大文豪伝

 大文豪が生まれたのは、奇しくも彼自身の誕生日と同じ日だった。

 しかも驚くべきことに新生児として生まれたのである。

 彼は産声を上げる代わりに、流暢な言葉を発したという。

「我輩は大文豪である。名前はまだ無い。生まれて、すみません」

 大文豪は結局死ぬまで個有名を持たなかった。

 後年、大文豪は自分が生まれたときのことを、次のように述懐している。

『産道の長いトンネルを抜けるとドイツだった。やれやれ、またドイツか、と僕は思った。』

 乳児の頃、彼は母乳を飲むことを頑なに拒否し、母親を困らせた。

「お袋のオッパイ吸うなんて、そんな気持ち悪いことできるわけないじゃん。親父にも悪いし」というのが、その理由である。

 そういうわけで彼は粉ミルクで育てられた。

 森永の砒素ミルクである。

 大文豪が数々の名作を生み出せたのも、幼少時に森永の砒素ミルクを大量に飲んだおかげであると言われている。

 大文豪は何不自由のない恵まれた環境ですくすくと育っていった。

 しかし運命は彼に平穏な人生を送ることを許さなかった。

 戦争が始まったのである。

 赤紙、つまり召集令状を受け取った大文豪は、インド・ネパール戦線へと赴いた。

 戦闘は苛烈を極め、彼もまた負傷し、生死の境をさ迷った。そのときの体験を記したのが、後に戦争文学の金字塔と呼ばれることになる名作、『ぼくらの七日間戦争』である。

 戦争が終わり、復員した大文豪は教員免許を取得して、四国のある中学校で数学教師の職を得た。

 その地で初江という娘と熱烈な恋愛の末結婚し、慎ましくも幸福な毎日を過ごしていた。

 しかし運命は彼に平穏な人生を送ることを許さなかった。

 再び戦争が始まったのである。

 赤紙、つまり召集令状を受け取った大文豪は、コソボ・セルビア戦線へと赴いた。

 戦闘は苛烈を極め、彼もまた負傷し、生死の境をさ迷った。そのときの体験を記したのが、後に戦争文学の金字塔と呼ばれることになる名作、『ぼくらの七日間戦争2』である。

 しかし戦後の混乱期に原稿は散逸し、現在我々がこれらの名作群を読むことは叶わない。

 実に残念な事である。

 たとえ誰一人としてその中身を読んだことがなくとも、大文豪の作品である以上、大変な傑作であることは間違いないのだから。

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