第5話

 あの子、本当に殺人犯なんだろうかって、今でも思いますよ。いつも来てくれていたんです、ウチのコロッケとかハンバーグを買って行って、次に来た時は「美味しかったです」って言うんです。どちらが本当の顔なんでしょうか……私には分かりませんが……。


                         ――大本広(精肉業)――




 木々の間を駆け抜ける香菜代が思わず足を止めたのは、野口孝行を葬ってから五分も経たぬ頃である。


 細い道を塞ぐように、彼女が着込む装甲とは対照的な――純白の外套に身を纏う女が立っていた。肩の辺りで揺れる髪は、コマーシャルで見るような美しさを保持している。


 綺麗な人……。


 異形の甲殻類にも似た鎧の奥で、香菜代は思わず呟いた。


「お名前は?」


 涼やかな声は女からだった。突然現れた香菜代にも驚く様子は無い。微かに笑みを湛えてすらいた。


「……三堂果奈代、と言います」


「女性の方でしたか」


 分かってはいるけれど……と香菜代は思いつつ、一応の確認をするべく女に名を問うた。


「阿桑田ユリカ、さん……ですよね」


「えぇ。初めまして」


 ギクリと肩を動かしもせず、世間話でもするかのような声調に――香菜代は得体の知れない「空気」を全身で感じた。


「先程は……」


 にこやかにユリカは続けた。



 静まり返った森の中で……香菜代はユリカの一言一句全てに「刀」が仕込まれているのを察した。


 可能であれば、――そう考えているに違い無い、香菜代は半歩だけ後退る。


「もう、よろしいでしょうか?」


 フゥ、とユリカが息を吐く。


「……何が?」


 香菜代の問い掛けに、再びユリカは息を吐いた。


「……精一杯なのです、こちらもっ……」


 一陣の風が森を吹き抜けた。木の葉が怯えるように揺れ、海鳴りの如き音を立てて香菜代に降り注ぐ。


「……貴女は……執行者……ですよね……私と……たっ、孝行を……殺す為の……っ!」


 香菜代は腰を落とし、ゆっくりと両腕をに構えた。同時に――酷く彼女は驚嘆した。




 最初から……迎撃の形を取った……私が? こんなの……初めてだ……。




 は一層大きくなる。立ったままのユリカは、しかし息を荒げ……ハァハァと肩を上下させた。


「……ぐっ……いぃぃ! こ、この……ぐぅぅ……っ! いっ、いぃ……ぎぃいぃぃ……っ!」


 端正な顔は極限まで歯を食い縛った事により、最早人間では無く――。


 魔の類いに相応しい相貌と成り果てた。いつの間にか流れ出した涙は頬を濡らしたが、顎先から落ちた水滴が地面を腐食させるような……。


 怨嗟に満ち満ちた――地獄を絞るが如き「呪水」であった。




 阿桑田ユリカらしからぬ声、表情、振る舞い……。全てはこの瞬間、初めて発現した「異常」である。つい先程まで、母としてキユリに接していた彼女はを果たした。


 文字通り、身も心も何もかもを捧げた男を永遠に奪われた「雌」として、互いの遺伝子を継ぐ子を守護する「生物」として――産毛の一本までも逆立たせるに近しい。


 害敵の排除――即ち原初の本能が発動した瞬間であった。


 彼女を中心に放たれた殺気は、対峙する香菜代のみを怯ませたのでは無い。山森に住まう鳥類、哺乳類、更には昆虫類までもが「正体不明の捕食者」から逃れようと、必死に逃走を始めたのである。


 一執行者として、一人間としての阿桑田ユリカはもう役目を終えた。この豹変を境に――彼女は「転生者」たる超常能力を得た。


 殺気の伝播。ユリカはこれを発現させたのだった。


 ゆっくりと……酷くゆっくりとした足取りで、ユリカは「憎き追討者」に迫る。対する香菜代は目を見張った。


 ユリカの足下から、夥しい量の虫が土中から這い出ると、一目散に何処かへと逃げ去って行くからだ。




 来なければ良かった。




 香菜代の心中深く、真芯とも呼べる「本能」が、彼女の心臓を強烈に高鳴らせる。一瞬、逃げようかとすら思う程だった。


 それでも――三堂果奈代は正義の執行者である。丹念に創り上げた善悪の物差しを、そう易々と捨てる訳にはいかなかった。


 を行く彼女もまた、「人間」からは程遠く……。


 果たして二匹の「雌」が、決戦を開始する。

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