文学の危機に抗して
文学の危機が叫ばれて久しい。しかし、およそ文学が文学である限りにおいて、それは常に既に、危機の渦中にあったと言えるのではないだろうか。文学は間断なく危機に晒され、そのたびに鍛えられて、その命脈を保ってきたのである。
飢えた子供の前で文学に何が出来るのかとサルトルは問いかけ、アウシュビッツの後で詩を書くことは野蛮であるとアドルノは語った。
彼らは文学の無力さに絶望したのであろうか。そうではあるまい。確かに文学は非力かも知れないが、全くの無力ではない。その非力な文学によってのみ救われる魂もまた、きっとあるのだ。そんな祈りにも似た微かな希望こそ、彼らの真に伝えたかったことではないかと私は思うのである。
現代はインターネットの普及などによって、誰もが多様なコミュニケーションの可能性に開かれているが、にもかかわらず、あるいは、そうであるが故にかえって、個人が寄る辺ない孤独のなかに囚われてしまっているように感じるのは私だけではないだろう。
人々をより幸福にするはずのテクノロジーの進歩が、新たな疎外を生み出しているとすれば、これは実に皮肉なことであるという他はない。我々はここでいったん立ち止まって、現代文明の意味を、そして人が生きるということの意味を、改めて問い直すべき時期に来ているのではないか。
そう、いまこそ文学が必要とされているのだ。文学は世界から飢えや暴力をなくすことは出来ない。しかし、魂の飢えを満たすことは出来る。体の傷は癒せなくとも、心の傷は癒せるのだ。
文学の危機とは畢竟、人間性の危機に他ならない。この危機を契機として、人間性の復権を高らかに歌い上げる新たな文学が誕生することを、私は切に願ってやまない。
私もまた、たとえ一握りの人々であれ、私の作品を読むことで救われる読者がいる限り、これからも書き続けていきたいと考えている。それが私の天命であり、生きるよすがなのだ。
(ピーチ書房刊 万野珍介著 『幼女調教・僕だけの肉便器』 作者あとがき)
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