第8話 議題『人生リセットボタン』

「うぅー……。難しいわぁ~」


 宮野瑠依は唸っていた。眉間にしわを寄せて、手元のノートとにらめっこする。ほとんど白紙のページに、『今日の議題:人生リセットボタンがあったら。』とだけノロノロと書き込んだ。

 悩みまくっている瑠依をよそに、同級生の守屋聡と化学担当の嵐山透教諭は和やかに談笑している。

 放課後の第二化学室は、今日は初夏の暑さもあり教室中の窓が開けられていた。時折吹き込んでくる風が心地よく肌を撫でてゆく。

 先程、嵐山お手製のあみだクジによって選ばれた議題は、聡が考えたものだ。

『人生リセットボタンがあったら、押すか押さないか』という議題なのだが、瑠依の頭を悩ませているのはどちらかというと補足の方だった。

『──ただし、リセットボタンを押した場合、今までの記憶は引き継げないものとする』問題なのはこの一文だ。

 記憶、というキーワードによってなかなか答えが出せない。

 これは迷うな、と瑠依は長い溜め息を吐いた。

 ディベートを始めるまでの準備として、十分間の猶予があったがもう五分は過ぎている。瑠依にしては珍しい長考であった。

 昨今のRPGでも、二週目には引き継ぎ要素とかあるのに。なんとも厳しい設定の議題である。

 残り三分ほどのところで、瑠依はようやくシャーペンをノートに走らせた。

 瑠依が迷った時、いつだって指針となるのは家族の存在だ。特に、二学年下の弟である悠一の影響は大きい。

 あぁ、そうだ。あの子の為だったら。瑠依の迷いが、潮が引くように静かに薄れてゆく。

 嵐山が時間の経過を告げる前に、瑠依が口を開いた。


「二人ともお待たせ。準備できました」

「大丈夫? 随分悩んでいたみたいだけれど……」


 聡が心配そうに訊いてきたが「大丈夫よ」と微笑みを添えて返した。

 対面形式に並べて置いた机と椅子にそれぞれ着席すると、嵐山が口上を述べる。


「じゃ、本日の議題は『人生リセットボタンがあったら、押すか押さないか』。えー、追加設定で『ただし、リセットボタンを押した場合、今までの記憶は引き継げないものとする』。では、以下省略でスタート」

「「よろしくお願いします」」


 聡と瑠依は着席したまま軽くおじぎをした。そして、二人揃ってほぼ同時に挙手する。

 先刻まであれほど悩んでいた瑠依が、迷わず挙手したことに聡は少なからず驚いた。意外だった。

 一方、瑠依はもう悩んでいる様子はない。


「守屋くん。よければ先に発言をどうぞ?」


 と手のひらを出して、発言権を譲ってきた。

 聡は動揺からぎこちなく頷き、手元のノートに一度目を通してから発言する。


「僕は、人生リセットボタンがあったら、迷うことなく押します。記憶を失うのは少し怖いけれど、逆にその方が幸せになれる気がします」

「理由は?」

「理由は、単純明快です。僕は、今の人生に満足できていないからです。特に中学生の頃は毎日が苦痛でした。いつも朝起きると、新しい一日が始まったことに絶望していました……。僕は当時、クラスメイトや教員に恵まれていなかったのです。人生をリセットできたら、あの地獄のような日々を過ごさないで済むかもしれません。同じ人生を歩む可能性も少なからずあるでしょうが、僕は別の幸せな道を選ぶ自分を期待したいです」


 聡の発言に、瑠依はうんうんと頷いて聞いていた。そしてキッパリと言い放つ。


「守屋くん。あなたの意見、すごく分かるわ。だって、私もほぼ同意見だもの」

「あぁ、そう……。──えっ!?」


 聡は頷きかけて、我に返って驚いた。

 いつも聡とは反対意見ばかりの、あの宮野瑠依が今何と言った……??

 信じられない、といった様子でポカンと口を開けてしまう聡。それを見て瑠依は小さく苦笑してから「はい」と挙手して発言を始めた。


「私も、守屋くんと同じです。人生リセットボタンがあったら、押します。記憶を失う、という点で最初は悩みましたが……。そのデメリットを受け入れてでも、人生をやり直したいです」

「え、な、なんで?? 宮野さん、今の人生に、満足、してるんじゃないの……??」


 聡が途切れ途切れに疑問を口にすると、瑠依は困ったように眉を下げた。


「うーん……。確かに、今の人生にはある程度は、満足してるかな。でも納得はしてないの。私は、悠一を……弟の幸せを守るために、記憶を失ってでも人生をやり直したい。家族みんなが幸せになれる方法を、もう一度探すチャンスが欲しい、かな」

「えっと……?」


 意味をよく理解しきれなかった聡は、疑問符を浮かべる。

 でも瑠依はこれ以上話す気はないようで、顔に笑みを張り付けたまま「今日はディベートっぽくならなかったわね~」とマイペースにのんびりとした雰囲気だ。

 そんな二人を、嵐山は鋭い目つきで、見定めるかのように見つめていた。

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