第2話
人を赦す事が何よりも大事だ……神は何度も仰ります。何故か? お答えします、人間にとって一番難しい事は、敵を赦すという行為なのです。
――レギオ・ニュレーロン(神託者)――
「……はい、はい……えぇ、では三日間止めて頂くという事で、はい、お願い致します」
スマートフォン越しに一礼する香菜代の傍には小さなリュックサック、そこに詰め込む予定の「数日分」の着替えなどが置かれている。電話の相手は購読する新聞の販売店だった。
朝刊、夕刊を必ずその日に読み終え、就寝前にそれらを反芻しながら目を閉じるのが彼女の日課である。「仕事」がある日でも、そうでない日も……新聞の手触りと小さな字、そしてインクの匂いを嗅がなければ落ち着かなかった。
それ程に新聞を愛する女、三堂果奈代が自ら「購読の一時的中止」へと踏み切ったのは――二つの世界を混乱に陥れた悪鬼、阿桑田ユリカの討伐を実行する為であった。
阿桑田ユリカの存在を知ったのは去年、彼女が今の「仕事」を初めて間も無い頃だった。寂れた海水浴場の外れにある、朽ちた小屋から仕事は始まり、そこで終わるのだ。
ある日の事。香奈代は雇い主の「機構」から受け取った給料を数えていると、小屋の壁に貼られた「常時募集案件」という見慣れない文言に目を留めた。軽い気持ちで読み始めた香奈代は、下段へと目が移る程……強い興味を覚えた。
討伐対象は自身と同じ、執行者の女。
任務を放棄するだけでは無く、私欲に任せて非道の限りを尽くす元執行者を、夫共々どうにか殺して欲しい――このような内容であった。
何なんだろう、この阿桑田ユリカって女。こんな人でも結婚出来るんだなぁ。えっ、夫も執行者なんだ? それに……「輪廻的有害者」なんて初めて聞いた。機構がここまで言うって事は、相当に悪い人なんだろうな――。
長く細かい文章を読み終えた頃、小屋の粗末なドアが開いた。中年の小太りの男が立っており、やや驚いた様子で「おぉ、先客がいたか」と目礼した。
「すいません、今出て行きますね」
「いや、良いよ良いよ。しっかり数えるまで、俺ぁ外で待っているからよ」
別の執行者が小屋の中にいた場合、大抵は「給料の確認」を行っている事が多い。同僚の交友関係が希薄な執行者達も、それだけは
香奈代が小屋を出ると、男は煙草に火を点け、最初の一吸いを終えたばかりだった。
「うん? もう終わったのかい」
「いえ、お金はもう数え終わっていましたから」
「そうかい、じゃあ気を付けて帰りな。最近は物騒だからよ」
いや、物騒なのは俺達か――男は気持ち良さそうに笑うと、モクモクと紫煙を吐き出し、煙草を砂浜に落として丹念に踏み付ける。
「あっ、そうか……お姉さん、アレを読んでいた、そうだろう?」
男の言う「アレ」、壁に貼られた「常時募集案件」が香奈代の中で合致し、コクコクと頷いた。
「やっぱりか。よし、ちょっと中に入りなよ、可愛い後輩の為に教えてやる」
言われるがままに香奈代は男の後を付いて行き、再び小屋の中へと入った。男は隅に置かれた書類棚――と呼ぶには余りにちゃちな木板を指差した。
「機構のお偉方も暇じゃないらしい、普通なら執行対象の情報なんて殆ど教えてくれねぇ。……でも、『常時募集案件』なら話は別よ」
木板の上に置かれた紙。香奈代は拾い上げ、目を落とす。
「…………酷い」
思わず飛び出した感想に、男は「酷いなんてもんじゃない」と溜息を吐いた。
「直接的、間接的を含めてその女が殺した数は――五〇〇を超える。お咎め、文句、一切無しの機構ですら……その女は『ヤバい』と思ったらしいぜ」
「……っ、この人、無関係の人ばかり殺しているじゃありませんか!」
うーん……と男は頭を掻きながら言った。
「そこが難しいところよ。どうにもソイツは優秀な執行者らしくてな、標的を絶対逃がさない凄腕なんだとよ。……まぁ、周囲の人間も何もかも――丸ごと片付けるから当たり前だ」
「でも、私達は転生者だけを狙うのが常道のはず! こんなの……赦される訳がありません!」
「お姉さんの怒りは尤もさ。だから機構もそんな風に紙を貼って、『命知らず』の執行者を募っているんだ」
小首を傾げる香菜代。男は二本目の煙草に火を点けると、重たげに口を開いた。
「八人――ソイツを殺そうとして、返り討ちにあった人数だ。ソイツには夫がいる、『野口孝行』と言って、ソイツよりもずっと前から『案件』の対象だ」
目を見開き……硬直する香奈代に、慌てた様子で男が付け加えた。
「……大丈夫だ、お姉さん。何もソイツらを殺さなくちゃならないって訳じゃない。他の転生者をヤれば良いだけだ。そりゃあ莫大な金は入るが……命あっての金だからよ」
俺だってそうさ。男は力無く笑った。
「
じゃあな、お姉さん――男は依頼書を手に取り、香奈代を外に追い出した。
「あんたも、こんな仕事を続けていりゃ――俺みたいになるぜ。早いところ……辞めちまえ」
果たして小屋のドアは閉じられた。それから香奈代と男は、何処かの街で出会う事も無かった。
男はどうしているのか。息子は健やかに育っているのか――香菜代が知る由も無い。
そして……香菜代は今、男と出会った小屋へと到着した。少しも変わらない、それ以上朽ちる事も治る事も無く、まるで「故郷」のように鎮座する小屋の中――。
三堂果奈代は光と酩酊感に包まれ出撃する。新聞を三日だけ止めたのは「必ず帰る」という意志。少ない荷物は「迅速に処理する」という決意の表れであった。
俺みたいになるぜ――あの人の言葉は警告? それとも何だろう?
未だ答えは見付からない。唯……一つだけ香奈代は確信していた。
阿桑田ユリカ、そして野口孝行を討伐すれば、「二つの世界」の状況はきっと好転する――!
強い立ち眩み、瞼の裏側を駆け巡る閃光が止んだ。
香菜代はゆっくりと目を開ける。
開かれた視界――そこには一面の「花畑」が広がっていた。
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