第10話

 何故か……権力を手にした男は、次に美女を侍らせ「肉林」を形成する。物事には順序があるのだ、権力の次は「防衛力」が肝要なのに。


                      ――ボビオネ(軍事研究家)――




 クーノス国の巨大市場を巡回する警備兵達は、交代制で束の間の休憩時間を過ごす。孝行も例に漏れず、詰所で一人、ユリカに持たされた弁当箱を広げていたが……。


 毎日グゥ、と存在を主張するが――この日は不在だった。代わりに……不気味に高鳴る心臓の鼓動が、孝行の食欲を急速に減退させていた。




 どうしてヒラカワが……しかも「獣人の妻」を連れて……!




 胸中がざわめき始める。黒い靄、もしくは塊が、好き勝手に動き回るようだった。栄養のバランスを熟考された種々の惣菜も、丁寧に紙で包まれたパンも、今は最早「石」にしか見えない。一口どれかを齧れば、忽ち吐き気に襲われる――孝行は確信していた。


 孝行は数時間前に現れた「ヒラカワ夫妻」について考える。


 何故……二人は自分の居場所を突き止められたのか?


 何故……自分に敵意を持っているはずのヒラカワが、如何にも「旧友」の体を成して現れたのか?


 何故……元の世界に帰りたがっていた男が、妻を――しかも獣人の女――娶っているのか?


「……っ」


 溜息すら吐けない孝行は、飲み放題の薬草茶を少しだけ啜った。温みを持つ液体が移動するのを、胸奥に感じる温感で分かった。


 どうするべきなんだ、俺は――。


 ジッと弁当箱を見つめ、瞬きの回数も次第に減っていく孝行。


 アイツは、俺の事を殺しに来たのかもしれない。しかし……。


 ふと、ヒラカワの傍にいた女――「獣人の妻」を思い出した。




 昨晩にポナの店で揉めていたのは明らかに彼女である、相手も俺の顔を見ているはずだし、獣人は夜目が利く。それに一日で忘れた訳ではあるまい。だが……それならば……どうして今日の挨拶が「昨日もお会いしましたよね」ではなく――「初めまして」なのだろう?




 妄想に近い孝行の推測は、記憶に残るヒラカワ達の笑顔を段々と歪め……。


 遂には――恐るべき「追跡者」へと仕立て上げたのである。




 前に……キティーナと旅をしていた頃、一人の執行者が言っていたはずだ。「お前らを殺せば、元の世界に戻れる」。こうも言っていた、「今回限りは、協力して殺しても良い」と……。


 ならば、あの獣人が「初めまして」と嘯いたのは、何らかの策略があっての事か。例えば彼女が、夫であるヒラカワを出し抜き、報酬を独り占めしようとする「執行者」かもしれない。獣人の姿へと変身する能力を、今でも巧妙に使用している可能性もある。


 策謀にしては余りに稚拙だが、それでも彼女なりの思惑があっての事だとしたら……いや、あながち間違いでは無いかもしれん。あのような「微笑む敵」と、俺は何度も戦って来たではないか。


 待て、待つんだ野口孝行。あの獣人はおっとりとしているようで、実は頭の切れる強敵ではなかろうか。能ある鷹は……という諺もある、だとすると――。


 少なくとも、あの獣人は……。




 器に注がれた薬草茶から立ち上る湯気が消えた頃、孝行は目を見開き、緊張の余り息を切らし、額から脂汗を一筋垂らしていた。


 強迫性障害(OCD、Obsessive Compulsive Disorder)……彼の思考を蝕むのはこれだった。対人関係の悪化、近縁者の死亡、日常的な強い精神的負荷によって引き起こされる不安障害は、通常なら「有り得ない結論」への橋渡しを行う。


 ヒラカワ、そしてその妻が結託、もしくは利用してクーノスへと来訪し、自身を殺しに来た。


 一度でもそのように結論してしまえば、更に「誤解」は加速し、より輪郭を際立たせて孝行へと迫り、血液中に何か恐ろしいものが溶け出すようだった。


 最愛の妻を殺した、と思われる女――阿桑田ユリカと、今では幸せな夫婦の如き生活を送り、しかも「安寧」すら感じている自身への嫌悪感。刻一刻と消えていくキティーナの体温、声、笑顔、柔らかさ……彼女を構成する全要素。


 そして――毎晩隣で眠るユリカが、彼の腕に抱き着き、耳元でこう囁いた。




 この国での生活は幸せですし、とても充実していますけれど……私達を狙って来る敵がいると、忘れてはいけません。冷酷になれ、というのではありません。唯、不安を抱かせるような相手は、すぐに排除しなければ……この世界で生きては行けませんよね。だからこそ、少しでも「異常」に出会った時は、お互いに打ち明けるべきかと。


 本当は、孝行の傍を一時でも離れたくない、一秒でも惜しい。でも……これから生活していく上で、青臭い恋愛観は危険過ぎるのです。恋を覚えた子供のように、ベタベタするだけの関係が続けば……待っているのは悲しい結末だけ。


 自立するところは自立する。助け合うところはキチンと助け合う。一人で問題を抱え込むよりは……ほら、私と孝行は考え方も違うし、生きて来た環境も違うから……ね?


 もしかすると、二人の意見が合わないかもしれない、口論になって落ち込む事もあるかもしれない。それでも私は――。一緒に同じ壁を越えましょう、越えられない時は、一緒に落ち込んじゃいましょう。


 私達の周りは敵ばかり、一瞬でも気を抜けば死んでしまうような、恐怖で満ちた異世界。でも……。


 私を信じて。私も、貴方を信じます。




 孝行は――パンの包みを取り払うと、そのまま猛然と噛み付き、続いて惣菜を食べ始めた。


 休憩時間が終わるまで、残り三〇分程。孝行は業務再開までに訪れるべき場所があった。


 市場からやや離れた位置にある、軽食を販売する店――ゾーマン軽食店であった。

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