第3話 生き残っちゃった派・宮野瑠依

 今思うと、きっかけはなんだったのだろう。


 授業中、と言っても、担当教諭の都合で自習になっていた教室内は、監視役の教師がいないこともあり生徒達の喋り声で些か煩い。瑠依は窓側後方の日差しが入る席で、ぼんやりと窓ガラスの向こうの青空を眺めながら物思いに耽っていた。

 私、なんで死にぞこない部なんて創ったんだっけ……?

 昨年、当時のクラスメイトであった守屋聡と、何かの拍子に話す機会があって、そこで話が発展して顧問をやってくれそうな教員を探して、という流れまではおおまかには覚えているのだが。その中でも、聡の決定的な一言があったら気がする。しかし、その一言がなかなか思い出せずにモヤモヤしていた。

 なにか、何か一言言ったのよ、あいつ。それも、私の気に障るような事を。

 手持ち無沙汰で、瑠依が何気なく手元の教科書をパラパラと捲っていると、あるページで手が止まった。教科書に掲載されているいくつかの物語の、作者紹介のページだった。太宰治の紹介文。代表作に『人間失格』の文字。確か、聡が以前に愛読書だと語っていた。


「あ」


 ふっと記憶が蘇る。

 あぁ、そうだ。人間失格の文じゃないけれど、聡は似たような事を瑠依に言ったのだ。

 瑠依が『生きるのって大変だけれど、なんだかんだ良いこともあるし、素敵なことよね』と軽いノリで、しかし本心で言ったのに対して、聡はそれを真っ向から否定する発言をした。

『僕はそうは思わない。死があるから、生物は素晴らしいんだ。……もういつからかは忘れたけれど、随分と昔から、僕は死に恋い焦がれてるよ』穏やかに、微笑みさえ浮かべて、聡は言い切った。


 久しぶりに創部のきっかけとなった応酬を思い出して、瑠依は溜め息を吐いた。聡の言葉が頭の中でリピート再生されて、思わず頬杖をついて眉を寄せる。

 死に恋い焦がれてる、って何よそれ。初めて聞いた時も今も、まるで太宰みたい、と思って無性にムカついた。

 放っておいたら、こいつ自分から死にそう。なんだか目が離せないし、聡のやたらめったらネガティブな思考に、少しでもポジティブ要素を加えたい。そんな瑠依の意思もあって、ディベート部を創ろう、と半ば無理矢理巻き込んだのだ。

 それほど古い記憶という訳でもないのだが、瑠依にとっては懐かしさを感じるものだった。最初は部の立ち上げに渋っていた聡も、諦めたのか何か知らないが途中からは協力的になり、部活の通称は彼が決めた。


 死にぞこない部、なんて名前を初めて聞いた時には、瑠依はそりゃあもう顔を顰めたものだ。が、聡は瑠依の表情など全く気にせず、『君はそうは思わないかもしれないけれど、僕にとってはこの年齢まで生きている事は予想外だったんだ。だから、死にぞこない部。ディベートの内容も、基本的に生死に関わるもの、なんだろ。だから、さ。ちょうどいいじゃないか』そう言った聡に、瑠依は反論する気が失せた。

 瑠依自身にも、ほんの少しだけ似たような思いがあったからだ。

 私だって、この歳まで生きられるとは思ってなかった。

 そう考えるに至った理由は、瑠依と聡では、多分月とスッポンぐらい差があるんだろうが。


 それにしても、高校生にもなってこんな変な、中二病の塊みたいな名の部を創部するとは思っていなかった。変人だが顧問もいるし。

 変人、変人だよなぁ、あの先生……。

 受け持ちの化学の授業は、普通に分かりやすいし、常識もあるし、面倒臭がりな部分はあるものの生徒の事をよく見ているし。でも変人だ。

 こんなヘンテコな部の顧問を引き受けた時点で、嵐山先生って変人だったんだな、と瑠依は素直に思った。嵐山教諭に対するそれまでの認識が一変した。


 瑠依が物思いにふけっていた間にも時計は刻々と時間を刻んでいて、教室前方の壁掛け時計に目をやると、授業終了まで残すところ十分というところだった。今は四限なので、このあとは昼休みである。監視役の教員もいないし、教室を出ても静かにしていれば咎められないだろう。

 瑠依は小さな手提げ鞄にお弁当箱の入った巾着と、タオルハンカチやポケットティッシュ、小銭入れを突っ込む。親しい友人達に、「ちょっと部室行ってくるね。そのままそっちでお昼食べてくるかも〜」とエスケープを告げた。

 友人達は瑠依がテニス部に所属しているのを知っているので、テニス部用に割り当てられている部室兼更衣室へ行くと思い込んでいる。「あんたよっぽどテニス部好きなのね。行ってらー」と呆れ気味で数人に見送られた。内心、違うんだけどね、と呟く。部室は部室でも、もう一つの方なのである。


 他のクラスは当然のように授業中なので、なるべく足音をひそめて廊下を歩いた。一度、校舎内の階段を降りて、一階の下駄箱横に設置されている自動販売機に寄り道する。小銭入れから百円玉を一枚出して、自販機の投入口へ滑らせた。迷わずミネラルウォーターのボタンを押す。コンビニや学校外の自販機より安めに値段設定されているので学生の懐には有難い。ガコン、と取り出し口からペットボトルを出すと表面がヒンヤリしていてよく冷えていた。

 片手にミネラルウォーターのペットボトル、もう片手に弁当箱入りの手提げ鞄、これで準備は整った。意気揚々と、階段を登る。

 教室のある校舎三階まで戻ると、教室のある方向とは反対に向かった。真上から見ればL字の廊下の、短い辺の方。本当に校舎の隅の隅。そこにあるのは授業でもほとんど使われない、第二化学室だ。今日もいつも通り、静寂に包まれている。

 瑠依はペットボトルを手提げ鞄に入れると、第二化学室──ではなく、隣接されている教員用の準備室に目を移した。

 戸の一部はすりガラスになっていて、中の様子がハッキリと見える訳ではない。でも室内の灯りは点いているみたいだし、人の気配もある。

 今回は当たりみたいね。瑠依は自然と笑顔になった。

 軽いノックを三回すれば、室内で人が動く気配があった。


「二年一組の宮野です。嵐山先生いらっしゃいますか?」


 この部屋を根城としているのは嵐山しかいない。もう十中八九、嵐山がいるのは分かっていたが、校内での礼儀上、一応それらしい形式をとった。戸がガラリと横にスライドされて開けられる。

 眉間にシワを寄せた仏頂面の嵐山透教諭が出迎えた。


「宮野、お前……授業は?」

「自習だったんですけど、あと五分で終わるので。問題ないです!」


 瑠依は元気よく答えた。「五分……」と嵐山が復唱するように呟く。数秒目を閉じ、腕組みをして悩んだような風だったが、許容範囲なのか大目に見てもらえたのか、「仕方ねぇな。ほら、入れ」と瑠依の入室を許可した。「わーい」ラッキーと言わんばかりにササっと部屋に入る。

 応接用なのか知らないが、年季の入ったソファーがローテーブルを挟んで二つあるので、その片方に腰かけた。

 化学準備室はいつ来ても物で溢れていて、実験器具やら書籍やら何やらでゴチャゴチャしている。でも、瑠依はこの隠れ家的な部屋が割と気に入っていた。嵐山か前任の教諭が用意したのだろうか、ちゃっかり給湯スペースまで備わっている。


「先生、私カフェオレで! あ、守屋くんにもこっちおいでってメッセージ送っとこう」

「はいはい……」


 瑠依が制服のブレザーのポケットからスマートフォンを取り出して操作する。嵐山はヤカンをコンロにかけてコーヒーを淹れる用意を始めた。しかも、インスタントではなくて、市販のものとはいえカップ一杯毎に注ぐタイプの、ハンドドリップコーヒーだ。小袋をピリピリと破いて、来客用のカップとソーサーを棚から出す。

 嵐山は手際よく準備を進めるが、その表情は苦々しい。


「おい、宮野。お前、そのうち自分用のカップとか持ってくる気じゃないだろうな?」

「お、先生よく分かりましたね。いやー、なかなか気に入ったデザインのカップが売ってなくて〜」

「買うなよ!? そして持ってくるなよ!? お前はこの部屋をなんだと思ってる!?」

「美味しいコーヒーが飲めるゼロ円休憩所?」

「……自分の教室帰れ」

「もー、やだなぁ。そんなに怒らないで下さいよ〜」


 あはは、と瑠依が笑っていると、授業終了を告げるチャイムが鳴った。ローテーブルに置いておいたスマートフォンがバイブで振動する。確認すれば聡からの返信メッセージで、今からこちらに向かうとの旨だった。


「先生、守屋くんこれからこっちに来るって。コーヒー追加でよろしくね」

「あ〜、もう、めんどいなぁ……」


 嵐山は溜め息吐きつつも、カップとソーサーをもう一組用意し始める。瑠依はお弁当箱を広げて昼食タイムだ。「お先にいただきまーす」手を合わせて箸を持つ。

 嵐山はコーヒーをゆっくりゆっくり淹れるので、食事が終わった頃にはカフェオレが出来上がっているだろう。

 パクパクとおかずを口に運んでいると、弁当箱を覗き込んだ嵐山が「手作りか。彩りいいな」と感心したようだった。


「親御さん、センス良いな」

「いや。これ私の手作り」


 サラリと褒めた嵐山に、瑠依もサラリと返す。「……は?」嵐山がポカンと口を開けた。


「いや、だから、このお弁当作ったの私。うちの母親、仕事掛け持ちしてるからお弁当なんて作る暇ないよ。ちなみに弟のお弁当作ってるのも私。あの子の中学校、給食無いからね」

「……。なぁ、宮野。お前、」

「言っておくけど、別に無理とかしてないからね。これ、我が家の日常。お弁当二人分作るぐらい、どうって事ないよ」

「そうは言っても、お前テニス部の方だって毎日遅くまで残って自主練してるだろう」

「あら、よくご存知で。先生ってなんだかんだ生徒の事よく見てるよねぇ〜」

「話を逸らすな」


 不満そうな、少し怒った様子の嵐山に、瑠依は肩をすくめる。と、背後から控えめなノックがあった。


「あ、守屋くん? 入っておいでよ」

「失礼します……。宮野さん、授業サボったの?」

「最後の方だけね。てか、うちのクラスは自習だったから、これはサボりじゃないわね。ノーカンよ」

「あぁ、そう。まあいいけど。……? 先生、気難しそうな顔してますけど、何かありました?」

「いや……」


 瑠依の隣に少し距離を空けて、聡が座った。彼も持参した弁当箱を広げ始まる。

 いつも明るく、笑顔も多く、時折教員や友人を茶化したり、とムードメーカーな生徒である宮野瑠依。だがしかし。


「底が見えねえんだよな……」


 ポツリと呟いた嵐山の言葉に、疑問符を浮かべる聡とニッコリ笑顔の瑠依。


「先生、余計な悩み事してると老けますよ?」


 彼女は明るくおどける。

 きっと、これはわざと部分もあるのだろう。教員である嵐山の表情は暗い。


 自身を『生き残っちゃった派』と称する少女の素顔はどこにあるんだろうか。答えは見えない。

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