第17話

 他国との戦争は、例えば掃除と一緒です。目立つ汚れだけでは満足出来ず、ごく小さな埃の一つも、無いか無いかと探してしまうから。


                    ――ヘニラ・ファーネイ(王妃)――




 住民からこよなく愛された白亜食堂から、この日……いつの間にか「音」が失われた。


 美味い食事と安い酒を提供し続けた店主、ムージルという男は――今ではこめかみに大きな穴を空けられ、濁った目で虚ろに椅子を見つめている。彼に咎は何も無い。しかしながら……「運」が無かった。


 この世界に現れた二人の男女さいがいに、「口封じ」の為だけにその命を奪われた。彼の人生はここで終了となる。なお、元凶たる男女はもういない。


 そして……ムージルのすぐ近くで、やはり運悪く生涯を終えようとする一組の夫婦がいた。逃亡生活に疲れているであろう旧友を助けるべく、平和な生活を捨ててクーノスへとやって来た、「お人好し」の成れの果てがそこにあった。


「…………ルクルク」


 夫――平川修二郎が呟く。「はい」、という言葉は出ず、吐息で返事をする妻――ルクルクに、平川は再度呼び掛けた。


「……ルクルク」


 やはり吐息が聞こえる。声帯を震わせる事が出来ないらしかった。


「ご……ごめんなぁ……」


 平川は涙を流した。後悔してもし切れない、圧倒的な「悔恨」が――自然と平川の涙腺を刺激する。


 平川は……ルクルクに責めて欲しかった。「お前のせいで死ぬ羽目になった」と。「お前と出会わなければ、今でも娼婦として生きていられたのに」と。


 友人だと思っていた男に裏切られ、両手を撃たれ、ゴミのように捨てられた事実よりも、無関係なムージルを、そして――たった一人の愛する妻を死なせてしまう方が辛かった。


 良かれと思い、取った行動が全てが裏目に出てしまう。今後の人生に悪影響を及ぼしかねない失敗であったが、今の平川には関係が無い。間も無く彼の心臓は鼓動を止め、唯の肉塊に変化するからだ。それは妻の獣人ルクルクにも同じ事が言えた。


 救いの無い、最低の結末を迎えた夫婦。彼らの行いを「それでも善行であった」と祝福する者はいなかった。


 やがて――白亜食堂の外壁がメラメラと燃え始めた。出火の原因は、火の気を失った屋内には無い、隠滅とを兼ねた、何者かによる「放火」にあった。


 クーノスの消防団は練度が高い事で有名だったが、丹念に仕込まれた「火種」が活躍している為、彼らが急いて到着する頃には、延焼を防ぐだけが残された選択肢であろう。


 パチパチと爆ぜる音を聞きながら――平川はふと、ルクルクの手がゆっくりと頭の方へ伸びていくのを認めた。


「……ルクルク?」


 しかし答えないルクルク。彼女は暗い目で平川を見やり……。


 優しげに微笑んだ。


 夫がかつて好んだ行動を取るべく、ルクルクは最後の力を振り絞り、平川の頭を自身の胸元へと引き寄せた。


「…………っ」


 ルクルクは喋れない。それでも彼女の取った行動が、そのまま言葉となって夫の耳へと、確実に届いたらしかった。


「……なぁ……ルクルク……ま、また……俺と……一緒に……」


 温かい胸元に顔を埋め、平川は子供のように願った。


 ピクリ、とルクルクの獣耳が動く。彼女は口を小さく、何度か開閉した後……ゆっくりと息絶えた。




 待っています、アナタ。




 数秒後、天井が焼け落ち――二人の上へと落下した。


 メラメラと燃え続ける白亜食堂を、「実行犯」である男女……孝行とユリカが、おおよそ三〇〇メートル離れた位置で見つめていた。


「ユリカ」


「何でしょうか?」


 真っ白なクーノスを赤く照らす炎を、孝行は視線を外す事無く言った。


「戻れないな、俺達」


 孝行の腕に抱き着き、ユリカは柔和な声で返した。


「戻る気も、ありません」

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