第19話 いつか来る日

 百合子がファッション誌のページをめくる音と、振り子時計のカチコチと規則正しく時を刻む音だけが聞こえていた。


 ジーンはクッションを抱きしめたまま、瞑想するように目を閉じて、ソファの上で胡座をかいていた。


 隣で百合子は、買ってきた雑誌を読みふけっている。表参道の一件から、出かける時の服装を気にしているらしい。


 ジーンからすれば、百合子の作るドレスは十分すぎるほどの出来栄えであり、わざわざ自分のスタイルを崩してまで、他人と融合する必要性を感じない、と言い切る。


 なんなら、自分も現世に来た時の死神装束、つまり白い燕尾服で一緒に歩いてもいい、と言い出したが、百合子は苦慮するまでもなく即座に却下。


 百合子がファッション誌に夢中になったのは、なにも流行を知ることだけが目的ではなかった。


 自分には無縁だと断定し、若い頃からおざなりしてきた娘らしさを取り戻そうとするように、誌面に描かれる、きらきらしたもの、可愛いもの、美しいもの全てに目を奪われていたからだ。


 そんな穏やかな静寂を破り、ジーンは雑誌に釘付けとなっている百合子に声を掛けた。


「百合子」


「なあに?」


 誌面に目を落としたまま、気の無い返事をする百合子。


 ちょうどその時、『一週間着まわしコーデ』というOLの様々なシチュエーションに合わせ、定番アイテムを活用した着こなしを紹介するページを、真剣に見ているところだった。


「若いお嬢さんは、毎日、大変ねぇ」


 百合子がそう呟くと、ジーンがポツリと言った。


「この家なんだけど」


 雑誌のページを見ながら、百合子は「ええ」と空返事すると、ジーンが笑いを含んで続けた。


「誰も来ないね。電話もかかってこないし」


 百合子はカッと目を見開き、顔を上げると、ニヤっと笑うジーンを横目で見た。


「そう? 気づかなかったわ……」


 手に入れられなかったものへの執着が孤独を呼び、堪え難い寂しさとわびしさにさいなまれたのは遠い昔のお話。


 仙人のような境地で、晩年を迎えている百合子にしてみれば、誰も来ないことに疑問を持ったことはなかった。


「君は、今も寂しいって感じること、ある?」


 ジーンの問いは、答えるのが難しい。


 とうの昔に忘却した『寂しい』という感傷的な感情は、捨てることはなくとも、胸中の奥深くに沈めておいた。


 心に張った水面を決して揺らさないように、他者と距離をとりながら、雑音を耳にいれずに九十歳まで過ごした。


 最後の最後に水面に一石を投じ、水底でびついていたセンチメンタルで柔らかいものを、図らずも浮上させたのは、隣に座って微笑している死神だった。


 百合子は眺めていた雑誌を、膝の上にパサっと置いた。


 『寂しい』という言葉が、頭の中でこだましている。


「いいえ……寂しくないわ。寂しい、というのは、誰かや何かを期待している人が感じるものじゃないの?」


「つまり、求める対象や望んだ結果が得られない、もしくは失った時に、人は孤独になり、寂しさを感じるわけだ」


 禅問答のようなやりとりに、百合子は真意が読めず、曖昧に返事する。


「そう……ね」


 歯切れの悪い答えを気にする様子もなく、ジーンは持っていたクッションを脇に追いやり、百合子に近づき言った。


「孤独になることは悪いことじゃない。寂しい、という感覚も大切だ。でも、君には寂しいと感じて欲しくない、と思う僕がいる」


 至近距離にいるジーンを遠ざけようと、百合子は体をらせた。


「難しいことは分からないけど……何が、言いたいのかしら?」


 ジーンは一拍置いてから、柔らかに笑む。


「僕が消えたら、君は寂しいと感じるだろうか? それとも自由になるんだろうか?」


 考えたことがないわけではない。


 期間限定の暮らしであることは承知しているが、それがいつ、どのような形で終わるのか、百合子は何も聞かされていない。


 これまで失うものを何も持たずに生きてきた彼女が、ある意味、初めて手に入れたもの。それがジーンとのなんでもない日常であり、誰かと分かち合う時間という幸せ。


 求めても得られずに孤独にさいなまれた経験はあっても、手にしていた大事なものを失った後にやってくる、また別の責め苦を味わったことはない。


 一人この世に残されたとしたら、かつてないほどの喪失感を伴う孤独が襲ってくることは、想像に難くない。


「そんなこと……馬鹿らしい」


 百合子は苦々しい顔で、一蹴いっしゅうした。


「私……たとえ話は、好きじゃないの」


 怪訝な顔の百合子とは反対に、ジーンは静かに微笑んでいる。


「いつか、来る日のことだよ」


 自分には内緒で、ジーンが何か良からぬはかりごとをしているように思えて、百合子は小さな声で「気に入らない」と呟いた。


 肩をすくめてみせるジーンに、百合子は人差し指を突き出した。


「それより、私……気になっていることがあるのだけど」


「いいね、質問。受け付けますよ。なんでも聞いて」


「あなた、死神のお仕事をしなくて大丈夫なの?」


 思わぬ質問に、ジーンはカラカラと笑い声を上げた。


 銀色の前髪を指先で跳ねると「大丈夫。僕はいわゆるボンボンだから」と百合子にウインクを投げてきた。


 死神とは思えない、その世俗にまみれた言い方に、百合子は眉をひそめる。


「良家の子息なら尚更だわ」


 その時、鳴らないはずのチャイムが、二人の耳に突き刺さる。まるで、借金の取り立てのような、すさまじい連打による猛攻だった。

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