだけど。君も同じ気持ちじゃないの? 俺の勘違いなのかなあ」


「急にそんなことを聞かれても……分かりません」


「じゃあ、なんで君はあいつと一緒に暮らしているの?」


「彼の真意は図りかねますが、気まぐれかも……しれませんね」


 また、心にもないことを口にしてしまった、と百合子は天邪鬼な自分の回答に、心底うんざりした。


「俺はさ、君のことを聞いているんだけどね?」


「お兄様に関係のない話では? 私、もう帰ってもよろしいでしょうか」


 スペースは机の上にあったボールペンを拾うと、起用に指先で回しながら言った。


「それは戦略的撤退ですかぁ?」


 嘲笑うようなスペースの視線が、百合子にまとわりついてくる。


「俺にとっては、大事な家族の一人なわけよ。このまま見過ごすことはできない、って気持ち。理解してくれるよね?」


 百合子は少し間を置いてから、スペースに挑むように見つめた。


「……私に、どうしろと?」

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