第7話 ドレスに着替えたら
つい今しがたまで晴れ渡っていた青い空に、オレンジ色の雲が伸びている。夕闇まであと二、三時間といったところか。
地下鉄の階段を下りると、百合子は乗車券を買うために販売機の前に行き、ジーンは物珍しそうに周囲の行き交う人を眺めていた。
販売機の前で路線図を見上げ、タッチパネルでも触れるように、百合子は宙を指差しながら駅を探している。
「えっと……渋谷の次ね」
表参道までの金額を確かめ、ほくそ笑む。
「老眼鏡がなくても見えることが、こんなに素晴らしいなんて」
黒いエナメルの四角いハンドバッグから、朱の中に色鮮やかな鞠が描かれた
ボタンを探しながら、指先を左右上下と縦横無尽にウロウロと迷わせている辺りは、実年齢を感じてしまう。
「おかしいわね。二人分を一緒に買えるはずなんだけど……」
結局、一人分ずつ、ポチポチとボタンを押して買うことにした。
二枚目の乗車券を機械から受け取り、釣り銭を財布にしまいながら、ジーンの方を振り返った。コートに両手を突っ込んで、百合子を待っている死神に声を掛ける。
「ねえ、ジーン」
「ん?」
「あなたは、そのズボンでいいの?」と尋ねそうになったが、にこやかなジーンを見ると聞けなくなった。
「やっぱり、なんでもないわ」
今あるもので十分とジーンが言うものだから、そのままにしているが、百合子はずっと気になっている。
部屋で着ていた白い半袖のTシャツの上に白っぽいセーターをかぶり、下は薄いグレーのスウェットパンツに白いスニーカー。そして、駅前で買った濃紺のロングコートを羽織っている。
百合子からすれば、ジーンは部屋着にコートを着ているだけ、と見える。そんな寝巻きのような姿で、電車に乗ろうとしているジーンを不憫に感じているのだ。
特にスウェットパンツが気になっているが、すらりとしたジーンが着用すると、それはそれで、そういう気負いしない彼のスタイルなんだ、と思わせるものがある。
むしろジーンのカジュアルなスタイルは、百合子よりも周囲に溶け込んでいるのだが。
――せめてズボンだけでも、縫ってあげればよかったかしら。
かく言う百合子の装いは、なかなかエッジの効いたファッションであることに、本人は気づいていない。
少しほつれも見られる時代遅れの黒いロングコート。五十年代を彷彿させる落下傘スカートのワンピース、肌色のストッキングに、ペタンコの黒いバレーシューズ。
しかもスカートの下には、ご丁寧にスカートをふくらませるためのパニエという、ふわふわのスカートも存在する。
コートに抑えられ、多少はふくらみが軽減されているが、このクラシカルなドレスは場所を取る上に、どうしたって周囲の目を引いた。
ついでに言うならば、出かける前のことだ。
ジーンが百合子の肩まである黒髪を少しすくって、
「アップにしてみれば? きっと似合うよ」
と言うものだから、前髪以外の黒髪をポニーテールにすると、結んだ根元に毛先をくるりと巻きつけシニョンにまとめた。
仕上げに一粒真珠のイヤリング。これは母の形見であり、特別な外出の時にのみ持ち出す装飾品である。
今の時代には恐らくドレッシー過ぎるというか、なんと言っても幅があった。
地下二階にある乗車ホームに行くエスカレーターに乗った時、二人は急ぐ人のために右側を開けて縦に並んでいた。
三人の若い女性が通り過ぎる時、ちらりと二人を見ていった。
正確には、百合子を見ていた。
「私たち、どこか変なのかしら?」
百合子は前にいるジーンの耳元に唇を寄せ、念の為に聞いてみる。
「どこも変じゃないよ」
話しているうちにエスカレーターはホームに着き、先にジーンが降りると、百合子の手をとりながら「ほら、誰も見ていない」と言って笑った。
百合子はエスカレーターから降りると、厳しい監視の目で、駅のホームをさっと見渡してみる。
まばらに電車を待つ人たちの何人かは、確かにチラリと百合子を見たが、執拗に目で追いかけてくることはなかった。
安心した百合子はジーンをリードしながら、率先して進行方向に向かってホームを歩き始めた。
「乗るなら先頭車両だよね」
「あなた、子供みたい」
ホームの端っこに来てみると、電車を待っている人はジーンと百合子だけだった。
「私、自意識過剰なんだわ」
「仕方ないよ。今日の君は素敵だからね」
「またそんな適当なことを。あなたも見られているわよ」
「それはどうかな」
と言って、ジーンはクスッと笑った。
笑った理由を問いただそうと迫っているところへ、ジーンがトンネルから近づいてくる光を指して言った。
「来たよ。楽しいデートになるといいね」
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