第4話
ごめんなさい。今、その名前を聞きたくないんです。私にとって……彼女は……。いえ、何でもありません。
――大里友梨(会社員)――
香菜代の腕の中で……たった今、一人の男が逝った。彼女が「執行者」として働き始めてから、このような形で敵を看取ったのは例が無い。
執行対象を殺害する時、香菜代はある意味「他人事」のようにやや離れた位置で最期を見届けたが……。
「……」
人を殺した――痛切にこう感じたのは初めてだった。眼前で、それも触れたまま……他者の命がゆっくりと消える瞬間に、香菜代は肺に充填された空気が逆流する気がした。
野口孝行という男が何を思い、考え、悔やみながら死んでいったのか?
当然、香菜代に分かる訳も無かった。腕の中で息絶えた男は「執行対象」に過ぎず、それ以上の干渉はきっと――自身にとっては毒にしかならないと、彼女は直感していた。
「…………行かなくちゃ」
当初の予定では、野口孝行の頭部、もしくは身体の一部を切断し、もう一人の標的である阿桑田ユリカが潜んでいるであろう場所に投擲、彼女の発狂を誘うつもりであった。
しかしながら……前腕から伸びる刃に、野口孝行の血液が付着する事は無かった。
正義は私にある。何をしてでも標的を討つ。例え人道に背いても、勝たなければお話にならない。輪廻を乱し、在るべき平和を壊す輩は、既に同じ「人間」じゃないんだ。
決して楽では無かった経験を元に、ようやく胸に刻んだ「正義」の碑文を、彼女は自ら無視をしたのである。
香菜代はゆっくりと遺体を地面に下ろし、仰向けとなるよう転がす。両手を胸の辺りで組ませ、半分程開いた瞼を……優しく撫で下ろした。
元は同じ執行者として、そして――護るべき何かを最期まで守護した男を、善悪という次元を超越した「誇り高き生物」を……香菜代は深き一礼を以て弔いとした。
残る敵は後一人。まさに血に濡れたと言っても過言では無い人生を、存分に謳歌しようとしていた女、阿桑田ユリカ!
貴女さえ討てば――この世界は再び「平穏」を享受出来るんだ!
「命、貰います」
香菜代は大きく深呼吸し、もう一人の標的を討伐すべく――。
野口孝行が歩いて来た方角へと、全力を以て駆け出した。
同時刻。
執行対象――阿桑田ユリカは腕時計を見やった。
夫と約束した時間、「一〇分間」を長針がとうに過ぎていた。
大丈夫かしら、ちょっと見に行ってみようかしら……と、大抵の女性ならば行動には移さずとも、不安に唇を噛んで思うであろう。
彼女……ユリカがそのような女性であれば、恐らくは「ここまでのライフステージ」に辿り着く事は無かったはずだ。ゴミのように野垂れ死ぬか、もしくは正式な執行者として、標的から返り討ちを受けただろう。
「……可愛い子ね」
スヤスヤと眠る娘、キユリの唇をソッと撫でたユリカ。目元は自分に、口元は夫ソックリに育った幼子はまさしく「夢の結晶」であった。
幾度抱き締め、幾度泣き声を聴き、幾度その重みに涙した事だろう?
母乳をせがむキユリの顔に、何度接吻した事か――母ユリカは思い返す。
あの人は逝った。
彼女は夫の遺体を確認していない。遠くに彼の断末魔を聞いた訳でも無い。それでもユリカは「孝行の死」を確信していた。
一〇分間が経っても、俺が帰って来なければ――この口約束だけで、あらゆる証拠に勝った。見ずとも聴かずとも、私には分かる……彼女は夫を心から「信頼」していた。
夫が自分の信頼を裏切る事は無い、最期の最期まで私達を思い、戦ってくれた。そして果てた。不安だから見に行こう、などと思うのは――それは「裏切り」も同然――。
「……キユリ」
ユリカは眠る娘を毛布で包むと、木の洞にソッと寝かせた。胸元からナイフを取り出し、ユリカは長く伸びた髪を掴み――。
肩の辺りでバッサリと、濡羽色の長髪を断ち切ったのである。それを皮袋に詰めて封をし、眠る我が子の横に置いた。
終わりの予感――それをユリカは微かに感じ取っていた。
狂おしい程に求めた男と愛を育み、添い遂げる。全てに優先される「願望」の成就が迫っていると、彼女は思考よりも更に深層の、所謂「勘」で悟ったのだ。
ユリカは元の世界で暮らしていた頃、ある戦争映画を劇場で観た事がある。戦地で彷徨う母親がとうとう逃げ場を失い、幼い我が子を涙ながらに「殺害」したシーンで、彼女は猛烈な怒りを覚え――即座に席を立ったのである。
何故我が子を殺す必要があるの?
同じ映画を観たという「上辺の友人」にそれを問うと、友人は軽やかに答えた。
あれじゃない? 一人じゃ生きていけないから、せめて自分の手でって事じゃない?
この返答以降、ユリカはその「上辺の友人」と縁を絶ち切った。私なら――と反論する事も無く、唯無言でその場を去ったのだ。
どうして我が子の未来を潰すの? 自分が死んでも、子供は生き延びるかもしれないのに。その程度の思いで、あの母親は子供を産んだの? あぁ、全く理解が出来ない。
私なら――我が子の未来を信じて死ねるわ。
時が流れ、住まう世界すらも変え……。
阿桑田ユリカはかつて憤激した映画のシーンと似た状況にいた。
外套の下に仕込んだ二丁の拳銃、片方を手に取り、目を閉じて「変化」を促した。やがて淡い光の中から出現するそれは、形状こそ狙撃銃に酷似していたが、「引き金」が存在しなかった。
構わずユリカは一発の銃弾――純白に塗装されていた――を装填、絶対に守護すべき木の洞の前に
鼓動が高鳴る。久方ぶりの「恐怖」だった。何かを護る事に慣れない女は、それでも逃亡を赦されない。
彼女は母であった。母には決して逃れられぬ「掟」がある。当然、ユリカは「掟」に縛られ、またそれを受け入れた。
黙したまま、ユリカはキユリの胸元に一枚の紙を置く。万が一の事態に備え、予め用意してあった「母からの手紙」であった。無事に帰還すれば、再び紙片を鞄にしまい込むだけだが……。
「…………キユリ」
スゥスゥと寝息を立てる娘を起こさぬよう、ユリカはゆっくりと立ち上がる。
ちっぽけな、一人の人間が――異世界を相手に刃向かう瞬間だった。
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