討伐者出撃

第1話

 何事も純度を高めてはいけない。人の世で平穏を過ごすには、それらの上澄みを掬って飲むべきだ。


                       ――ゲノ・レーゾ(貴族)――




 大河の流れを止める事は出来ないように、遍く世界に横たわる「時間」は流れ続けた。


 野口孝行。阿桑田ユリカ。彼らの出現、また元来持てる性質の完全な「発現」により、が今もなお……遅々としてだが、確実に崩壊へと向かっているのは事実である。


 しかしながら、世界というものは弾性であった。外的要因によって歪んだ「輪廻」の球体は、世界自身の持つ抵抗力によって反撃を行う。


 例えば――今回の抵抗力は「人間」であった。歪む世界は一人の人間を用意し、内奥深くに入り込んだ異物を除去せんと……逆襲を始めた。




 ユリカと孝行がかつて暮らしていた「元の世界」、その枠組みに浮かぶ一つの国で……あるテレビ番組を視聴しながら、両肩をワナワナと震わせる女がいた。名を三堂果奈代みどうかなよといった。


「……いやぁ、それにしてもですよ、彼女のような犯罪者がですよ、我が国の捜査機関が全力を尽くしていても、なお! 一向に足取りを掴めないとは、これ、どういう事なんでしょうかねぇ」


「一説には、阿桑田ユリカは世界的な犯罪組織の一員であった、などという眉唾な話も出て来ております。勿論、我々専門家は否定します。被害者夫婦を殺害したとして、一体何の意味があるのか、誤解を恐れず言えば、世界的組織が被害者夫婦を殺害しても――」


 阿桑田事件――と呼称される「悲劇」は、以下のような顛末である。




 二年程前、阿桑田ユリカという女性が、同じアパートに暮らす同年代の夫婦を殺害、その後はパッタリと行方不明となった。残された預金通帳には一〇〇〇万円を超える不自然な額面が記載され、しかし彼女を雇っていた「太っ腹な」企業は、果たして名乗りを上げなかった。


 彼女を知るかつての同窓生、近所の住民へと聞き込み調査を行えども、返ってくる答えは決まって「性格は非の打ち所が無い程素晴らしく、また魅力的な女性だった」のみである。監視カメラの映像を確認してもなお、「人違いでは」と首を傾げる者がいるぐらいだった。


 真相解明に難航を重ねた本件だったが、容疑者――阿桑田ユリカの両親は遺書を遺して自殺、恨みの矛先を失った遺族は歯を食い縛り、涙を呑む結果となった――。




「――引き続き、この番組は生放送でお送りします、視聴者の皆様から、今回の事件に関する事、阿桑田ユリカの足跡、どんなに些細な事でも構いません、番組放送終了までお待ちしております。下のテロップに書かれた電話番号へ――」


 勢い良く立ち上がった香奈代は、すぐにスマートフォンを手に取り……テレビに映る電話番号の通り、電話を掛け始める。


《……こちら、AQテレビ、阿桑田事件特集視聴者用連絡受付で御座います。唯今、大変回線が混み合っている状況です――》


 幾度も壁掛け時計を見やり、香奈代はまだかまだかと機械音声を急かす。現時刻は二〇時四五分、番組が終了するまで残り一五分であった。


 足をパタパタと動かす香奈代の耳に、ようやく人間の女性の声が聞こえたのは、放送終了まで五分を切った頃だった。


《……お電話ありがとうございます、こちらは――》


「あ、あの!」


《は、はい》


 香奈代の酷く焦った声色に、オペレーターも釣られて声を上擦らせた。


「私、を知っています!」


 数秒の間を置き、オペレーターは「落ち着いてください」と窘めるように言った。この手の番組を放映し、視聴者から意見や情報を募る際、大抵は見当違い、もしくは悪戯である。


 この時……香奈代のもたらした情報は後者に近かったが、しかしながら余りに真に迫る声調に――オペレーターは「まさか」と思いつつも、受話器の向こうの香奈代から、驚嘆すべき情報を引き出そうとしていた。


《落ち着いてください……お名前は結構です。それで――》


「名前なんて幾らでも言えます! 私は三堂果奈代と申します! 二三歳、会社員です!」


 いよいよオペレーターも焦り出す。放映開始から電話を取り続けた彼女は、この日初めて――「真実」に触れるかもしれないという緊張を味わっていた。


《……三堂さん、ですね。三堂さん、何でも構いません、容疑者についてご存知の事を――》


「彼女は……阿桑田ユリカは遠い場所にいます!」


《では、外国に?》


 違います――香奈代は息継ぎもせず、一気に阿桑田ユリカの居場所を語った。


「阿桑田ユリカは、この世界にはいません! 別の世界……! 理由も説明出来ます、多額の貯金があった意味もお話出来ます!」


《…………はぁ》


「彼女はこの世界と異世界を行き来し、ある依頼をこなす仕事に就いていました。その依頼を完遂すれば、それこそ一〇〇万円単位で報奨金が貰えるんです! どうして分かるのか、って事ですよね!」


 


 更に香菜代が語り続けようとした瞬間……非情にも受話器を置かれた音が聞こえた。ガチャリ、という音はそのまま、オペレーターとの関係を隔絶されたようだった。


「……やっぱり、駄目だったかぁ」


 深い溜息と共に、香菜代はスマートフォンをベッドの上に投げた。軽く跳ね、丁度枕元に転がった。


 その実――香菜代は今回の情報提供が成功するとは、露程思っていなかった。常人には信じ難い事実を、一切のオブラートに包まず語れば、漏れなく妄想癖のある危険人の扱いを受けるのは当たり前だった。


 一方で、「阿桑田ユリカはこの世界にいない」とだけ語れば、「では死んでいるのか」と突き詰められ、はそうではない事を説明したくとも、最終的には異世界という単語に行き着いてしまう。


 同じ仕事を生業とする三堂果奈代にとって、阿桑田ユリカの行いは絶対に看過出来ぬ「禁忌タブー」であった。




 私達執行者が他人を殺めて良いのは、お金を貰って誰かに頼まれた時だけ。それも相手は、


 輪廻の中で平和に暮らしている人々を殺して、しかも異世界に逃げ込むなんて……赦される訳無い!




 香奈代は膝を抱え、番組終了を報せる司会者の声を聞いた。続いて化粧水のコマーシャルが流れ出す。彼女の愛用するメーカーの新製品だった。


 しかし――今はどうでも良かった。自身の内に眠る「道理」が余所見を許可しない。


 執行者としての正義、弁え、謙虚さ、節度、準縄、掟、鉄則……その一つも阿桑田ユリカは持っていない! 香奈代は瞳を閉じて、阿桑田ユリカの今を思った。


「……テレビ局も、インターネットも……全部駄目なら……」


 抑え切れない正義感は、様々な解消方法を求め、全てが失敗に終わった。時には「頭がおかしいのか」と嘲笑される事もあった。彼女の雇い主であるに対し、「野放しにして良いのか」と仕事終わりに問うた事もある。


 結果は――香菜代を脱力させるものばかりだった。


 時計が二一時半を示す頃……香奈代は膝の間から顔を上げた。


「誰も信じないなら……動こうとしないなら……」


 私が手を下すんだ!


 香奈代はテレビを消し、「明日」に備えて眠る準備を始めた……。

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