第5話 冬のなんでもない時間 その1

 九十歳で天寿を全うするはずだった。


 今や、百合子は二十六歳の姿に再生し、銀髪の死神と同棲中。


 新しい年を迎え、一月も半ばを過ぎたある日の午後のこと。ジーンと昼食を終えた百合子は、相変わらず洋裁に没頭していた。


 窓越しに差し込む冬の陽だまりの中、ジーンは心地よさそうにソファに寝転んでいる。


 背後からジーンの声が聞こえた。


「ドレス、出来たの?」


「いいえ」


 ミシンのペダルを踏む足を止め、淡々と答える百合子。布地を針に引っ掛けないように気をつけながら、ゆっくりと振り返る。


「そんな大袈裟なものじゃないのよ」


「僕にはドレスに見えるけど?」


「これはワンピース」


 部屋の片隅に置かれた木製のハンガーポールには、百合子が縫ったワンピースが二枚、ハンガーに吊るされたまま出番を待っていた。


 ジーンは背もたれのクッションに体重をあずけ、それを見ながら百合子に話しかける。


「三枚目だよね。好きなの? そのデザイン」


「そうよ」


 よいしょっ、と言って、百合子は丸椅子を立ち上がると、ハンガーポールに近寄った。


 首元が白い襟になっているダークグレーの清楚なワンピースを、楽しい思い出に触れるかのように、愛おしそうに撫でた。


「好きよ。国が敗戦してもね、女たちは美しいものへの憧れを失わなかったの。そういう時代のデザインね」


 戦後、クリスチャン・ディオールが発表したニュー・ルックと呼ばれる、世界中の女性を夢中させたスタイルだという。


 ウエストがきゅっと絞られ、膝より少し長いスカートが、ふんわりと裾に向かって広がったロマンチックなデザインだ。


「いつの時代も、女は男よりたくましい」


 百合子はワンピースから手を放し、くるりと向きを変えた。現世で羽を伸ばしている死神に、冷ややかな声で尋ねる。


「馬鹿にしているの?」


「まさか。大変な時でも夢を忘れない。それは素晴らしいことだよ。男は夢見がちなくせに、叶わぬと知ると心がぽっきりと折れて、そのまま夢を捨てかねないからね」


「他人事のように話してるけど、それはあなたのことじゃないの?」


 天井を見上げ、ジーンは言った。


「折れようがないさ。夢を見たことがないんだから」


「隠すことないわ。心が折れた男性も存外、魅力的なものよ」


 百合子らしからぬ意外な返答に、ジーンはプッと吹き出した。


「なんだか百戦錬磨な猛者のようだね」


「お生憎様。私は戦後に一度、大敗を期してからというもの、戦場には出ておりませんので」


「敗戦後に大敗か。それはそれはご愁傷様。さぞや悔しかっただろうね。でも君は今、二度目の戦場に立っているじゃないか」


 ジーンが気取ったウインクを投げてきた。百合子は顔の前で手をひらひらと振り、飛んできたハートマークを追い払う。


「大きなお世話よ。負ける気がしないんだから。私」


「僕は最初から大敗を覚悟しているからさ、その気になったら教えてよ」


「……見方によっては、私が白旗を揚げるってことにならない?」


「なるほど。そうとも言えるかもね」


 百合子の頭のてっぺんから、勢いよく吹き出す蒸気が見えてきそうだ。


「い、意味が分からないわ」


 赤い顔のまま、足早にミシンの丸椅子に戻った。


 十分に楽しんだジーンは体を起こし、ソファに座り直す。


「ねえ」


 ミシンのペダルに足を掛けた百合子が、ちらっとだけ振り返った。


「なに?」


「そんなに怖い顔しないでよ。こっちを向いてください」


 ツンツンしながら、丸椅子をゆっくりと回転させ、ジーンに向き直した。


「素直でよろしい」


「まだ作業が残っているのだけど」


 ジーンはソファの前にあるテーブルから、百合子が淹れた食後のコーヒーを飲もうと、カップを持ち上げて言った。


「それ、出来たらさ」


「ええ……」


「出かけない? お正月っていうの? 結局、ああいうイベントにも参加してないし、折角の現世バカンスを楽しみたいんだよね」


 そう言って、ジーンはにっこりと笑うと、カップから一口、コーヒーを美味しそうに飲んだ。


 二人が出かけた場所と言えば、駅前周辺だけ。


 燕尾服しか持っていないジーンだけの問題ではない。百合子もサイズが変わった。必要最低限の衣類や、普段の食事に使う食材。それにジーンの希望で色違いの歯ブラシ。


 甘い二人暮らしも始まってしまえば、生活というリアルがそこにあり、そのための買い物がしばらく続いた。


 もう一つ言えば、百合子が外出する勇気がなかったことが、外出しなかった一番の理由かもしれない。


「お正月は仕方ないじゃない。私たち……神社の鳥居をくぐれないのでしょう?」


「土地の氏神がいるからね。行けば嫌な顔をされるだろうし、行かない方が得策だ」


「それで、あなたはどこに行きたいの?」


「映画とカフェ、とか?」


 ジーンがカップをソーサーにそっと置くと、うつむいた百合子の顔を覗き込んだ。


「何か問題? もう老眼鏡がなくても、スクリーンの字幕は読めるだろ?」


「出掛けるための服がない、って話です」


 駅前で揃えた衣類は、店員のお任せで部屋着として購入した、比較的ラフなものばかり。


 ジーンはグレーのスウェットパンツに、白い無地のTシャツ。百合子は老婆の時から着ていた黒っぽいワンピースだったり、同じく駅前で買ったトレーナーとスウェット。


「本当は家の中でも、こんなだらしない格好はどうかと思ってるくらいなのよ」


 パンツのゴムになっているウエスト部分を引っ張って、ジーンはさも愉快そうに笑っている。


「僕はこの何にも縛られていない、ゆるーい感じ。好きだけどなぁ」


「ともかく、今のままで人混みの多い都会に出るのはどうかと思うの」


「君はもう持ってるじゃないか」


 先ほどのポールハンガーに掛かった二枚のワンピースを指差した。


 百合子はジーンの指先を見ない。


「あれは……作っただけ。着るわけじゃないから」


 乗ってこない百合子に、仕方なく腕を下ろしたジーンは不思議そうな顔で尋ねる。


「分からないなぁ。じゃあ、誰か他に着る人がいるってこと?」


 ジーンの目を見て、百合子は首を横に振った。


「また、おかしな屁理屈をねていますね、百合子さん?」


 百合子は珍しく自嘲的に笑った。


「私には似合わないもの……昔、憧れてたから、作ってみただけ」


「そういうことはさ、一度袖を通してから言ってみようか」


 百合子は顔の真ん中に目も口も全部ぎゅっと寄せると、「何それ?」と嫌々そうに呟いた。


「着てみなよ。案外、似合うかもしれないよ」


 百合子は首を横に振るばかりで、らちがあかない。ジーンは遂にソファを立ち上がり、丸椅子に座る百合子の前に立ちはだかった。


 見下ろしてくるジーンに、敢えて視線を合わさない。


「何のつもりかしら。私は着ないわよ」


「頑固にも程があるだろ。さあ、立って」


「嫌だと私は言っているでしょ」


 不満を口にした瞬間、体がふわっと持ち上がった。


「ちょ、ちょっと! ジーン! 下ろしてよ!」


「どう? お姫様抱っこされる気分は」


 百合子の体はまるごとジーンの両腕に抱えられ、隣の寝室に向かっていた。

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