第22話 時空の狭間 その2

 誰もいない校舎と分かっていても、不自然に感じる静けさ。

 夕陽に赤く染まる保健室に、死神と二人。


 百合子は、捉えどころのない奇妙な違和感を感じながら、にやけた白衣の教師を見据えていた。


 スペースもボールペンを回しながら、百合子の一挙一動を見ている。


「ごちゃごちゃ説明するのは、しょうに合わないからさ。ざっくりと話そうかね」


「私も、その方がありがたいです。枕は不要です」


 ニヤついた三白眼の男に乗せられないよう、百合子は一言一句を聞き逃すまい、と耳を立てた。


 スペースは椅子の背もたれを気まぐれに揺らしながら、キコキコと音を鳴らしている。


 わずかな空白の後、スペースは椅子を揺らすのをピタリと止めた。そして、両手を膝の辺りで組み、前かがみになって、百合子の顔をそっと覗き込んだ。


「いい? 君たちに残された、地上での時間は約四十五日」


 何を意味するかというと、二人が共に、この夏を迎えることなど夢物語だった、ということだ。


 百合子は両目を見開き、膝の上で重ねていた手でスカートをぎゅっと握った。


「あいつはね、君を生かすために、死神だけが持つ『フランマ』という権利を行使したんだ。俺たち死神は、自分の生を他者に移行できるのだよ。まあ、いわゆる慈悲ってやつでね」


「慈悲……ですか」


 思いがけない単語に、百合子は眉をひそめた。


「そう、慈悲。でもさあ、まさか全て渡すなんてことは、あり得ないのよ」


 神と言えども、死神にも寿命がある。その代わりというのも可笑しな話だが、死神だけが持つ媚薬を飲ませた相手にのみ、自分の生命を分け与えることができるらしい。


 ジーンはアモルやスペースとは異母兄弟であり、人間の母を持つ彼は兄弟と比べて短命とされていた。その上、百合子を若返らせ、生かすために、ジーンは自らの命を惜しみなく使っていることになる。


「ふうん、あんまり驚かないんだね」

 

 床に視線を落としたまま、身じろぎしない百合子の反応を、スペースは面白そうに見ていた。


 抑揚のない小さな声で、ボソッと百合子は言った。


「驚いていますとも」


 とどのつまり、百合子に早く死んでくれ、というスペースのメッセージを、百合子はちゃんと受け取っているようだった。


 命を分け与えるなど、人の身で理解出来る範疇ではない。おぼろげに感じていたジーンのはかりごとに触れたようで、百合子は己の無力さに愕然としていた。


「私が身を引けば、彼は現世に留まる必要もなく、余命が長くなる。そういうことですね……」


 スペースは、苦しそうに瞑目する百合子を指差しながら声を張った。


「そうそう! そうなのよー」


 先ほどまでの凜とした表情が、百合子の顔から消え去った。麗しい乙女の顔の裏側にある老齢さが、どうしようもなくにじんでくる。


「ん? もしかして、悩んでる?」


 百合子は、ゆっくりと顔を上げて、にっこりと微笑むスペースを恨めしそうに睨んだ。


「君は育ちがいいんだろうな。家紋に恥じない生き方を心得ている。その矜持きょうじは高く、礼儀もわきまえている。頭もいい。それに、なかなかの美人ときた」


 慰めにも似たスペースの言葉は、落ち込んだ自分への甘言。そう感じた。百合子は無表情を顔に貼り付け、ぷいっとソッポを向いた。


「買いかぶりです」


 スペースは再び椅子を無作法に鳴らしながら、両手を頭の後ろで組んだ。


「なのにさー、どーして、ここまでこじれちゃったんだろうね。不思議じゃない? その気になれば、それ相応の男の一人や二人、捕まえるなんぞ雑作ぞうさもなかったでしょ。まあ、すきがないってぇのも、原因の一つかもしれんけどね」


 胸をチクチク刺してくるから、褒め言葉ではないだろう。でも、自分の評価が案外高いことに驚き、百合子は心の中で密かに微笑していた。


 一方で、スペースが勝手な論評をしたことは、百合子の癇に障ったようだ。


「初対面のあなたに言われなくとも、そんなことは百も承知です」


「あー、自虐はよくないなあ。自分はダメだと言い聞かせてりゃ、失敗も苦労もないし、傷つかずに済んで楽だろうけどさ。舞台に上がんなきゃ、折角の才能も美貌もスポットは当たらないよ?」


 最後にトドメを刺すように、百合子は顔を指差された。


「そう怖い顔をしなさんな」


 指を指されるのも、値踏みされるのも、大きなお世話である、と内心、百合子は憤慨していた。加えて、その身で覚えた幸福感を容赦無く侵食してくる罪悪感に、顔が歪んでくるのを止められなかった。


「あいつのこと好き? 愛してる?」


 そして、スペースは百合子の深層に、ずかずかと入ってくる。


「またそれですか」


「そーよー、ここね、すっごく重要なのよ」


「考える必要、あるのですか?」


「あるともさ。分からなければ大いに悩めよ。答えは、なるはや希望だけど」


 言われずとも、百合子は悩んでいた。

 そして、後悔し始めていた。


 一呼吸一呼吸するたびに、ジーンの命が削られていることを知った今、一刻でも早く、スペースに身柄を渡してしまうべきだろう、と百合子は考えた。


 同時に、それを拒否する自分もいた。仮初めのせいだとしても、叶うことならば、残り少ない日々をこのまま二人で過ごしたい、と思わずにいられないのだ。


 黙りこくった百合子に、スペースが声を掛ける。


「自分の気持ちを知ること。それが分かれば、おのずと答えが見つかるはずだよ。でさ、どうするか決まったら俺に教えて。なるはやで」


 やんわりとだが、スペースは百合子に自分で決めろ、と言っている。困った顔を百合子が向けるも、要件が済んだスペースには関係のないことだ。


「じゃあさ、俺は忙しい男だから、もう行くよ」


 スペースは椅子から立ち上がり、着ていた白衣のボタンを外し始めた。


「ああ、そうそう」


 思い出したように、スペースが百合子に振り返った。


「答えが出るまで、この空間から出られないから」


 それを聞いて、百合子はスペースを引き止めようと、手を伸ばし、丸椅子から腰を上げようとした。


「ねえ、ちょっと待って!」


 スペースは瞳にかかる黒髪を搔きあげると、立ち上がろうとした百合子の肩に手を置き、ぽんぽんと二度叩いて、百合子を座らせた。


 なんとも爽やかな笑顔を見せながら、尋ねてもいないことを百合子にき始めた。


「いいかい? この後、君は校舎を出て、校門を目指しなさい。学校のすぐ目の前にあるカフェに行くんだよ」


「一人で?」


「もちろん。超お勧めカフェだから」


 そう言って、スペースはピースサインを額に軽く当てると、「アデュー」と百合子にウインクし、戸惑う百合子を保健室に残したまま、あっさりと姿を消してしまった。

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