第6話 冬のなんでもない時間 その2
「どうするつもり? なに? お、下ろしってったら!」
「はいはい。暴れないでよ。危ないから」
半開きになっていた寝室の扉を、ジーンがお行儀悪く片足で少し蹴り出すと、キィと音を立てて開いた。罵倒も何のその、ジーンは部屋の中に入っていくと、百合子の体を大事そうにベッドに下ろした。
ジーンは百合子の肩を指先で、少し強めに押した。すっかり呆けている百合子は、いとも簡単にベッドに倒れこむ。
そのまま、ジーンが上から覆いかぶさってきた。
「どっちがいい? 上? 下?」
いつになく真顔のジーンも怖かったが、怒りよりも何よりも、かつてない貞操の危機を感じる。
「おっしゃっている意味が分かりません……」
困惑の理由を知ってるだろうに、ジーンの息が耳に触れた。
「ごめんね」
と囁いたかと思うと、今度は百合子から離れて居間に行ってしまった。
緊張を緩めながら体を起こすと、すぐにジーンが戻ってきた。手にはハンガーポールの一番上に掛けてあった、ダークグレーのワンピースを持っている。
「はい、どうぞ」
百合子の膝に、ワンピースがふわっと掛けられた。
寝室を出て行こうとしたジーンは、一瞬、足を止めた。顔だけで振り返り、頼んでもいないウインクを投げてくる。
「外で待ってるね」
ジーンは笑みを残して、寝室の扉を静かに閉めた。
否定することも忘れ、しばらくの間、百合子は膝の上にあるワンピースを見ていた。そして、ワンピースをすくい上げると、顔を埋めたまま肩を震わせた。
まるで、大切な亡骸でも抱いているように。
居間では、ジーンがソファの真ん中に胡座をかいて、鼻歌交じりに百合子の登場を心待ちにしていた。
百合子が買い物ついでに買ってきた、女性向けのファッション誌をペラペラとめくっている。もうこれで三冊目だ。
さすがに気になって様子を見に行こうと思ったところへ、寝室の扉が遠慮がちに開いた。百合子は顔だけを覗かせ、居間の様子を伺っている。
ジーンは誌面から顔を上げた。持っていた雑誌を自分の横に置き、ソファを立ち上がった。
「出ておいでよ」
百合子はうんともスンとも言わず、大きく広がったワンピースのスカートを両手で握りしめながら、恥ずかしそうに現れる。
「似合ってるね。サイズもぴったりだ」
肉感的な体型ではないが故に、似合う服というものもある。
華奢な百合子の首を、ゆったりと囲んだ清楚な白い襟。ウエストを絞りあげることで、豊満とはいえないバストも普段より強調されるから、細やかな胸囲がむしろちょうど良い。
ふんわりとしたスカートのボリューム感が細身の体型を上手くカバーし、程よい体のラインを作っている。
「女学校の制服みたいじゃない?」
自信なさげに、スカートを横に広げて見せる。
微笑んではいるが、ジーンは何も言ってくれない。
妙な焦りに追われた百合子は、無意識の内、多弁になった。
「紳士服のスーツの生地を使っているの。生地屋さんに寄ってみたら、セールをしてたし。それに、店主の方に、生地がしっかりしているから裏地もいりませんよ、って言われて……そう……そんな感じかしら」
華やかな装いは、自分には縁遠いものと位置付けていた。あくまで生業の商品として、線引きをしてきた百合子の長い歴史がある。
気恥ずかしさに卒倒しそうになっている百合子の元に、ジーンが近づく。
「行ってみたい場所があるのだけど」
ジーンは百合子の手を引いて、ソファへ誘導した。先ほど見ていた雑誌を拾い上げると、百合子に表紙を見せた。
「特集?」
「そう、僕が知っている表参道とは、ずいぶん変わったみたいだから、行ってみたいな、と思ってね」
百合子は不思議そうに、首をかしげて聞いた。
「あなた、行ったことがあるの?」
ジーンは飄々として答える。
「あるよ。二十年くらい前だったかな? いや、もっと前か?」
「それは……お仕事で?」
百合子は自分でもおかしな聞き方をしていると思ったのか、すぐに口を閉じた。
聞いてみたいことは山ほどある。口に出せないもどかしさが、時に、こういう形で飛び出てしまう自分を軽率だと嫌い、つい自制を利かせてしまう。
「いいや。プライベートだよ」
と、ジーンは空港で取材陣にマイクを向けられた、どこかのセレブのように言った。
「そう」
質問した割に、消極的に話を終わらせてしまう百合子とは反対に、ジーンは臆することなく何でも聞いてくる。
「気になる? 誰と行ったのか、何のために? って気になる?」
息がかかるほど近づいてくるジーンから、百合子は顔を横にそらし、そっけなく言う。
「いいえ、別に」
むくれた女の横顔に、ジーンの唇が囁く。
「聞いてくれれば、何でも答えるんだけどなぁ」
「それはともかく……行くなら早く行きましょう。暗くなると寒さが堪えるもの」
「変なことを気にするんだね」
ジーンは微笑すると、百合子の手を解放した。
「寝室からコートを持っておいでよ」
嫌がったくせに、こうして遠ざかると寂しくなる。
「私、こんなに面倒臭い女だったかしら」
そんな風に感じてしまう自分が、知らないうちにジーンに固執しているように思えて、百合子は小さく溜息を吐いた。
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