第16話 桜の樹の下で その1
死神兄弟と入れ違いに、百合子が帰宅した。
台所に食材を持ち込んでから二時間が経過。よく陽が入る小さな窓がついた六畳ほどの台所では、百合子が2ドアの白い冷蔵庫を開けたり閉じたりしていた。
料理というものは、或る日突然、魔法のように出来るものではなく、日々の生活の中で勝ち取っていく技術である。
自分の食事は外食中心、かと言って、誰かのために作ることもなければ、作る必要もないまま、膨大な時間だけが過ぎてゆき、今に至った結果が現状を招いている。
最後に花見に行ったのは、恐らく戦前まで戻るだろう。
あまりに遠すぎる記憶である。
花見とは何を食べ、どんなだったかを思い出せと言われても、百合子はおぼろげにしか思い出せない。
ただ、小春日和の空の下で、誰かと共に食事する風景を心に描くだけで、胸がいっぱいになった。
弁当の蓋を開けた時、ジーンが驚く顔を見たい、百合子はそう思って励んでいるのだ。
こっそり様子を覗きに行ったジーンは、百合子から台所の出入り禁止を言い渡されていた。
仕方なく、ソファの上で仰向けに寝転んでいる、というわけだ。床に伏せっているパラディの眉間から鼻にかけてを、ゆっくりと指先で撫でながら、優雅に待機中である。
奮闘しているであろう女の後ろ姿を思い浮かべ、ジーンはクスっと笑った。
「頑張っているよね」
パラディは鼻先を撫でられ、それは嬉しそうに目を細め、顔をジーンの垂れ下がった手にこすりつけた。
ジーンは灰色の毛皮を撫でながら「一緒に来てもいいよ。姿を見せては駄目だけど」と呟いた。
同行のお許しに、パラディは歓喜したのか、鼻息荒くジーンの腹に大きな前足を乗っけてきた。
「お、重いよ」
じゃれ合っている間に、百合子が白いエプロンを取りながら、居間に姿を現した。
ジーンは起き上がると、パラディの頭をぽんぽんと叩きながら、
「おまえは留守番」
「あら、犬なら一緒でも大丈夫でしょ。犬なら、ね」
含みある百合子の言い方に、ジーンは苦笑い。
「子供たちが怖がるかもしれないだろ?」
「あなた、たまに人間臭いこと言うわよね」
と百合子は笑い、続けて言う。
「利口な子ですもの。私は平気だと思うけど。まあ、ジーンがそう言うなら」
百合子は行儀よく座っているパラディの頭をひと撫ですると、寝室に入り、クローゼットから黒いコートを取ってきた。
忘れ物はないか確認した後、百合子は大きな包みを抱えて部屋を出る。
その後ろでジーンはパラディに微笑み「さっきの約束、いいね?」とウインクして玄関へ向かった。
靴を履いて準備万端。
あとは、ジーンが出てくるのを玄関で待つだけ。
百合子は、この日のために、春らしい装いを選んだ。
髪をアップにして、きゅっと小さくお団子でまとめ、華奢な体にぴったりとした、アイボリーのタートルネックのセーター。白っぽいベージュの生地に草花が描かれた、春らしい膝丈スカート。スカートをふくらますペチコートは座りづらいので、今日は無し。そこに、白い靴下と黒のエナメルのペタンコ靴を合わせた。
体の前で重そうに両手で抱えているのは、立派な
タッパーという大衆的な入れ物とは対照的に、風呂敷は鮮やかな金赤の上に白い椿が刺繍された華やかなものだ。
すぐにジーンが、にこやかに現れた。揃えて置かれたスニーカーにつま先を素早く入れると、慣れた手つきで靴紐を結んでいる。
思いがけず、ジーンの手がスッと百合子に差し出された。
「なに?」
「重いでしょ? 持つよ」
百合子は取り澄ました顔をジーンに向けた。
「結構よ。このくらい平気。年寄り扱いはお断りします」
「そうじゃないよ。重いものを持つとね、指の形が悪くなるんだって。いい子だから。さあ、僕に渡して」
百合子は頬を赤らめつつ、不満そうな態度を隠さない。まず風呂敷の結び目を確認してから、「落とさないでよ」と、いかにも不服そうに、ジーンの手に包みを渡した。
「任せておいて。さあ、行こうか」
二人が向かった先は、広大な敷地を誇る世田谷の
柔らかな日差しの下、二人は手を繋ぎ、桃色に染まった並木道を歩く。身も心も春の訪れを感じずにはいられない最高の午後に、顔が綻ぶのを止められない。
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