第18話 ユーフォリア
家族と花見に来ていた子供に売店の場所を教わり、水を一本と、温かいお茶を二本、無事に購入することができた。
枝垂れ桜の前に座るジーンの姿が視界に入った時、百合子は身体中の力が抜けていくように感じた。
手を振ってみると、ジーンも大きく手を振ってくれた。
あともう少し、というところで、気が緩んだのか。百合子は足元の段差に蹴つまずいたついでに、バランスを崩し「きゃっ」と叫ぶ間もなく、芝の上にすっ転んだ。
地面に打ちつけた膝の痛みに「くっ」と声がもれる。
顔を上げると、ジーンが慌てて駆け寄ってくるのが見えた。百合子は膝の痛みを
スカートに付いた土や葉っぱを払い落としながら、近づいてきたジーンに静かに微笑んでみせる。
「怪我してない?」
「大袈裟ね」
「はいはい。それで、飲み物は買えたの?」
「もちろんよ。ほら」
百合子の声は明るく弾んでいたが、ジーンに突き出したビニール袋は、水滴にひっついた芝や土で少々汚れている。
「中は無事だから……さあ、お昼にしましょう」
花見とは桜を愛でながら、弁当を食べて飲んで、おしゃべりして、ただそれだけのことなのに、ことのほか楽しいのは何故だろう。
そんなふわふわした嬉しさに、顔が緩るんでしまう。
期待どうりに、ジーンは弁当の蓋を開けるたびに感嘆の声を上げてくれた。
遠くに見える家族連れから聞こえてくる子供達の笑い声、枝に留まっている鳥たちのさえずり。
舞い散る桜の花びらも、頬を撫でる風も、全てが心地よい。
世界はなんと素晴らしいのだろう、と百合子は思わずにいられなかった。心も体もゆるりと解放されていく。
「百合子」
名を呼ばれても黙っていると、今度は頬を優しくつつかれた。
「止めてよ……子供っぽいことは」
少しだけ抵抗する素振りに意味はなく、ジーンの手は百合子の頬から首筋へと滑るように移動した。
鼓動が早くなるよりも早く、本能的に百合子は瞼を閉じた。
そして、とても自然に、ごく当たり前のように、二人はキスをした。
「逃げなかったね」
とジーンが笑った。
唇は脳を刺激する多くの神経が通う場所である。加えて、至近距離で吸い込む匂いは、本能的に相手を求める者か、そうでない者かを選別するとも言われている。
百合子は眉をぎゅっと寄せ、目を潤ませた。
肩で小さく息をしながら、ジーンを真剣に見つめながら聞く。
「ジーン……こういうのって」
「うん」
「この気持ち……どう表現したらいいの?」
「幸せ、とか?」
百合子はジーンの言葉にしっくりこないのか、しかめっ面で首を横に振りながら答える。
「いいえ……少し違うわ」
即答されたジーンは苦笑するしかない。
「違うんだ」
降ってくる花びらを目で追いながら、百合子は考えていた。この気持ちに名前はあるのだろうか、と。
「それでは足りないの。もっとこう……何て言えばいいのかしら。体も頭も、このモヤモヤに支配されるような」
見知らぬ感覚に当てはまる言葉を思い巡らしてみるが、適切な形容詞も何も浮かんでこない。
ジーンは百合子の悶絶する横顔を、愉快そうに眺めていた。
彼女は、いたって真剣である。
「落ち着かないわ。どうしちゃったのかしら、私?」
「嫌だった?」
百合子は無言で、首を小さく横に振った。
ジーンは口元に笑みを浮かべ、百合子の頬に手を伸ばす。
「もう一度、してみようか」
近づくジーンの顔に、百合子は反射的に目を閉じる。
再び、その瞬間を待つ。
しかし、来ない。
来るはずのものが、来ない。
「…………?」
その短い空白が永遠のように思えた時、片目をそっと開けてみる。すると、ジーンが含み笑いをして、百合子を見ていた。
魔法が解けたように、百合子は何度かまばたきすると、その気恥ずかしさに顔を上気させた。
「ごめんね。意地悪するつもりはなかったんだけど」
ジーンは申し訳なさそうに謝っているくせに、ちょっと笑っているのが分かる。
まさかのキス待ち顔をじっと見られていたとは、不覚の致すところ。百合子が、涙目で声を荒げてしまうのも仕方ない。
「失礼ね! 私が馬鹿みたいじゃない!」
「ホントにごめん、悪気はなかったんだよ?」
「乙女の純情を高みから見下ろすなんて! 地獄に落ちるわよ! いえ、落ちてしまえ!」
ビンタの一発でもお見舞いしてやろうと、百合子は手を大きく振り上げた。
その右手はそのままジーンに捕らえられ、反対側から背中を抱きしめられた。
目を閉じる間もなかった。
不意打ちを食らうように、唇が重なる。
体を引き離そうと、ジーンのコートの袖を握りしめる百合子。プライドをかけて抵抗するも、強く背中に回ったジーンの腕から逃れられない。
抗うのを止めた途端、瞼がゆっくりと閉じる。
春風が吹き上げ、二人の髪を持ち上げたかと思うと、風は空に抜けていった。
うっとりと百合子が瞼を開き、ゆっくりとジーンの腕を押し戻すと、上目遣いにジーンを見て呟いた。
「まあ……」
「どう、何か分かった?」
百合子は、震える指先で下唇を抑えた。夢を見るように視線は揺れ、恍惚とした声も震えていた。
「あぁ、これは……多幸感、だわ」
「たこうかん?」
「幸せが、こう……身体中で溢れているような、そんな感覚。白雪姫が王子のキスで目が覚めた時も、きっとこんな感じだったんじゃないかしら」
「まったく君って、可愛いこと言うんだね」
ジーンは立ち上がると、ペタンと座ったままの百合子に手を伸ばした。
「少し散歩して帰ろうか?」
頬を赤らめたままジーンの手を取り、百合子はゆっくりと立ち上がる。
帰り支度をしようと百合子が荷物に手を伸ばした時、シートの上にあったハンカチが風にふわりと舞った。
「取ってくるわ」
「転ばないようにね」
ハンカチは悪戯に風に舞い、シートから少し離れた芝の上に落ちた。
急いで百合子が駆け寄ると、ハンカチは再び宙に浮かび上がり、少しずつ元いた場所から遠ざかっていく。
追いかける百合子の背中に微笑し、ジーンはゆっくりと桜の木を見上げた。
「のぞき見とは、趣味が悪いですよ」
枝垂れ桜の細い枝に腰掛けたカヤノツチが、ジーンを見下ろしている。
「妙な小技を使いおって」
「ご挨拶しておこうと思いましてね。もうお会いすることはないと思いますが、お元気で」
「いらん世話じゃ」
ジーンは精霊にウインクを投げると「では」と言って微笑んだ。
カヤノツチは軽薄なジーンの挨拶にしかめっ面をして、桜の木を大きく揺らす疾風と一緒に姿を消した。
「さてと」
あれほど逃げ回っていたハンカチが、急に命が尽きたかのように芝の上に落ちた。百合子は「なんなのよ」と文句を言いながら、そっとハンカチを拾い上げた。
これは、ある春の午後の出来事。
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